これほど茶番を見せられると、うんざりを通り越し、いいかげんにせい、などと大声を返したくなる。自民総裁選だ。かつてない候補乱立と話題にされ、囃し立てられている。その候補の言葉に共通して「ない言葉」がある。
政権政党に席を置く自覚はあるのか。バラ色政策を次々に掲げ、あれもします、これもします…。ならば聞きたい。政権政党の自民の中枢にいながら、なぜその政策が実現できなかったのか、その言葉が9人には、全くない。
耳ざわりの良い言葉の羅列を連日TVや新聞で目にする。なぜ、それが実現できなかったのか、その言葉があれば少なくとも信頼感の回復に結び付き、総裁選での太い選択肢になる可能性があり、シナリオにある衆院選への有権者心理への大きなアピールになるだろう。だが、全くない。
ならば言いたい。9人が掲げる政策・公約を、誰が総裁・首相になってもすべて実現する、そう国民に約束してほしい。それが政権政党の総裁選の最低限の責任ではないのか。薄いバラ色政策が、より現実味を帯びた生活者支援の大きな国の政策になる。
連日報道される総裁候補の言動は、生活者に寄り添う姿勢を見せるが、すぐに馬脚を露す軽さが目立つ。さらに見えるのは、新総裁選びは直後に執行するであろう衆院選の集票シンボル選びの様相だ。「選挙の顔」選びだろう。これこそ有権者を見下した取り組みだ。だからこそ、選ばれた新総裁・首相は9人が掲げる政策全てを実現する、この約束の言葉を求めたい。
それにしても頼りない顔ぶれだ。あの激動期にこの国を作り上げた「角大福時代」を知る世代は感じているだろう。政局が混乱すると必ず出る待望論が「角さんのような政治家」。中卒の大蔵大臣が東大卒の官僚の心を鷲づかみにした言葉が、いま求められている。政治家は言葉だ。さて、さて…。