Category

妻有新聞掲載記事一覧

  • 都心の満開桜、雪と競演

    東京・日八会さくら祭り

    津南町・栄村有志が雪4トン、交流18年目

     〇…満開の桜に雪の風情ある空間が都心に出現した。東京・中央区日本橋・八重洲で行っている「日八会さくら祭り」は今月5~7日に開催。今年も津南町・栄村の有志で作るNPO雪の都GO雪共和国(相澤博文理事長)が6日に約4㌧の雪を持込む。会場は東京駅徒歩5分、中央区内最多の169本の桜は、雪を待っていたかのように満開。雪の滑り台やミニカマクラ、さらに2日間分用として持ち込んだ雪下にんじん3百㌔は半日で完売、急きょ追加を津南町から運ぶなどで盛況だった。

    2024年4月13日号

  • 『建築は芸術』、たまたまの出会い

    神内 隆伍さん(2000年生まれ)

     環境問題を議論した国際会議の場で、「京都議定書締結」会場として世界に知られる国立京都国際会館。その建物の造形が気になりだしたのは高校時代。「あの建物の前に周囲1・5㌔もある大きな池があります。国際会館とその池、あの風景は自然の中に巨大な人工物があるという異物感があると思いますが、私はあの建物と池があるから、あの風景の雰囲気があると感じています」。でも、と続ける。「高校時代は、なんとなく気になる建物であり、風景でした。こうして言語化できるようになったのは、大学に行ってからですね」。国際会館も、あの池「宝ヶ池」も、『たまたま』家の近くにあった。
     『建築は芸術』。
    この視点のままに多摩美術大に進み、環境デザイン学科で建築を専攻。一般的な住宅も「芸術」として見ると、暮らしまで見えてくる。学生時代、東北以外のほぼ全国を巡り、行く先々で「建築」を見た。在学中の作品制作は、自分のルーツや育ちを振り返る契機にもなり、その中から出てきたのが卒論テーマ『自然と人間』。卒業設計ではテーマを具現化した図面と模型を製作。その理念は「『人間』以後の自然/人の関係性」ー自然との一体化をめざしてー。この論点が卒業後、迷いなく『米づくり』へとつながった。
     十日町行きも「たまたま」だった。米づくり、協力隊、このキーワードで検索すると「十日町市」が出てきた。「大地の芸術祭は知っていましたから、先ずは行ってみるか、でした」。入った地域は「北山地区」。田野倉、仙納、莇平の3集落を担当。1年目から思い描いた米づくりが実現。「田んぼ4枚で2畝(2㌃)を、最初の年は耕運しないで、そのまま手で苗を植えました。地元の人たちがとっても温かく迎えてくれ、米づくりも教えて頂き、2年目には少しコツをつかみましたが一朝一夕にはいかないことが、実感として分かりました」。
     だが、苦しい・疲れる・大変の農作業から、「そういう行為からしか得られない快楽が得られた、これはこの作業をしない限り分からなかったことでした」。『建築は芸術』に通じる感覚でもあり、米づくりを「ライフワーク」とするつもりだ。それも、無心で土と向き合う、その行為でなければ得ることができない『快楽』を求めて。
     3月末で地域おこし協力隊を退任。「建築は芸術」に通じる家づくり、こだわり設計の津南町の工務店「大平木工」で5月から働く。「近代以前の建築は、大工さんが自分で設計し家を建てていましたが、最近は設計と建築が分業化されてしまいました。近代以前の建築のあり方に関心があり、先ずは現場から入ります」。

     美大で抱いた「建築は芸術」。その方向性に向かう自分がいる。「これも、たまたま、その方向に向かい始めている、ですね。これからも、たまたま、に出会うことを楽しみにしたいです」。
     協力隊で暮らした田野倉。ここでも「たまたま」の出会いがあり、築後150年余の古民家を譲り受けることになった。地域の「旦那様」の家で、長らく空き家だった。「どう手を入れようかという設計は出来ています。自分でリノベーションしていきます。まさか24歳で家と土地を持つとは思ってなかったですね。これも、たまたまの出会いでしょうか」。
     取材の3日前、突然友だちが家に来て『髪、染めたら』と染め始め、人生初の「ゴールド髪」に。「有無を言わせず、いきなり髪染めが始まったんです」。取材が終わり、「この後、このまま東北の旅に出ます。ノープラン、5月までに帰るつもりです」。
     きっと、旅の先々で新たな「たまたま」が待っているのだろう。
    ◆バトンタッチします。
     「高木良輔さん」

    2024年4月13日号

  • ブナの芽吹き

    中沢 英正(県自然観察保護員)

     4月、ブナが葉を展開する時期だ。妻有の春はこの新緑で本番を迎える。
     植物を撮り始めた頃の1985年から2020年の間、ブナは4月20日前後で芽吹いていた。それがここに来て4月上旬まで早まったなと思っていたら、昨年はなんと3月下旬に見られるまでになった(花をつける年は1週間ほど早まる傾向があるが)。
     この樹木は毎年花をつける訳ではなく、5~7年おきに豊作を迎える。その間にも花をつけるものはあるが、2年続けてつけるものが現れるようになった。この場合果実は未熟なことが多いが…。
     ここ数年、雪の降り方や春先の高温に戸惑いや不安を感じるようになった。それは動植物にとってそれ以上の危機感だろう。
     地球温暖化が叫ばれて久しいがブナの芽吹きが早まったり、頻繁に花をつけるのはそれが原因のひとつなのかもしれない。
     今春も4月初めに芽吹きを確認した。山裾が新緑に包まれるのももうすぐだ。

    2024年4月13日号

  • 何も進んでいない「核のゴミ」

    あれから13年、原発問題

    斎木 文夫 (年金生活者)

     3月30日付け本紙の社説の見出しは『3月議会、なぜなかった原発論議』であった。確かに東電は原発再稼働の準備を着々と進めている。その間、十日町市・津南町議会は何をしていたのか。
     共産党市議団・富井氏は24年度予算案に対する反対討論の冒頭で「柏崎刈羽原発の再稼働に反対し、廃炉を求める」と訴えた。ほかに何かあったのだろうか。
     本紙新年号の名士の「新年のご挨拶」も柏崎刈羽原発再稼働問題に触れたものはなかった。2人の県議には期待していなかったが、原発から30㌔圏内に入る十日町市の市長、隣接する津南町長からは、住民の生命・生業をどう守るのか、何らかのメッセージをいただきたかった。
     能登半島地震後、専門家の話を聞いて、心配になったことがある。
     1つは、今回の地震では4枚の活断層が滑ったことで津波が発生したが、佐渡沖の2枚の活断層はほとんど動かず、今後大きな揺れを引き起こすおそれがあるということ。この活断層の位置は佐渡の西側で、上越沖と言った方が分かりやすい。
     2つ目は、海陸境界の断層は、調査のいわばエアポケットみたいな状態で、調査が進んでいないということ。柏崎刈羽原発敷地内・周辺に活断層があるかどうか、専門家の間で意見が分かれるのも無理はない。
     柏崎刈羽原発再稼働をどう考えたらいいか、事前学習として4月2・3日に福島第1原発事故13年後の姿を見てきた。
     復興庁によると、原発事故による避難者は約2万9千人(2月1日現在)。この中に「自主避難者」は含まれていない。
    帰還困難区域では、部分的に放射能除染をした「特定帰還居住区域」で新しい街づくりが始まっていた。しかし、原発が立地する大熊町の居住者数は646人(事故前の5・6%)、双葉町が102人(同1・4%)しかいない。
     「街」には東電社宅、原発作業員宿舎、町営住宅が並び、人がいなくなった土地には汚染土の袋と太陽光パネルが並ぶ。
     福島第1原発のデブリの取出し、廃炉の工程は見通せず、汚染水は海洋放出に近い量が新たに流入していた。避難者も帰還者も多くが生業を奪われ、厳しい生活が続いている。福島第1原発事故は現在も進行中で、決して過去の出来事ではない。
     今後も想定外の地震や津波が起きる。核のごみを安全に処分する技術はない。そして、ヒトは必ずミスをする。やっぱり、原発の再稼働はダメだ。

    2024年4月13日号

  • 政治不信、衆院選で審判を

     政治不信が深刻だ。衆院選はいつか、そんな話題が遠のきつつあるのは我々の「忘れ症」のせいか。いやいや、これだけ「茶番劇」を見せられると、いかに政治好きでも、いいかげんにせい! となるだろう。政権政党への政権不信が、いまでは対する野党への不信も募り、「政治不信」になってしまっている現実は、相当に根深い。
     新年度になり、何かしらの「期待感」が、桜前線の上昇と共にふんわりとこの国を包んでいるが、何も変わっていないのだ。「国民の生命と財産を守る」のが政治と教わったのは中学時代。いまもその大義は変らないはずだが、託せる政治が行われず、ひたすら「保身政治」がまかり通っている。これでは「政治への信頼を」などとは程遠い。
     選良と呼ばれる議員。新たなに南魚沼市・魚沼市・湯沢町が加わる新5区は、どうなっているのか。政治資金規正法違反で「戒告」処分を受けた自民の衆院現職・高鳥修一氏。公職選挙法違反で刑事告発された立憲の衆院現職・梅谷守氏。ここ5区はどうなるんですか、と問うても答えは返って来ないだろう。
     かつて「田中角栄」という政治家が、「この三国山脈をなくせば、この豪雪地域はこんなに雪が降らなくなる。出た残土は佐渡を陸続きにすればいい」。壮大な話だが、雪に苦しめられた雪国人たちは、その角さんに夢を託し、それに応え様々な雪国対策の法律を作った。なぜ、こうした政治家がいなくなったのか。住民に単に夢を売るだけでなく、それを目の前で実現してくれるのが政治家であり、それを継続するのが政治だろう。
     市町村長も政治家、市町村議員も政治家、だが、本当に政治家なのか、疑問符がいくつも付くトップ、議員が多くなったのは、我々のせいでもある。チェックの甘さ、出しっぱなし、その全てが我々の責任だが…、である。

    2024年4月13日号

  • 現村長対元村長、確執? 静かに熱く

    宮川陣営6日選対開き、森川選対13日総決起集会

     4年前と同じ顔ぶれでの選挙戦が濃厚だ。任期満了(5月14日)に伴う栄村長選は16日告示、21日投開票が決まっている。現職の宮川幹雄村長(70、野田沢)、前回選244票差で敗れた元職・森川浩市氏(64、雪坪)が出馬を表明している。ただ告示日まで10日間となるが、両候補の活動が村民に見えず、「とても静かな村長選挙。本当に選挙があるのか疑問に思うぐらい」など、候補の動きや政策が見えにくい選挙戦に戸惑う声が出ている。人口1570人・高齢化率55・3%(3月末付)と人口減少が進む栄村の4年間の舵取りを誰に任せるのか。有権者の判断に注目が集まる。

    2024年4月6日号

  • 『自分の興味エネルギーのままに』

    廣田 伸子さん(1983年生まれ)

     16歳の時、北海道・紋別でファームスティで牧場で働いた。夕食会の時、その言葉と出会った。『自分の興味に素直になったほうがいいよ』。牧場経営者の友だちも一緒の食事会で、その人はNHKを退職し、夫婦で紋別で暮らしていた。中学を出たばかりの16歳には、興味深い話ばかりだった。小学卒業後、親に長文の手紙を書いて願った埼玉の「自由の森学園」に入り、卒業後、東京の劇団やタイへのバックパックの旅などを話すと、その人は『自分の興味に…』と話した。「そういうことなのか…」と、ストンと胸に落ちる言葉だった。
     十日町生まれ。
    17歳の時には沖縄の高校に通い、沖縄の歴史、習俗や文化に触れ、民俗の研究者になろうとひらめく。「ちょっと違う角度で見ると、こんなにも違う世界があるんだと。それを見つけ出すことをしたい」と文化人類学をめざし、高校の英語教諭の橋渡しでネパールへ。フィールドワークがある現地の大学に入り、村々を回った。
     大学3年間でネパール語を習得、卒業後に一端帰国するが、海外協力隊に応募するとネパール担当にすぐ決まり、2年間の活動後、JICA(ジャイカ)に就職。日本のNGOと現地NGOをつなぐコーディネイト役を担いカトマンズに3年間駐在。「山が最高にきれいでしたね」。現地ではセーブ・ザ・チルドレンなど両国での9件のプロジェクトに取り組んだ。
     探求はさらに続く。日本財団の奨学生に受かり、フィリピンとコスタリカの国連大学で国際政治学や持続可能経済開発学を学ぶ。「キャリアアップをめざしたんですが、それ以上に人と接するのが好きで、現地の人たちとの出会いや交流が最高でした」。
     自分を突き動かすエネルギーのままに国外での活動を続けるなかで、ふと感じた。「キャリアを積んでいくと、そのキャリアに引っ張られてしまう。本当にやりたいことから外れていくような感じがしたんです」。違う何かへの興味が湧いてくるのを感じた。北海道で出会った、あの言葉がよみがえった。
     十日町に帰った時、ち
    ょうど大地の芸術祭開催の年だった。実家の農家民宿を手伝う中で、「自分でプロジェクトを立ち上げるのも楽しそうだな」、さらに「自分で好きなようにしてみたい」。 清津峡入口の小出集落に空き家を見つけた。「人から人につながり、この家のリノベーションには本当に様々な人たちが関わってくれ、皆さんほぼ手弁当でした。亡くなっちゃいましたが、棟梁・樋口武さんも病気を推して最後まで『こだわり』で作り続け、この家の随所に見られますよ」。
     『Tani House Itaya』(谷ハウスいたや)。清津峡渓谷の谷、その清流、清津川の脇に立つ。屋根裏まで吹き抜け、黒光りする階段を登ると中二階の廊下から囲炉裏がある居間が見下ろせる。歴史を感じる太い梁に漆喰壁、「ずっと居たくなる空間」がそこにある。
     「昨年の夏、オランダからの家族が1ヵ月滞在し、台湾の家族も1週間居ました。国内からも家族が来て、ここの自然を楽しんでいます」。宿泊は『1棟貸し』。まるごと家を借りられ、我が家のようにリラックスして過ごせる魅力は大きい。
     13歳で家を離れ、自分の興味エネルギーのままに動いてきた。「ふりきった、かなぁ、ですね」。10代からの歩みは相当な振れ幅の時間。まだ振れは続いているようだ。「来年は、ここに居ないかもしれませんねぇ」、冗談の笑顔は、まだエネルギーでいっぱいだ。
    ◆バトンタッチします。
     「神内隆伍さん」

    2024年4月6日号

  • 「ご近所付き合いの大切さ」力説

    「激震お見舞い」を考える

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     能登大地震から程なく四ヵ月になろうとした頃、やっと電話がかけられた。
     元日に起きた能登地震、わが長男の嫁さんの実家も小松市にあって、大騒ぎになった。彼女を通じて小松の皆様は、とりあえずはご無事である事はすぐわかった。
     もう一人案じた人が居た。十日町在住の昔から親交のあった知人が能登七尾市にお住まいだ。携帯番号は知らない。TVに映し出される様子は、目を覆うばかり。電話すべきではない状況と判断し、しばらく経ってからと思った。一向に状況は良くならない。もし電話が通じても、どう話したらよいのか? どんな状況なのか? とても聞けそうもない。折に触れてのカンパをする位しか出来なかった。
     後ろめたさにつぶされそうになりながら、時だけは容赦なく過ぎた。三月末、恐る恐る電話した。それでも明るい元気そうな声で奥様が出て下さった。ご主人は農業をなさっているので、夜七時半位だったが既に床に就かれたとか。
     奥様は少し興奮気味で、状況を少しずつ話して下さった。避難所から帰宅したばかり。未だ家は壊れたままの所もあり、不自由な事ばかりだとか。近所で助け合ってなんとか暮らしています。ご近所の有難さを実感しています。とおっしゃった。
     電話を切って、ほっとする部分があり、結局は自分の気休めである事に気が付き、また後ろめたさに責められている。
     阪神淡路の時は友人知人が大勢いるので本当に心配した。メディアは盛んに〈不要不急の電話は掛けるな〉と声を大にする。が、絶対必要なのだからと言い訳しつつ、かけまくった。全く繋がらない。
     次は中越地震。十日町にも友人知人ばかり、電話を掛けまくったがやはりダメ。ある瞬間、繋がった。あまりに寒いので防寒具を取りに来たところよ、みんな無事だから安心してと言われた。その次は熊本地震。娘婿さんの実家。娘夫婦を通じて皆さんの無事を知る事ができホッとした。
     阪神淡路大震災の後、ボランティア元年と言われ、いろんな事が少しずつ定義づけられるようになった。ボランティア活動はわが身の事は全部我が身で処し、被災者に迷惑をかけない事を大前提とする。年を重ねた今となっては、お見舞いに行く事も差し控えねばならない。
     全国あちこちで地震が起き、無事・安全な地域はないみたい。いつ我が身に降りかかるかもしれない。七尾の奥様はご近所付き合いの大切さを力説。千葉も揺れているみたいだから気を付けてね、と反対に注意された。現在の当地は、ご近所付き合いが希薄。大問題だ。

    2024年4月6日号

  • 軌道と灌漑水路

    小林 幸一(津南案内人)

     津南町自然に親しむ会のスノーシ
    ュートレッキングで穴藤の鉄橋跡を見た際に、対岸にも石垣のような遺構が残っているので調査しようにも川は渡れず、周囲は崖に囲まれているので、翌週に見玉の石落としの方から向かってみました。
     法務局の地図ビューアーでは百年前と思われる山道が登記されているので、残雪の中に旧道を探し、荒れ果てた山道を川原まで降りると灌漑水路跡や軌道跡がハッキリと残っていました。
     中津川電源開発では新潟県知事から水利使用の許可が下りた際に、正面ヶ原への旧用水への補給が義務付けられていましたが、工事軌道と合わせて工事をしたために8カ所の隧道の管理上の問題や、中津川に近いことから大水で何度も流されました。
     他にも水門の開閉権が電力会社側にあったことから十分な用水は得られず幾度も水不足になりました。(津南町史より)
     今までの
    写真エッセイの中から中津川発電所工事をまとめたレポートが「津南学vol.12」の中に掲載して頂きました。「秋山郷の電源開発―百年後の出逢い」と題した33ページに及ぶ集大成ですので興味のある方はご覧ください。

    2024年4月6日号

  • 小さな集落の古民家パン屋さん

    津南町鹿渡新田「ヤナギヤ」

    国産小麦と旬食材、金谷夫妻11日オープン

     築120年余の古民家にパン屋さんがオープンする。津南町と十日町市の境にある、12世帯が暮らす津南町鹿渡新田。その一角にパンとお菓子の店『ヤナギヤ』が今月11日オープンする。店主の金谷日向さん(34)は「この地域の皆さんにとってのちょっとしたお出かけ先のひとつになりたいですね。地域の元気や楽しみに繋がる場所になれれば」と笑顔をみせる。日向さんがパンやお菓子を作り、夫の恭平さん(31)がサポート。小さな集落に生まれるパン屋さんの取り組みが関心を呼んでいる。

    2024年4月6日号

  • 都心の満開桜、雪と競演

    東京・日八会さくら祭り

    津南町・栄村有志が雪4トン、交流18年目

     〇…満開の桜に雪の風情ある空間が都心に出現した。東京・中央区日本橋・八重洲で行っている「日八会さくら祭り」は今月5~7日に開催。今年も津南町・栄村の有志で作るNPO雪の都GO雪共和国(相澤博文理事長)が6日に約4㌧の雪を持込む。会場は東京駅徒歩5分、中央区内最多の169本の桜は、雪を待っていたかのように満開。雪の滑り台やミニカマクラ、さらに2日間分用として持ち込んだ雪下にんじん3百㌔は半日で完売、急きょ追加を津南町から運ぶなどで盛況だった。

    2024年4月13日号

  • 『建築は芸術』、たまたまの出会い

    神内 隆伍さん(2000年生まれ)

     環境問題を議論した国際会議の場で、「京都議定書締結」会場として世界に知られる国立京都国際会館。その建物の造形が気になりだしたのは高校時代。「あの建物の前に周囲1・5㌔もある大きな池があります。国際会館とその池、あの風景は自然の中に巨大な人工物があるという異物感があると思いますが、私はあの建物と池があるから、あの風景の雰囲気があると感じています」。でも、と続ける。「高校時代は、なんとなく気になる建物であり、風景でした。こうして言語化できるようになったのは、大学に行ってからですね」。国際会館も、あの池「宝ヶ池」も、『たまたま』家の近くにあった。
     『建築は芸術』。
    この視点のままに多摩美術大に進み、環境デザイン学科で建築を専攻。一般的な住宅も「芸術」として見ると、暮らしまで見えてくる。学生時代、東北以外のほぼ全国を巡り、行く先々で「建築」を見た。在学中の作品制作は、自分のルーツや育ちを振り返る契機にもなり、その中から出てきたのが卒論テーマ『自然と人間』。卒業設計ではテーマを具現化した図面と模型を製作。その理念は「『人間』以後の自然/人の関係性」ー自然との一体化をめざしてー。この論点が卒業後、迷いなく『米づくり』へとつながった。
     十日町行きも「たまたま」だった。米づくり、協力隊、このキーワードで検索すると「十日町市」が出てきた。「大地の芸術祭は知っていましたから、先ずは行ってみるか、でした」。入った地域は「北山地区」。田野倉、仙納、莇平の3集落を担当。1年目から思い描いた米づくりが実現。「田んぼ4枚で2畝(2㌃)を、最初の年は耕運しないで、そのまま手で苗を植えました。地元の人たちがとっても温かく迎えてくれ、米づくりも教えて頂き、2年目には少しコツをつかみましたが一朝一夕にはいかないことが、実感として分かりました」。
     だが、苦しい・疲れる・大変の農作業から、「そういう行為からしか得られない快楽が得られた、これはこの作業をしない限り分からなかったことでした」。『建築は芸術』に通じる感覚でもあり、米づくりを「ライフワーク」とするつもりだ。それも、無心で土と向き合う、その行為でなければ得ることができない『快楽』を求めて。
     3月末で地域おこし協力隊を退任。「建築は芸術」に通じる家づくり、こだわり設計の津南町の工務店「大平木工」で5月から働く。「近代以前の建築は、大工さんが自分で設計し家を建てていましたが、最近は設計と建築が分業化されてしまいました。近代以前の建築のあり方に関心があり、先ずは現場から入ります」。

     美大で抱いた「建築は芸術」。その方向性に向かう自分がいる。「これも、たまたま、その方向に向かい始めている、ですね。これからも、たまたま、に出会うことを楽しみにしたいです」。
     協力隊で暮らした田野倉。ここでも「たまたま」の出会いがあり、築後150年余の古民家を譲り受けることになった。地域の「旦那様」の家で、長らく空き家だった。「どう手を入れようかという設計は出来ています。自分でリノベーションしていきます。まさか24歳で家と土地を持つとは思ってなかったですね。これも、たまたまの出会いでしょうか」。
     取材の3日前、突然友だちが家に来て『髪、染めたら』と染め始め、人生初の「ゴールド髪」に。「有無を言わせず、いきなり髪染めが始まったんです」。取材が終わり、「この後、このまま東北の旅に出ます。ノープラン、5月までに帰るつもりです」。
     きっと、旅の先々で新たな「たまたま」が待っているのだろう。
    ◆バトンタッチします。
     「高木良輔さん」

    2024年4月13日号

  • ブナの芽吹き

    中沢 英正(県自然観察保護員)

     4月、ブナが葉を展開する時期だ。妻有の春はこの新緑で本番を迎える。
     植物を撮り始めた頃の1985年から2020年の間、ブナは4月20日前後で芽吹いていた。それがここに来て4月上旬まで早まったなと思っていたら、昨年はなんと3月下旬に見られるまでになった(花をつける年は1週間ほど早まる傾向があるが)。
     この樹木は毎年花をつける訳ではなく、5~7年おきに豊作を迎える。その間にも花をつけるものはあるが、2年続けてつけるものが現れるようになった。この場合果実は未熟なことが多いが…。
     ここ数年、雪の降り方や春先の高温に戸惑いや不安を感じるようになった。それは動植物にとってそれ以上の危機感だろう。
     地球温暖化が叫ばれて久しいがブナの芽吹きが早まったり、頻繁に花をつけるのはそれが原因のひとつなのかもしれない。
     今春も4月初めに芽吹きを確認した。山裾が新緑に包まれるのももうすぐだ。

    2024年4月13日号

  • 何も進んでいない「核のゴミ」

    あれから13年、原発問題

    斎木 文夫 (年金生活者)

     3月30日付け本紙の社説の見出しは『3月議会、なぜなかった原発論議』であった。確かに東電は原発再稼働の準備を着々と進めている。その間、十日町市・津南町議会は何をしていたのか。
     共産党市議団・富井氏は24年度予算案に対する反対討論の冒頭で「柏崎刈羽原発の再稼働に反対し、廃炉を求める」と訴えた。ほかに何かあったのだろうか。
     本紙新年号の名士の「新年のご挨拶」も柏崎刈羽原発再稼働問題に触れたものはなかった。2人の県議には期待していなかったが、原発から30㌔圏内に入る十日町市の市長、隣接する津南町長からは、住民の生命・生業をどう守るのか、何らかのメッセージをいただきたかった。
     能登半島地震後、専門家の話を聞いて、心配になったことがある。
     1つは、今回の地震では4枚の活断層が滑ったことで津波が発生したが、佐渡沖の2枚の活断層はほとんど動かず、今後大きな揺れを引き起こすおそれがあるということ。この活断層の位置は佐渡の西側で、上越沖と言った方が分かりやすい。
     2つ目は、海陸境界の断層は、調査のいわばエアポケットみたいな状態で、調査が進んでいないということ。柏崎刈羽原発敷地内・周辺に活断層があるかどうか、専門家の間で意見が分かれるのも無理はない。
     柏崎刈羽原発再稼働をどう考えたらいいか、事前学習として4月2・3日に福島第1原発事故13年後の姿を見てきた。
     復興庁によると、原発事故による避難者は約2万9千人(2月1日現在)。この中に「自主避難者」は含まれていない。
    帰還困難区域では、部分的に放射能除染をした「特定帰還居住区域」で新しい街づくりが始まっていた。しかし、原発が立地する大熊町の居住者数は646人(事故前の5・6%)、双葉町が102人(同1・4%)しかいない。
     「街」には東電社宅、原発作業員宿舎、町営住宅が並び、人がいなくなった土地には汚染土の袋と太陽光パネルが並ぶ。
     福島第1原発のデブリの取出し、廃炉の工程は見通せず、汚染水は海洋放出に近い量が新たに流入していた。避難者も帰還者も多くが生業を奪われ、厳しい生活が続いている。福島第1原発事故は現在も進行中で、決して過去の出来事ではない。
     今後も想定外の地震や津波が起きる。核のごみを安全に処分する技術はない。そして、ヒトは必ずミスをする。やっぱり、原発の再稼働はダメだ。

    2024年4月13日号

  • 政治不信、衆院選で審判を

     政治不信が深刻だ。衆院選はいつか、そんな話題が遠のきつつあるのは我々の「忘れ症」のせいか。いやいや、これだけ「茶番劇」を見せられると、いかに政治好きでも、いいかげんにせい! となるだろう。政権政党への政権不信が、いまでは対する野党への不信も募り、「政治不信」になってしまっている現実は、相当に根深い。
     新年度になり、何かしらの「期待感」が、桜前線の上昇と共にふんわりとこの国を包んでいるが、何も変わっていないのだ。「国民の生命と財産を守る」のが政治と教わったのは中学時代。いまもその大義は変らないはずだが、託せる政治が行われず、ひたすら「保身政治」がまかり通っている。これでは「政治への信頼を」などとは程遠い。
     選良と呼ばれる議員。新たなに南魚沼市・魚沼市・湯沢町が加わる新5区は、どうなっているのか。政治資金規正法違反で「戒告」処分を受けた自民の衆院現職・高鳥修一氏。公職選挙法違反で刑事告発された立憲の衆院現職・梅谷守氏。ここ5区はどうなるんですか、と問うても答えは返って来ないだろう。
     かつて「田中角栄」という政治家が、「この三国山脈をなくせば、この豪雪地域はこんなに雪が降らなくなる。出た残土は佐渡を陸続きにすればいい」。壮大な話だが、雪に苦しめられた雪国人たちは、その角さんに夢を託し、それに応え様々な雪国対策の法律を作った。なぜ、こうした政治家がいなくなったのか。住民に単に夢を売るだけでなく、それを目の前で実現してくれるのが政治家であり、それを継続するのが政治だろう。
     市町村長も政治家、市町村議員も政治家、だが、本当に政治家なのか、疑問符がいくつも付くトップ、議員が多くなったのは、我々のせいでもある。チェックの甘さ、出しっぱなし、その全てが我々の責任だが…、である。

    2024年4月13日号

  • 現村長対元村長、確執? 静かに熱く

    宮川陣営6日選対開き、森川選対13日総決起集会

     4年前と同じ顔ぶれでの選挙戦が濃厚だ。任期満了(5月14日)に伴う栄村長選は16日告示、21日投開票が決まっている。現職の宮川幹雄村長(70、野田沢)、前回選244票差で敗れた元職・森川浩市氏(64、雪坪)が出馬を表明している。ただ告示日まで10日間となるが、両候補の活動が村民に見えず、「とても静かな村長選挙。本当に選挙があるのか疑問に思うぐらい」など、候補の動きや政策が見えにくい選挙戦に戸惑う声が出ている。人口1570人・高齢化率55・3%(3月末付)と人口減少が進む栄村の4年間の舵取りを誰に任せるのか。有権者の判断に注目が集まる。

    2024年4月6日号

  • 『自分の興味エネルギーのままに』

    廣田 伸子さん(1983年生まれ)

     16歳の時、北海道・紋別でファームスティで牧場で働いた。夕食会の時、その言葉と出会った。『自分の興味に素直になったほうがいいよ』。牧場経営者の友だちも一緒の食事会で、その人はNHKを退職し、夫婦で紋別で暮らしていた。中学を出たばかりの16歳には、興味深い話ばかりだった。小学卒業後、親に長文の手紙を書いて願った埼玉の「自由の森学園」に入り、卒業後、東京の劇団やタイへのバックパックの旅などを話すと、その人は『自分の興味に…』と話した。「そういうことなのか…」と、ストンと胸に落ちる言葉だった。
     十日町生まれ。
    17歳の時には沖縄の高校に通い、沖縄の歴史、習俗や文化に触れ、民俗の研究者になろうとひらめく。「ちょっと違う角度で見ると、こんなにも違う世界があるんだと。それを見つけ出すことをしたい」と文化人類学をめざし、高校の英語教諭の橋渡しでネパールへ。フィールドワークがある現地の大学に入り、村々を回った。
     大学3年間でネパール語を習得、卒業後に一端帰国するが、海外協力隊に応募するとネパール担当にすぐ決まり、2年間の活動後、JICA(ジャイカ)に就職。日本のNGOと現地NGOをつなぐコーディネイト役を担いカトマンズに3年間駐在。「山が最高にきれいでしたね」。現地ではセーブ・ザ・チルドレンなど両国での9件のプロジェクトに取り組んだ。
     探求はさらに続く。日本財団の奨学生に受かり、フィリピンとコスタリカの国連大学で国際政治学や持続可能経済開発学を学ぶ。「キャリアアップをめざしたんですが、それ以上に人と接するのが好きで、現地の人たちとの出会いや交流が最高でした」。
     自分を突き動かすエネルギーのままに国外での活動を続けるなかで、ふと感じた。「キャリアを積んでいくと、そのキャリアに引っ張られてしまう。本当にやりたいことから外れていくような感じがしたんです」。違う何かへの興味が湧いてくるのを感じた。北海道で出会った、あの言葉がよみがえった。
     十日町に帰った時、ち
    ょうど大地の芸術祭開催の年だった。実家の農家民宿を手伝う中で、「自分でプロジェクトを立ち上げるのも楽しそうだな」、さらに「自分で好きなようにしてみたい」。 清津峡入口の小出集落に空き家を見つけた。「人から人につながり、この家のリノベーションには本当に様々な人たちが関わってくれ、皆さんほぼ手弁当でした。亡くなっちゃいましたが、棟梁・樋口武さんも病気を推して最後まで『こだわり』で作り続け、この家の随所に見られますよ」。
     『Tani House Itaya』(谷ハウスいたや)。清津峡渓谷の谷、その清流、清津川の脇に立つ。屋根裏まで吹き抜け、黒光りする階段を登ると中二階の廊下から囲炉裏がある居間が見下ろせる。歴史を感じる太い梁に漆喰壁、「ずっと居たくなる空間」がそこにある。
     「昨年の夏、オランダからの家族が1ヵ月滞在し、台湾の家族も1週間居ました。国内からも家族が来て、ここの自然を楽しんでいます」。宿泊は『1棟貸し』。まるごと家を借りられ、我が家のようにリラックスして過ごせる魅力は大きい。
     13歳で家を離れ、自分の興味エネルギーのままに動いてきた。「ふりきった、かなぁ、ですね」。10代からの歩みは相当な振れ幅の時間。まだ振れは続いているようだ。「来年は、ここに居ないかもしれませんねぇ」、冗談の笑顔は、まだエネルギーでいっぱいだ。
    ◆バトンタッチします。
     「神内隆伍さん」

    2024年4月6日号

  • 「ご近所付き合いの大切さ」力説

    「激震お見舞い」を考える

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     能登大地震から程なく四ヵ月になろうとした頃、やっと電話がかけられた。
     元日に起きた能登地震、わが長男の嫁さんの実家も小松市にあって、大騒ぎになった。彼女を通じて小松の皆様は、とりあえずはご無事である事はすぐわかった。
     もう一人案じた人が居た。十日町在住の昔から親交のあった知人が能登七尾市にお住まいだ。携帯番号は知らない。TVに映し出される様子は、目を覆うばかり。電話すべきではない状況と判断し、しばらく経ってからと思った。一向に状況は良くならない。もし電話が通じても、どう話したらよいのか? どんな状況なのか? とても聞けそうもない。折に触れてのカンパをする位しか出来なかった。
     後ろめたさにつぶされそうになりながら、時だけは容赦なく過ぎた。三月末、恐る恐る電話した。それでも明るい元気そうな声で奥様が出て下さった。ご主人は農業をなさっているので、夜七時半位だったが既に床に就かれたとか。
     奥様は少し興奮気味で、状況を少しずつ話して下さった。避難所から帰宅したばかり。未だ家は壊れたままの所もあり、不自由な事ばかりだとか。近所で助け合ってなんとか暮らしています。ご近所の有難さを実感しています。とおっしゃった。
     電話を切って、ほっとする部分があり、結局は自分の気休めである事に気が付き、また後ろめたさに責められている。
     阪神淡路の時は友人知人が大勢いるので本当に心配した。メディアは盛んに〈不要不急の電話は掛けるな〉と声を大にする。が、絶対必要なのだからと言い訳しつつ、かけまくった。全く繋がらない。
     次は中越地震。十日町にも友人知人ばかり、電話を掛けまくったがやはりダメ。ある瞬間、繋がった。あまりに寒いので防寒具を取りに来たところよ、みんな無事だから安心してと言われた。その次は熊本地震。娘婿さんの実家。娘夫婦を通じて皆さんの無事を知る事ができホッとした。
     阪神淡路大震災の後、ボランティア元年と言われ、いろんな事が少しずつ定義づけられるようになった。ボランティア活動はわが身の事は全部我が身で処し、被災者に迷惑をかけない事を大前提とする。年を重ねた今となっては、お見舞いに行く事も差し控えねばならない。
     全国あちこちで地震が起き、無事・安全な地域はないみたい。いつ我が身に降りかかるかもしれない。七尾の奥様はご近所付き合いの大切さを力説。千葉も揺れているみたいだから気を付けてね、と反対に注意された。現在の当地は、ご近所付き合いが希薄。大問題だ。

    2024年4月6日号

  • 軌道と灌漑水路

    小林 幸一(津南案内人)

     津南町自然に親しむ会のスノーシ
    ュートレッキングで穴藤の鉄橋跡を見た際に、対岸にも石垣のような遺構が残っているので調査しようにも川は渡れず、周囲は崖に囲まれているので、翌週に見玉の石落としの方から向かってみました。
     法務局の地図ビューアーでは百年前と思われる山道が登記されているので、残雪の中に旧道を探し、荒れ果てた山道を川原まで降りると灌漑水路跡や軌道跡がハッキリと残っていました。
     中津川電源開発では新潟県知事から水利使用の許可が下りた際に、正面ヶ原への旧用水への補給が義務付けられていましたが、工事軌道と合わせて工事をしたために8カ所の隧道の管理上の問題や、中津川に近いことから大水で何度も流されました。
     他にも水門の開閉権が電力会社側にあったことから十分な用水は得られず幾度も水不足になりました。(津南町史より)
     今までの
    写真エッセイの中から中津川発電所工事をまとめたレポートが「津南学vol.12」の中に掲載して頂きました。「秋山郷の電源開発―百年後の出逢い」と題した33ページに及ぶ集大成ですので興味のある方はご覧ください。

    2024年4月6日号

  • 小さな集落の古民家パン屋さん

    津南町鹿渡新田「ヤナギヤ」

    国産小麦と旬食材、金谷夫妻11日オープン

     築120年余の古民家にパン屋さんがオープンする。津南町と十日町市の境にある、12世帯が暮らす津南町鹿渡新田。その一角にパンとお菓子の店『ヤナギヤ』が今月11日オープンする。店主の金谷日向さん(34)は「この地域の皆さんにとってのちょっとしたお出かけ先のひとつになりたいですね。地域の元気や楽しみに繋がる場所になれれば」と笑顔をみせる。日向さんがパンやお菓子を作り、夫の恭平さん(31)がサポート。小さな集落に生まれるパン屋さんの取り組みが関心を呼んでいる。

    2024年4月6日号