コクる、レベチも、セカチューも、マグルも知らない

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世代間ギャップ、どうするジジババ

長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

 昔になるが、山口県の友人と広島県尾道で落ち合い瀬戸内海に浮かぶ小さな島を訪ねた。その時、尾道で居酒屋に入って久しぶりに思い出話に花を咲かせていた。
 酔った勢いで若いアルバイトのお姉さんに「あの、寅次郎って知ってる」と余計なことを聞いた事があった。思えば失礼な話だが、お姉さんは「しらない」と答えた。おどろいて「男はつらいよのフーテンの寅だよ」と聞き直したが、やはり知らないという。
 少しおどろいた。今時の人は常識がないなと感じながらホテルに帰った。いま思うとあれは知っていても答えるのが面倒で知らない人と関わりたくないと云うことだと気がつくのだが、ジジババが入った今の私は逆に若い人の常識的な知識がまったくわからない。
 飲み屋に座って隣から聞こえてくる(レベチもコクるもセカチューもマグルも)分からない。オタクというのは分かるが、そこから進化した新しい言葉が分からない。オタクという人たちが話す漫画の名前も鉄腕アトムやウルトラマンあたりまでは分かるが、逆に「おじいさん レベチって分かる」と聞かれたら答えようがない。
 事ほどさように時代の変化を実感することになる。「勉強してなかったからな〜」。
 もっとも私の若かった時、夢中になって覚えたこむずかしい知識などは、今の多くの人にとっては関心がなく、急速に進む時代に取り残されているのは、ジジババが入った私だったのかと感じてしまった。
 夢中になって競争するように覚え読んだのだがそれら作家の名前や作品、映像の記憶や美術館で見た絵画などは、今の人達にとってはどうでもよいことで、それを大切に知識や常識だと思っている私がすでに無知識、非常識なのだと感じるようになった。
 パソコンやスマホの知識だって、今時の小学生より劣っている。こうして時代は進んで行き、ページがめくられて高齢者たちは別人格としてくくられていくのだろう。
 もっとも時代が進んで若者に私と同じようなジジババが入ってくるときに、ページがめくられて終わった人たちとして、ひとかたまりにくくられて行く。
 世代間のギャップは常時更新されて行くのは当たり前のことで、そうなると今のジジババたちは旧世代人として、より古いものを抱え込んでいくしかないのだろう。
 面白いもので私の親の世代も自動車が身近になっておどろき、各家庭に電話がひけておどろき、パソコンの出現におどろきしたのだ。
 ただ残念なのはノーベル文学賞の川端康成も大江健三郎も知識として残るだけで、文体もその生き方も記憶の外にはみ出して行ってしまうことだ。
 おもえばずいぶんと呑気な時代を過ごさせてもらった。私としてはコクる、レベチ、セカチューも知らない世代の中に耽溺して平和な時代が続くことを願いつつ、死神が脇に立って「お前の番だよ」と告げられて、最後の時を迎えた方がストレスがなくて十分幸せということだと思い至った。 池波正太郎やつげ義春や海音寺潮五郎の小説本を引っ張り出して、老眼鏡を杖に、その時まで酒もタバコも再開して生きてやるしかないだろう。
 ときに「コクる」は告白することだって!

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