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ひとから人からヒトへ一覧

  • 『居心地の良さ、住み続けたい』

    原 拓矢さん(1994年生まれ)

     「なにか、しっくりこない」。こんな風に感じる日々は誰にもある。その時、どう動くかで、その後の時間は大きく変わる。立教大で社会学を学び就職した会社は「全農パールライス」。米を扱う国内大手で輸出分野でも大きなシェアを持つ。2年ほど在職し、さらに数社で働くなかで「しっくりこない」と感じ始めた。そこで自分を動かしたのは「農業がしたい」という内なる声だった。だが、移住となると二の足を踏んだ。そこでさらに内なる声が聞こえた。「やりたいことをやらなきゃ、後悔する」。
     地域おこし協力隊制度を知り、リサーチを始めると福島や山梨、新潟で農業分野の協力隊を募集していた。「各地へ行き、いろいろ見ましたが、十日町の鉢や中手に来た時、直感的ですが、ピンときました。ここだと」。
     2022年1月、真冬のお試し体験に入った。「全くの初めての私を、いつも会っているように歓迎していただき、地元の皆さんの人の良さが決め手でした」。

     その年の4月、吉田地区の鉢・中手を担当する地域おこし協力隊で赴任。吉田地区には協力隊の先輩、山口洋樹さんが地域支援員として活動している。「中手集落は5世帯6人です。でも水田を耕作する人は3人、70代、80代の方です。この先を考えると担い手不足は明らかで、自分に何ができるのか、すこしでも力になりたい、という思いと農業がしたい、その結果の吉田地区でしょうか」。 いまは鉢集落に住み、来年3月の任期満了後も暮らし続け、中手の田んぼを受けて米づくりをするつもりだ。いまは40㌃ほどを手伝い耕作する。
     なぜ農業、米づくりなのか。全農パールライス時代に感じたのは、「自分で作ったものではなく、営業していてもしっくりこなかったんです。自分で作った米を、自信を持って提供していきたい、その思いが強くなっていきました」。時々、両親が暮らす埼玉・川越に帰るが、「どうも人がいっぱいいる所が苦手なんです。生まれ育った川越には友だちもいて、近所付き合いもありますが、ここで2年間暮らし、感じているのは『いざという時の強さ』でしょうか。災害など起こった時も、こちらでは生きていける強さがあります。これは生きる安心感にもつながります。それに居心地の良さですね」。

     今夏は第9回大地の芸術祭。暮らす鉢集落には絵本作家・田島征三氏の『絵本と木の実の美術館』がある。芸術祭で人気トップ級の拠点だ。「田島さんには何度もお会いしていますが、あの飾らない、いつも自然体の人柄はいいですね」。
     昨年初めて自作の米を自炊で食べた。「美味しかったですね。中手は山からの水でコメ作りをしていますから、標高も400㍍余りで良いコメができるようです。もうご飯だけでも充分です」。
     自炊生活も3年目、レトルトや冷凍品などからは遠ざかり、「近所の方が玄関先に野菜を置いていってくれたり、ありがたいです」。身長188㌢は、高い所の用事など何かと声もかかる。
     「毎日が仕事で、毎日がプライベートの時間、そんな毎日ですが、居心地の良さは、なにものにも代えがたいですね」。
    ◆バトンタッチします。
     「小林舞さん」

    2024年4月27日号

  • 『クワガタに魅せられ』

    髙木 良輔さん(1994年生まれ)

     その体験が、いまもベースにある。小学2年の夏休み、祖父と兄、2人の従兄と一緒に早朝のクワガタ・カブトムシ採りに行った。母の実家、茨城・古河市の自然は、小学生には魅力的な地だった。
     「もともと、一つのものに対して執着心を持って、深めていくことが好きな子でしたので、虫を長い時間じっと見ていたりしていました」。
     クワガタ。その生態をどんどん知りたくなり、小学時代で専門誌や昆虫図鑑を見て情報を集め、家族旅行の行先も自然を求めての旅。飼育と養殖にも取り組んだ。だが中学生になり、「周りは音楽や不良カルチャーが関心でしたから、友だちには分からないように話題にはせず、ひっそりと自分だけでやっていました」。 さらに高校時代も進学先に生物部がなく、ここでも「ひとりの世界」だった。だが「自宅から高校まで往復26㌔、自転車通学していましたから、把握できる地点が多くなり、あそこに行けばクワガタがいるなど通学が自然散策でした。帰りが夜8時を過ぎることもありました」。
     クワガタへの関心と共に、鉄道を通じて全国の地名への関心も並行して高まり、進んだ専修大・環境地理学科では各地へ演習に行くことで、さらにクワガタとのつながりが濃くなっていった。「全国を旅しました。これまでに47都道府県のうち山口、宮崎以外の45都道府県に行っています。その先々で、知らないことへの関心がさらに深まっています」。 その学生時代。飼育・養殖をアパートで行い、百匹近くを飼育。整然と積み上げられた収納箱を見た学友は「こんな部屋は初めて」と驚かれたというが、いまはさらに種類も数も増えている。

     『クワガタを身近に観察できる環境に暮らしたい』。その契機は2020年6月に訪れた。一つの場所で一夜で50匹以上のミヤマクワガタと出会った。その地は湯沢町だったが、魚沼エリアを調べると十日町地域にはさらに魅力的な自然環境があることが分かった。2021年4月から地域おこし協力隊で十日町に入り、松代中部地区(松代田沢・小荒戸・菅刈・太平・千年・青葉・池尻の7集落)を担当、今春3月で退任。旧松代町内に定住している。
     協力隊の3年目、2023年8月。十日町市と友好交流する世田谷区民祭で「クワガタ・カブトムシ」を出品した。「対面販売をしたんですが、子どもたちの反応がとてもよく、その時、クワガタを求めた家族とは今も交流が続いています」。 この時の好感触で「クワガタでやれるかも」と飼育・養殖・販売の強い手応えを掴んだ。前年の2022年度の十日町ビジネスプラン審査会で最優秀賞も受け、現在は外国種30種、国内15種を飼育・養殖している。

     「この地域の自然環境は、クワガタ生息に合っています。ミヤマクワガタは標高百㍍以下に生息し、ヒメオオクワガタは標高7百㍍以上に。関東地方では前者は3百㍍、後者は千㍍級に生息しています。当地域は山地の標高が低い割に冷涼な気温で、生息環境が良いからです」。 この魅力的な自然環境を子どもたちの体験の場にしたいと考える。「市内のキャンプ場と連携し、クワガタ生息地での自然体験ツアーを計画したいです。世田谷の子どもたちとの交流のように、子どもたちにこの自然を体験してほしいです」。

     クワガタに魅せられている自分の存在以上に、この地に生息するクワガタの存在感が、さらに増している。
    ◆バトンタッチします。
     「原 拓矢さん」

    2024年4月20日号

  • 『建築は芸術』、たまたまの出会い

    神内 隆伍さん(2000年生まれ)

     環境問題を議論した国際会議の場で、「京都議定書締結」会場として世界に知られる国立京都国際会館。その建物の造形が気になりだしたのは高校時代。「あの建物の前に周囲1・5㌔もある大きな池があります。国際会館とその池、あの風景は自然の中に巨大な人工物があるという異物感があると思いますが、私はあの建物と池があるから、あの風景の雰囲気があると感じています」。でも、と続ける。「高校時代は、なんとなく気になる建物であり、風景でした。こうして言語化できるようになったのは、大学に行ってからですね」。国際会館も、あの池「宝ヶ池」も、『たまたま』家の近くにあった。
     『建築は芸術』。
    この視点のままに多摩美術大に進み、環境デザイン学科で建築を専攻。一般的な住宅も「芸術」として見ると、暮らしまで見えてくる。学生時代、東北以外のほぼ全国を巡り、行く先々で「建築」を見た。在学中の作品制作は、自分のルーツや育ちを振り返る契機にもなり、その中から出てきたのが卒論テーマ『自然と人間』。卒業設計ではテーマを具現化した図面と模型を製作。その理念は「『人間』以後の自然/人の関係性」ー自然との一体化をめざしてー。この論点が卒業後、迷いなく『米づくり』へとつながった。
     十日町行きも「たまたま」だった。米づくり、協力隊、このキーワードで検索すると「十日町市」が出てきた。「大地の芸術祭は知っていましたから、先ずは行ってみるか、でした」。入った地域は「北山地区」。田野倉、仙納、莇平の3集落を担当。1年目から思い描いた米づくりが実現。「田んぼ4枚で2畝(2㌃)を、最初の年は耕運しないで、そのまま手で苗を植えました。地元の人たちがとっても温かく迎えてくれ、米づくりも教えて頂き、2年目には少しコツをつかみましたが一朝一夕にはいかないことが、実感として分かりました」。
     だが、苦しい・疲れる・大変の農作業から、「そういう行為からしか得られない快楽が得られた、これはこの作業をしない限り分からなかったことでした」。『建築は芸術』に通じる感覚でもあり、米づくりを「ライフワーク」とするつもりだ。それも、無心で土と向き合う、その行為でなければ得ることができない『快楽』を求めて。
     3月末で地域おこし協力隊を退任。「建築は芸術」に通じる家づくり、こだわり設計の津南町の工務店「大平木工」で5月から働く。「近代以前の建築は、大工さんが自分で設計し家を建てていましたが、最近は設計と建築が分業化されてしまいました。近代以前の建築のあり方に関心があり、先ずは現場から入ります」。

     美大で抱いた「建築は芸術」。その方向性に向かう自分がいる。「これも、たまたま、その方向に向かい始めている、ですね。これからも、たまたま、に出会うことを楽しみにしたいです」。
     協力隊で暮らした田野倉。ここでも「たまたま」の出会いがあり、築後150年余の古民家を譲り受けることになった。地域の「旦那様」の家で、長らく空き家だった。「どう手を入れようかという設計は出来ています。自分でリノベーションしていきます。まさか24歳で家と土地を持つとは思ってなかったですね。これも、たまたまの出会いでしょうか」。
     取材の3日前、突然友だちが家に来て『髪、染めたら』と染め始め、人生初の「ゴールド髪」に。「有無を言わせず、いきなり髪染めが始まったんです」。取材が終わり、「この後、このまま東北の旅に出ます。ノープラン、5月までに帰るつもりです」。
     きっと、旅の先々で新たな「たまたま」が待っているのだろう。
    ◆バトンタッチします。
     「高木良輔さん」

    2024年4月13日号

  • 『自分の興味エネルギーのままに』

    廣田 伸子さん(1983年生まれ)

     16歳の時、北海道・紋別でファームスティで牧場で働いた。夕食会の時、その言葉と出会った。『自分の興味に素直になったほうがいいよ』。牧場経営者の友だちも一緒の食事会で、その人はNHKを退職し、夫婦で紋別で暮らしていた。中学を出たばかりの16歳には、興味深い話ばかりだった。小学卒業後、親に長文の手紙を書いて願った埼玉の「自由の森学園」に入り、卒業後、東京の劇団やタイへのバックパックの旅などを話すと、その人は『自分の興味に…』と話した。「そういうことなのか…」と、ストンと胸に落ちる言葉だった。
     十日町生まれ。
    17歳の時には沖縄の高校に通い、沖縄の歴史、習俗や文化に触れ、民俗の研究者になろうとひらめく。「ちょっと違う角度で見ると、こんなにも違う世界があるんだと。それを見つけ出すことをしたい」と文化人類学をめざし、高校の英語教諭の橋渡しでネパールへ。フィールドワークがある現地の大学に入り、村々を回った。
     大学3年間でネパール語を習得、卒業後に一端帰国するが、海外協力隊に応募するとネパール担当にすぐ決まり、2年間の活動後、JICA(ジャイカ)に就職。日本のNGOと現地NGOをつなぐコーディネイト役を担いカトマンズに3年間駐在。「山が最高にきれいでしたね」。現地ではセーブ・ザ・チルドレンなど両国での9件のプロジェクトに取り組んだ。
     探求はさらに続く。日本財団の奨学生に受かり、フィリピンとコスタリカの国連大学で国際政治学や持続可能経済開発学を学ぶ。「キャリアアップをめざしたんですが、それ以上に人と接するのが好きで、現地の人たちとの出会いや交流が最高でした」。
     自分を突き動かすエネルギーのままに国外での活動を続けるなかで、ふと感じた。「キャリアを積んでいくと、そのキャリアに引っ張られてしまう。本当にやりたいことから外れていくような感じがしたんです」。違う何かへの興味が湧いてくるのを感じた。北海道で出会った、あの言葉がよみがえった。
     十日町に帰った時、ち
    ょうど大地の芸術祭開催の年だった。実家の農家民宿を手伝う中で、「自分でプロジェクトを立ち上げるのも楽しそうだな」、さらに「自分で好きなようにしてみたい」。 清津峡入口の小出集落に空き家を見つけた。「人から人につながり、この家のリノベーションには本当に様々な人たちが関わってくれ、皆さんほぼ手弁当でした。亡くなっちゃいましたが、棟梁・樋口武さんも病気を推して最後まで『こだわり』で作り続け、この家の随所に見られますよ」。
     『Tani House Itaya』(谷ハウスいたや)。清津峡渓谷の谷、その清流、清津川の脇に立つ。屋根裏まで吹き抜け、黒光りする階段を登ると中二階の廊下から囲炉裏がある居間が見下ろせる。歴史を感じる太い梁に漆喰壁、「ずっと居たくなる空間」がそこにある。
     「昨年の夏、オランダからの家族が1ヵ月滞在し、台湾の家族も1週間居ました。国内からも家族が来て、ここの自然を楽しんでいます」。宿泊は『1棟貸し』。まるごと家を借りられ、我が家のようにリラックスして過ごせる魅力は大きい。
     13歳で家を離れ、自分の興味エネルギーのままに動いてきた。「ふりきった、かなぁ、ですね」。10代からの歩みは相当な振れ幅の時間。まだ振れは続いているようだ。「来年は、ここに居ないかもしれませんねぇ」、冗談の笑顔は、まだエネルギーでいっぱいだ。
    ◆バトンタッチします。
     「神内隆伍さん」

    2024年4月6日号

  • 『街の日常にもっときものを』

    河田 千穂さん(1993年生まれ)

     桜が満開になる4月中旬過ぎに、街をきもので歩くイベントを企画している。「以前、ネットを通じてアンケートをしました。きものについて一番困っていることのトップは、きものを着る機会、場がないという回答でした。きものが好きな方が多い街ですから、もったいないですね」。
     このきものは知人から譲り受けた「小紋」。幼少期から絵を描くことが好きで、大学では服飾関係のテキスタイル・デザインを専攻。「そのままデザイン系に進むと自分では思っていましたが、『るろうに剣心』との出会いで、和の世界観、きものへの関心が増し、思いはさらに増しています」。
     学生時代に刺激を受け、「推し」バンドになった『デッド・オア・アライヴ』のボーカルの世界観に魅かれ、「追っかけでロンドンを何往復もしました」。大学卒後の進路は「路線変更」。すぐに就職せず、都内の料亭でバイトし、推しバンドのライブ日程に合わせロンドンへ。渡り鳥生活を1年余り続ける。「ロンドンでは、日本文化を通じて和の雰囲気をさらに感じ、きものを着ていると、きものを『作品』と見てくれます。これだ、と思いました」。
     きもの関連企業をリサーチし、十日町市の「きものブレイン」でテキスタイルデザイナーとして入社。在社中に地元の十日町服飾専門学校に通い、実務3年以上で受験できる「着付け師」資格を取得。同じ会社でパートナーと出会い退社。きものレンタル『kcda』(クダ)を立ち上げ、成人式の前撮りやきものイベントで着付を担当している。kcdaはKawadaChihoを入れ替えアレンジした。
     好きな「絞り」や「小
    紋」「訪問着」「振袖」など100着ほど持つ。専用クローゼットに三つ折りでハンガーに吊るし保管している。
     「飲み会も多いので、そういう時は周りに気を使わせないようにポリエステルのきもので行きます。タイムスリップできれば、るろうに剣心の時代に行きたいですね」。聖地巡礼で会津若松を何度も訪れている。
     絵も好きで、昨年の十日町きものまつりでは路上ライブ・ペイントを行い、出没で話題になった熊を自分のイメージで描いた。「なかなか描いている時間がないですね」。
     「私は歴史が好きで、バックグラウンドがあるものに魅かれます。歴史と伝統があるきものです。雪まつり、きものまつり、もっとファッションショーに力を入れてもいいのでは。きものを身近なものにしていきたいですね。街なかで日常的にきもの姿が見られれば、もっとすてきな雰囲気の街になるのではないでしょうか」。
    ◆バトンタッチします。
     「廣田伸子さん」

    2024年3月30日号

  • 『この自然、この民度、すごいね』

    河中 登さん(1956年生まれ)

     小高いブナ林から家を訪ねたようにカモシカの足跡が続く。14年ほど家主がいない空き家を十日町市西方(さいほう)に求めて4年。兵庫西宮時代に描いた「北国・雪国くらし」が実現。「このロケーション、風土、民度がいいですね。特に人がいい」。前住人は気象や雪氷の研究者で、こだわりの家を感じさせる造りだ。さらに手を加え、お気に入り空間に仕上げた。
     40年余り大手ドラッグストアに勤務。管理職時代に「北国、雪国に住みたい」と北海道から探し始めた。「関西人にとっては、青森より北海道よりイメージ的に遠い越後・新潟。そこに雪の魅力が加わった」。角部屋の両ガラス窓からブナ林越しに遠方の山並みが見え、突き出しの居間テラス前は雪原。カモシカやキツネの足跡が点々と絵を描く。
     天井まで吹き抜けの居間に響くJAZZ。「物心ついた時からJAZZだった。獣医の親父がずっと聞いていたから、中学高校で日野皓正やコルトレーンなどを聞き、以来ずっと聞いているが、クラシックにもはまってしまった」。名機のターンテーブル、アンプ、スピーカー、さらにレコード、CD数百枚は兵庫から運び、吹き抜け空間は最高の音響を創り出す。
     西宮時代から続けるモノづくり。建築用材や厚いアクリルなど使い「思いついたまま創る。やるぞーと向かうより、ふとした時にイメージがわくね」。藝大に進んだ娘から『オリジナルなブランドを作ったら』と言われ、使いたかった「空」を入れ『我空(がくう)』に。
     オリジナ
    ル創作品を展示販売するギャラリー&カフェ『設亮庵(せつりょうあん)』も西宮時代から。「ここの環境が良すぎて、イメージが湧かなくなっているので、ちょっと自分を痛めつけないと…」。それほど居心地が良い西方だ。
     この地の人たちの「人の良さ」を考えた。「この民度は、縄文人から来ているんじゃないかな。中世以降も農耕を通じてモノゴトをきちっとする勤勉さが根付いているのではと思う。十日町は着物産業で、外からの人を受け入れる素地ができており、それが大地の芸術祭に訪れる人たちを、すんなり受け入れる民度ができて、心地よい感じを出しているんじゃないかな」。
     「それに雪が大手資本を、結果的に入れなかったことも大きい。大手企業は豪雪地には参入しない。それが今のこの地域の良さを出している。人気の清津峡はあれだけ人が入っているので、大手資本が入ってもおかしくないが、大手が入ったらあの雰囲気は壊れてしまうだろうね」。
     地元の西方の米のうまさを実感している。「ここの米はうまいよ。作る人の人柄が出ているね」。美味い清水(しみず)が米を育てている。
    ◆バトンタッチします。
     「河田千穂さん」

    2024年3月23日号

  • 『子ども向け本をもっと』

    会田 法行さん(1972年生まれ)

     「3・11」、13年の時間が流れた。発災から2週間後、被災地に入り車中泊しながら「現実」を撮った。朝日新聞退社後のフリーランス取材。「フクシマ原発事故でその地を追われる人たち。根
    無草の自分には、頭で理解できて
    も、心で分からないこともあった」。目の前の現実を記録。子ども向け本『春を待つ里山—原発事故に揺れるフクシマで』を発刊。『続被爆者70年目の出会い』など多数の著書を出す。
     米国の大学在学中、イ
    ンターン生として地元地方新聞社で研修中、ラスベガスで世界的なボクシング試合を取材。「僕も高校、大学までボクシングをしてたんです」。報道写真記者のスタートは1996年の朝日新聞入社、その後フリーランス。イラクなど紛争地を取材、パレスチナ・ガザにも。この道28年。「カメラの向こうの世界に身を置きたい」と妻で大地の芸術祭作家「蓮池もも」出身の新潟県内に移住先を探し縁あって十日町へ。 
     「大地に根を張るためには、その地に暮らすこと」。松代蓬平の空き家を求め、小学1年の息子と家族3人で暮らす。市の依頼を受けブログ『究極の雪国のくらし』で「ワラ細工」「ツケナ(漬菜)とニーナ(煮菜)」など写真と文で発信。「十日町8年目で、取材を通して客観的に見ることができるようになったかな」。
     8年目の米づくり、早稲田大・大学院政治学研究科ジャーナリズムコースの報道写真講師、取材先で出会った東ティモールのコーヒーがきっかけで自家焙煎し販売、「パレスチナ問題」で今も時々メディアから取材を受ける、などなど様々な顔を持つ。
     蓬平で実現したことがある。「移住してからの日々を毎日発信し、2700日余り続け、息子『あお』の成長記録の中から絵本『おにがくる』を出すことができ、妻ももが作家として大地の芸術祭に出展できた。ここでの暮らしを、子ども向け本としてもっと発信したいですね」
    ◆バトンタッチします。
     「河中登さん」

    2024年3月16日号

  • 『生きる力、これでしょ』

    南雲真樹さん(1983年生まれ)

     この春、七度目の米作りだ。耕作放棄田は茅など茫々の草だらけだったが、すべて手作業で除去。米作りもすべて手作業。「当たり前、これが普通だと思う。化学肥料や農薬を使うことで、大事なものを失っていることは、今の人たちが罹る病気を見れば分かるはず」。
    「そもそも生きるために必要なものは何か。その大切なものは皆が大事にする。だが、今はお金に振り回されている。生きる力とは、なにかでしょ」。
     横浜生まれ、横浜育ち。「こうじゃなければならない」的な『予定調和』の生き方を嫌い、5回ほど行ったインド滞在で『人間くささ、人間として』の観念的な体験、ガンジス川源流までの徒歩行など、その後の生き方に影響している。生きるために必要なもの、その一つの米作りをしたいと。「呼んでいた」、全く知らない十日町に7年前に移り住んだ。いまは松代・仙納に妻と暮らす。
     どこへ行くにも一緒の相棒はあひるの「チャイ」。全て手作りの米、地元の清水、松之山温泉で作る塩、生きる力を商品化している。『あひる屋』を掲げ口コミ販売。今月17日に十日町駅「コンコース・マルシェ」で販売する。  
     無農薬・無化学肥料の米『玄天快氣』(げんてんかいき)。「今の日本は全て出来レースの世界。取り繕いやうわべだけの世界であり、まさに原点回帰が求められている。これほどの消費社会、いいかげんに消費者は気づくべきだ」。販売は『量り売り』をする。「一人の一歩は小さな一歩だが、皆で踏み出せば大きな一歩になる」。
     春からの米作り。すでに残雪を割り、天水田に水を貯め始めている。「この先、なにが起きるか分からない、そのアクシデントが面白い」。
    ◆バトンタッチします。
     「会田法行さん」

    2024年3月9日号

  • 『ここ松代には全てがあります』

    中村 紀子さん(1974年生まれ)

     仕事や旅で30ヵ国余を巡った。「その国、その国の良さがありましたが、ここに来たら、その良さのすべてがあり、『出会った』という感じです」。早期退職した2022年、大地の芸術祭で訪れた十日町。印象は「こんな良いところがあるんだ」。暮らしてみたいと検索すると『竹所シェアハウス』を知り、生活を始める。それはカール・
    ベンクスさんとの出会いでもあった。
     「いつか本当に好きになったところで暮らしたい」、その思いは飼料用微生物を扱う仕事で外国を転々とする中で募っ
    ていった。だが、生まれ育った新潟県内には目が向かなかった。その契機になったのが大地の芸術祭。さらにカールさんの存在。「ここに住み続けたい」、その思いが増した。
     古民家を雰囲気たっぷりのゲストハウスに改修し、カールさんが運営していた宿『カールベンクス古民家ゲストハウス』を昨年12月引き継いだ。
     1927年建築、まもなく百年を迎える古民家はカールさんの手により、太い梁、漆喰の壁など伝統の和を生かし、そこにドイツ風のヨーロピアン雰囲気を取り入れ、「和を感じ、洋を感じ、なんとも居心地が良い空間です」。2階のゲストルーム2室は、松代の自然と生活が体感できる雰囲気たっぷりの空間だ。
     「人と人の出会いですね。自然はもちろんですが、ここに暮らす人たちの温かさがいいですね。芸術祭で様々な方が訪れているためでしょうか、ここの人たちはいつも温かく付き合っていただき、その雰囲気がとても居心地の良さを出していますね」。さらに「私はここへ来て地域の人に本当にお世話になったので、今後は自分の事業以外でも地域のお役に立てる存在になりたいです」。
    ◆バトンタッチします。
     「南雲真樹さん」

    2024年3月2日号

  • 『果実は命をつなぐ』

    大出 恭子さん(1971年生まれ)

     朝起きて、家の側の木から熟れた桃を取り、食べ、その種は土に返す…
    ニュージーランドでお世話になったガイトン家族
    は、自然と共にある暮しの日々。
     「これだっ」、漠然と求めていたものが目の前にあった。言葉にすると『フードフォレスト』。果樹を植え、完熟果物を食べ、その種は土に返し、種から新たな木が育ち、鳥や動物、人間に果実を与え、その種は再び土に帰り、また新たな果樹が育つ。
     8年前、その思いを形にした。『フード・フォレスト・ジャパン』を立ち上げる。松代や松之山に求めた土地や借地に15種、5百本の果樹を植える。「密植です。山の自然の木々は様々な樹種が密植しています。同じように果樹も自然の中で育ち、雪や風雨などで自然剪定され、育っていきます。実った果物は鳥や動物が食べ、その実はまた自然に帰ります。この鳥や動物は、私のスタッフと思っています」。
     いま会員100人余のフード・フォレスト・ジャパン。毎年植樹を行い、面積を増やしている。「まだ私たちの口に入る果物は少ないですが、明日採ろうかなと思うと、翌日には全て果物がなくなっていたなど、鳥や動物の感覚はすごいですね。でもそれも自然ですね」。
     大学卒業後、南魚沼の国際大学に就職し、英語の熟度が増し、今は新潟県農業大学校の英語講師。大学校で農業分野の知見が深まり、福岡正信著『わら一本の革命』に出会う。十日町に移住し始めた農業、ニュージーランドでの体験、フード・フォレスト・ジャパンの立上げ、すべてがつながっている。食と貧困問題にも取り組みNPOにいがたNGOネットワークのメンバー。「果実は世界の貧困を救います。種はゴミではありません。土に返すことで命をつないでくれます」。
    ◆バトンタッチします。
     「中村紀子さん」

    2024年2月24日号

  • 『居心地の良さ、住み続けたい』

    原 拓矢さん(1994年生まれ)

     「なにか、しっくりこない」。こんな風に感じる日々は誰にもある。その時、どう動くかで、その後の時間は大きく変わる。立教大で社会学を学び就職した会社は「全農パールライス」。米を扱う国内大手で輸出分野でも大きなシェアを持つ。2年ほど在職し、さらに数社で働くなかで「しっくりこない」と感じ始めた。そこで自分を動かしたのは「農業がしたい」という内なる声だった。だが、移住となると二の足を踏んだ。そこでさらに内なる声が聞こえた。「やりたいことをやらなきゃ、後悔する」。
     地域おこし協力隊制度を知り、リサーチを始めると福島や山梨、新潟で農業分野の協力隊を募集していた。「各地へ行き、いろいろ見ましたが、十日町の鉢や中手に来た時、直感的ですが、ピンときました。ここだと」。
     2022年1月、真冬のお試し体験に入った。「全くの初めての私を、いつも会っているように歓迎していただき、地元の皆さんの人の良さが決め手でした」。

     その年の4月、吉田地区の鉢・中手を担当する地域おこし協力隊で赴任。吉田地区には協力隊の先輩、山口洋樹さんが地域支援員として活動している。「中手集落は5世帯6人です。でも水田を耕作する人は3人、70代、80代の方です。この先を考えると担い手不足は明らかで、自分に何ができるのか、すこしでも力になりたい、という思いと農業がしたい、その結果の吉田地区でしょうか」。 いまは鉢集落に住み、来年3月の任期満了後も暮らし続け、中手の田んぼを受けて米づくりをするつもりだ。いまは40㌃ほどを手伝い耕作する。
     なぜ農業、米づくりなのか。全農パールライス時代に感じたのは、「自分で作ったものではなく、営業していてもしっくりこなかったんです。自分で作った米を、自信を持って提供していきたい、その思いが強くなっていきました」。時々、両親が暮らす埼玉・川越に帰るが、「どうも人がいっぱいいる所が苦手なんです。生まれ育った川越には友だちもいて、近所付き合いもありますが、ここで2年間暮らし、感じているのは『いざという時の強さ』でしょうか。災害など起こった時も、こちらでは生きていける強さがあります。これは生きる安心感にもつながります。それに居心地の良さですね」。

     今夏は第9回大地の芸術祭。暮らす鉢集落には絵本作家・田島征三氏の『絵本と木の実の美術館』がある。芸術祭で人気トップ級の拠点だ。「田島さんには何度もお会いしていますが、あの飾らない、いつも自然体の人柄はいいですね」。
     昨年初めて自作の米を自炊で食べた。「美味しかったですね。中手は山からの水でコメ作りをしていますから、標高も400㍍余りで良いコメができるようです。もうご飯だけでも充分です」。
     自炊生活も3年目、レトルトや冷凍品などからは遠ざかり、「近所の方が玄関先に野菜を置いていってくれたり、ありがたいです」。身長188㌢は、高い所の用事など何かと声もかかる。
     「毎日が仕事で、毎日がプライベートの時間、そんな毎日ですが、居心地の良さは、なにものにも代えがたいですね」。
    ◆バトンタッチします。
     「小林舞さん」

    2024年4月27日号

  • 『クワガタに魅せられ』

    髙木 良輔さん(1994年生まれ)

     その体験が、いまもベースにある。小学2年の夏休み、祖父と兄、2人の従兄と一緒に早朝のクワガタ・カブトムシ採りに行った。母の実家、茨城・古河市の自然は、小学生には魅力的な地だった。
     「もともと、一つのものに対して執着心を持って、深めていくことが好きな子でしたので、虫を長い時間じっと見ていたりしていました」。
     クワガタ。その生態をどんどん知りたくなり、小学時代で専門誌や昆虫図鑑を見て情報を集め、家族旅行の行先も自然を求めての旅。飼育と養殖にも取り組んだ。だが中学生になり、「周りは音楽や不良カルチャーが関心でしたから、友だちには分からないように話題にはせず、ひっそりと自分だけでやっていました」。 さらに高校時代も進学先に生物部がなく、ここでも「ひとりの世界」だった。だが「自宅から高校まで往復26㌔、自転車通学していましたから、把握できる地点が多くなり、あそこに行けばクワガタがいるなど通学が自然散策でした。帰りが夜8時を過ぎることもありました」。
     クワガタへの関心と共に、鉄道を通じて全国の地名への関心も並行して高まり、進んだ専修大・環境地理学科では各地へ演習に行くことで、さらにクワガタとのつながりが濃くなっていった。「全国を旅しました。これまでに47都道府県のうち山口、宮崎以外の45都道府県に行っています。その先々で、知らないことへの関心がさらに深まっています」。 その学生時代。飼育・養殖をアパートで行い、百匹近くを飼育。整然と積み上げられた収納箱を見た学友は「こんな部屋は初めて」と驚かれたというが、いまはさらに種類も数も増えている。

     『クワガタを身近に観察できる環境に暮らしたい』。その契機は2020年6月に訪れた。一つの場所で一夜で50匹以上のミヤマクワガタと出会った。その地は湯沢町だったが、魚沼エリアを調べると十日町地域にはさらに魅力的な自然環境があることが分かった。2021年4月から地域おこし協力隊で十日町に入り、松代中部地区(松代田沢・小荒戸・菅刈・太平・千年・青葉・池尻の7集落)を担当、今春3月で退任。旧松代町内に定住している。
     協力隊の3年目、2023年8月。十日町市と友好交流する世田谷区民祭で「クワガタ・カブトムシ」を出品した。「対面販売をしたんですが、子どもたちの反応がとてもよく、その時、クワガタを求めた家族とは今も交流が続いています」。 この時の好感触で「クワガタでやれるかも」と飼育・養殖・販売の強い手応えを掴んだ。前年の2022年度の十日町ビジネスプラン審査会で最優秀賞も受け、現在は外国種30種、国内15種を飼育・養殖している。

     「この地域の自然環境は、クワガタ生息に合っています。ミヤマクワガタは標高百㍍以下に生息し、ヒメオオクワガタは標高7百㍍以上に。関東地方では前者は3百㍍、後者は千㍍級に生息しています。当地域は山地の標高が低い割に冷涼な気温で、生息環境が良いからです」。 この魅力的な自然環境を子どもたちの体験の場にしたいと考える。「市内のキャンプ場と連携し、クワガタ生息地での自然体験ツアーを計画したいです。世田谷の子どもたちとの交流のように、子どもたちにこの自然を体験してほしいです」。

     クワガタに魅せられている自分の存在以上に、この地に生息するクワガタの存在感が、さらに増している。
    ◆バトンタッチします。
     「原 拓矢さん」

    2024年4月20日号

  • 『建築は芸術』、たまたまの出会い

    神内 隆伍さん(2000年生まれ)

     環境問題を議論した国際会議の場で、「京都議定書締結」会場として世界に知られる国立京都国際会館。その建物の造形が気になりだしたのは高校時代。「あの建物の前に周囲1・5㌔もある大きな池があります。国際会館とその池、あの風景は自然の中に巨大な人工物があるという異物感があると思いますが、私はあの建物と池があるから、あの風景の雰囲気があると感じています」。でも、と続ける。「高校時代は、なんとなく気になる建物であり、風景でした。こうして言語化できるようになったのは、大学に行ってからですね」。国際会館も、あの池「宝ヶ池」も、『たまたま』家の近くにあった。
     『建築は芸術』。
    この視点のままに多摩美術大に進み、環境デザイン学科で建築を専攻。一般的な住宅も「芸術」として見ると、暮らしまで見えてくる。学生時代、東北以外のほぼ全国を巡り、行く先々で「建築」を見た。在学中の作品制作は、自分のルーツや育ちを振り返る契機にもなり、その中から出てきたのが卒論テーマ『自然と人間』。卒業設計ではテーマを具現化した図面と模型を製作。その理念は「『人間』以後の自然/人の関係性」ー自然との一体化をめざしてー。この論点が卒業後、迷いなく『米づくり』へとつながった。
     十日町行きも「たまたま」だった。米づくり、協力隊、このキーワードで検索すると「十日町市」が出てきた。「大地の芸術祭は知っていましたから、先ずは行ってみるか、でした」。入った地域は「北山地区」。田野倉、仙納、莇平の3集落を担当。1年目から思い描いた米づくりが実現。「田んぼ4枚で2畝(2㌃)を、最初の年は耕運しないで、そのまま手で苗を植えました。地元の人たちがとっても温かく迎えてくれ、米づくりも教えて頂き、2年目には少しコツをつかみましたが一朝一夕にはいかないことが、実感として分かりました」。
     だが、苦しい・疲れる・大変の農作業から、「そういう行為からしか得られない快楽が得られた、これはこの作業をしない限り分からなかったことでした」。『建築は芸術』に通じる感覚でもあり、米づくりを「ライフワーク」とするつもりだ。それも、無心で土と向き合う、その行為でなければ得ることができない『快楽』を求めて。
     3月末で地域おこし協力隊を退任。「建築は芸術」に通じる家づくり、こだわり設計の津南町の工務店「大平木工」で5月から働く。「近代以前の建築は、大工さんが自分で設計し家を建てていましたが、最近は設計と建築が分業化されてしまいました。近代以前の建築のあり方に関心があり、先ずは現場から入ります」。

     美大で抱いた「建築は芸術」。その方向性に向かう自分がいる。「これも、たまたま、その方向に向かい始めている、ですね。これからも、たまたま、に出会うことを楽しみにしたいです」。
     協力隊で暮らした田野倉。ここでも「たまたま」の出会いがあり、築後150年余の古民家を譲り受けることになった。地域の「旦那様」の家で、長らく空き家だった。「どう手を入れようかという設計は出来ています。自分でリノベーションしていきます。まさか24歳で家と土地を持つとは思ってなかったですね。これも、たまたまの出会いでしょうか」。
     取材の3日前、突然友だちが家に来て『髪、染めたら』と染め始め、人生初の「ゴールド髪」に。「有無を言わせず、いきなり髪染めが始まったんです」。取材が終わり、「この後、このまま東北の旅に出ます。ノープラン、5月までに帰るつもりです」。
     きっと、旅の先々で新たな「たまたま」が待っているのだろう。
    ◆バトンタッチします。
     「高木良輔さん」

    2024年4月13日号

  • 『自分の興味エネルギーのままに』

    廣田 伸子さん(1983年生まれ)

     16歳の時、北海道・紋別でファームスティで牧場で働いた。夕食会の時、その言葉と出会った。『自分の興味に素直になったほうがいいよ』。牧場経営者の友だちも一緒の食事会で、その人はNHKを退職し、夫婦で紋別で暮らしていた。中学を出たばかりの16歳には、興味深い話ばかりだった。小学卒業後、親に長文の手紙を書いて願った埼玉の「自由の森学園」に入り、卒業後、東京の劇団やタイへのバックパックの旅などを話すと、その人は『自分の興味に…』と話した。「そういうことなのか…」と、ストンと胸に落ちる言葉だった。
     十日町生まれ。
    17歳の時には沖縄の高校に通い、沖縄の歴史、習俗や文化に触れ、民俗の研究者になろうとひらめく。「ちょっと違う角度で見ると、こんなにも違う世界があるんだと。それを見つけ出すことをしたい」と文化人類学をめざし、高校の英語教諭の橋渡しでネパールへ。フィールドワークがある現地の大学に入り、村々を回った。
     大学3年間でネパール語を習得、卒業後に一端帰国するが、海外協力隊に応募するとネパール担当にすぐ決まり、2年間の活動後、JICA(ジャイカ)に就職。日本のNGOと現地NGOをつなぐコーディネイト役を担いカトマンズに3年間駐在。「山が最高にきれいでしたね」。現地ではセーブ・ザ・チルドレンなど両国での9件のプロジェクトに取り組んだ。
     探求はさらに続く。日本財団の奨学生に受かり、フィリピンとコスタリカの国連大学で国際政治学や持続可能経済開発学を学ぶ。「キャリアアップをめざしたんですが、それ以上に人と接するのが好きで、現地の人たちとの出会いや交流が最高でした」。
     自分を突き動かすエネルギーのままに国外での活動を続けるなかで、ふと感じた。「キャリアを積んでいくと、そのキャリアに引っ張られてしまう。本当にやりたいことから外れていくような感じがしたんです」。違う何かへの興味が湧いてくるのを感じた。北海道で出会った、あの言葉がよみがえった。
     十日町に帰った時、ち
    ょうど大地の芸術祭開催の年だった。実家の農家民宿を手伝う中で、「自分でプロジェクトを立ち上げるのも楽しそうだな」、さらに「自分で好きなようにしてみたい」。 清津峡入口の小出集落に空き家を見つけた。「人から人につながり、この家のリノベーションには本当に様々な人たちが関わってくれ、皆さんほぼ手弁当でした。亡くなっちゃいましたが、棟梁・樋口武さんも病気を推して最後まで『こだわり』で作り続け、この家の随所に見られますよ」。
     『Tani House Itaya』(谷ハウスいたや)。清津峡渓谷の谷、その清流、清津川の脇に立つ。屋根裏まで吹き抜け、黒光りする階段を登ると中二階の廊下から囲炉裏がある居間が見下ろせる。歴史を感じる太い梁に漆喰壁、「ずっと居たくなる空間」がそこにある。
     「昨年の夏、オランダからの家族が1ヵ月滞在し、台湾の家族も1週間居ました。国内からも家族が来て、ここの自然を楽しんでいます」。宿泊は『1棟貸し』。まるごと家を借りられ、我が家のようにリラックスして過ごせる魅力は大きい。
     13歳で家を離れ、自分の興味エネルギーのままに動いてきた。「ふりきった、かなぁ、ですね」。10代からの歩みは相当な振れ幅の時間。まだ振れは続いているようだ。「来年は、ここに居ないかもしれませんねぇ」、冗談の笑顔は、まだエネルギーでいっぱいだ。
    ◆バトンタッチします。
     「神内隆伍さん」

    2024年4月6日号

  • 『街の日常にもっときものを』

    河田 千穂さん(1993年生まれ)

     桜が満開になる4月中旬過ぎに、街をきもので歩くイベントを企画している。「以前、ネットを通じてアンケートをしました。きものについて一番困っていることのトップは、きものを着る機会、場がないという回答でした。きものが好きな方が多い街ですから、もったいないですね」。
     このきものは知人から譲り受けた「小紋」。幼少期から絵を描くことが好きで、大学では服飾関係のテキスタイル・デザインを専攻。「そのままデザイン系に進むと自分では思っていましたが、『るろうに剣心』との出会いで、和の世界観、きものへの関心が増し、思いはさらに増しています」。
     学生時代に刺激を受け、「推し」バンドになった『デッド・オア・アライヴ』のボーカルの世界観に魅かれ、「追っかけでロンドンを何往復もしました」。大学卒後の進路は「路線変更」。すぐに就職せず、都内の料亭でバイトし、推しバンドのライブ日程に合わせロンドンへ。渡り鳥生活を1年余り続ける。「ロンドンでは、日本文化を通じて和の雰囲気をさらに感じ、きものを着ていると、きものを『作品』と見てくれます。これだ、と思いました」。
     きもの関連企業をリサーチし、十日町市の「きものブレイン」でテキスタイルデザイナーとして入社。在社中に地元の十日町服飾専門学校に通い、実務3年以上で受験できる「着付け師」資格を取得。同じ会社でパートナーと出会い退社。きものレンタル『kcda』(クダ)を立ち上げ、成人式の前撮りやきものイベントで着付を担当している。kcdaはKawadaChihoを入れ替えアレンジした。
     好きな「絞り」や「小
    紋」「訪問着」「振袖」など100着ほど持つ。専用クローゼットに三つ折りでハンガーに吊るし保管している。
     「飲み会も多いので、そういう時は周りに気を使わせないようにポリエステルのきもので行きます。タイムスリップできれば、るろうに剣心の時代に行きたいですね」。聖地巡礼で会津若松を何度も訪れている。
     絵も好きで、昨年の十日町きものまつりでは路上ライブ・ペイントを行い、出没で話題になった熊を自分のイメージで描いた。「なかなか描いている時間がないですね」。
     「私は歴史が好きで、バックグラウンドがあるものに魅かれます。歴史と伝統があるきものです。雪まつり、きものまつり、もっとファッションショーに力を入れてもいいのでは。きものを身近なものにしていきたいですね。街なかで日常的にきもの姿が見られれば、もっとすてきな雰囲気の街になるのではないでしょうか」。
    ◆バトンタッチします。
     「廣田伸子さん」

    2024年3月30日号

  • 『この自然、この民度、すごいね』

    河中 登さん(1956年生まれ)

     小高いブナ林から家を訪ねたようにカモシカの足跡が続く。14年ほど家主がいない空き家を十日町市西方(さいほう)に求めて4年。兵庫西宮時代に描いた「北国・雪国くらし」が実現。「このロケーション、風土、民度がいいですね。特に人がいい」。前住人は気象や雪氷の研究者で、こだわりの家を感じさせる造りだ。さらに手を加え、お気に入り空間に仕上げた。
     40年余り大手ドラッグストアに勤務。管理職時代に「北国、雪国に住みたい」と北海道から探し始めた。「関西人にとっては、青森より北海道よりイメージ的に遠い越後・新潟。そこに雪の魅力が加わった」。角部屋の両ガラス窓からブナ林越しに遠方の山並みが見え、突き出しの居間テラス前は雪原。カモシカやキツネの足跡が点々と絵を描く。
     天井まで吹き抜けの居間に響くJAZZ。「物心ついた時からJAZZだった。獣医の親父がずっと聞いていたから、中学高校で日野皓正やコルトレーンなどを聞き、以来ずっと聞いているが、クラシックにもはまってしまった」。名機のターンテーブル、アンプ、スピーカー、さらにレコード、CD数百枚は兵庫から運び、吹き抜け空間は最高の音響を創り出す。
     西宮時代から続けるモノづくり。建築用材や厚いアクリルなど使い「思いついたまま創る。やるぞーと向かうより、ふとした時にイメージがわくね」。藝大に進んだ娘から『オリジナルなブランドを作ったら』と言われ、使いたかった「空」を入れ『我空(がくう)』に。
     オリジナ
    ル創作品を展示販売するギャラリー&カフェ『設亮庵(せつりょうあん)』も西宮時代から。「ここの環境が良すぎて、イメージが湧かなくなっているので、ちょっと自分を痛めつけないと…」。それほど居心地が良い西方だ。
     この地の人たちの「人の良さ」を考えた。「この民度は、縄文人から来ているんじゃないかな。中世以降も農耕を通じてモノゴトをきちっとする勤勉さが根付いているのではと思う。十日町は着物産業で、外からの人を受け入れる素地ができており、それが大地の芸術祭に訪れる人たちを、すんなり受け入れる民度ができて、心地よい感じを出しているんじゃないかな」。
     「それに雪が大手資本を、結果的に入れなかったことも大きい。大手企業は豪雪地には参入しない。それが今のこの地域の良さを出している。人気の清津峡はあれだけ人が入っているので、大手資本が入ってもおかしくないが、大手が入ったらあの雰囲気は壊れてしまうだろうね」。
     地元の西方の米のうまさを実感している。「ここの米はうまいよ。作る人の人柄が出ているね」。美味い清水(しみず)が米を育てている。
    ◆バトンタッチします。
     「河田千穂さん」

    2024年3月23日号

  • 『子ども向け本をもっと』

    会田 法行さん(1972年生まれ)

     「3・11」、13年の時間が流れた。発災から2週間後、被災地に入り車中泊しながら「現実」を撮った。朝日新聞退社後のフリーランス取材。「フクシマ原発事故でその地を追われる人たち。根
    無草の自分には、頭で理解できて
    も、心で分からないこともあった」。目の前の現実を記録。子ども向け本『春を待つ里山—原発事故に揺れるフクシマで』を発刊。『続被爆者70年目の出会い』など多数の著書を出す。
     米国の大学在学中、イ
    ンターン生として地元地方新聞社で研修中、ラスベガスで世界的なボクシング試合を取材。「僕も高校、大学までボクシングをしてたんです」。報道写真記者のスタートは1996年の朝日新聞入社、その後フリーランス。イラクなど紛争地を取材、パレスチナ・ガザにも。この道28年。「カメラの向こうの世界に身を置きたい」と妻で大地の芸術祭作家「蓮池もも」出身の新潟県内に移住先を探し縁あって十日町へ。 
     「大地に根を張るためには、その地に暮らすこと」。松代蓬平の空き家を求め、小学1年の息子と家族3人で暮らす。市の依頼を受けブログ『究極の雪国のくらし』で「ワラ細工」「ツケナ(漬菜)とニーナ(煮菜)」など写真と文で発信。「十日町8年目で、取材を通して客観的に見ることができるようになったかな」。
     8年目の米づくり、早稲田大・大学院政治学研究科ジャーナリズムコースの報道写真講師、取材先で出会った東ティモールのコーヒーがきっかけで自家焙煎し販売、「パレスチナ問題」で今も時々メディアから取材を受ける、などなど様々な顔を持つ。
     蓬平で実現したことがある。「移住してからの日々を毎日発信し、2700日余り続け、息子『あお』の成長記録の中から絵本『おにがくる』を出すことができ、妻ももが作家として大地の芸術祭に出展できた。ここでの暮らしを、子ども向け本としてもっと発信したいですね」
    ◆バトンタッチします。
     「河中登さん」

    2024年3月16日号

  • 『生きる力、これでしょ』

    南雲真樹さん(1983年生まれ)

     この春、七度目の米作りだ。耕作放棄田は茅など茫々の草だらけだったが、すべて手作業で除去。米作りもすべて手作業。「当たり前、これが普通だと思う。化学肥料や農薬を使うことで、大事なものを失っていることは、今の人たちが罹る病気を見れば分かるはず」。
    「そもそも生きるために必要なものは何か。その大切なものは皆が大事にする。だが、今はお金に振り回されている。生きる力とは、なにかでしょ」。
     横浜生まれ、横浜育ち。「こうじゃなければならない」的な『予定調和』の生き方を嫌い、5回ほど行ったインド滞在で『人間くささ、人間として』の観念的な体験、ガンジス川源流までの徒歩行など、その後の生き方に影響している。生きるために必要なもの、その一つの米作りをしたいと。「呼んでいた」、全く知らない十日町に7年前に移り住んだ。いまは松代・仙納に妻と暮らす。
     どこへ行くにも一緒の相棒はあひるの「チャイ」。全て手作りの米、地元の清水、松之山温泉で作る塩、生きる力を商品化している。『あひる屋』を掲げ口コミ販売。今月17日に十日町駅「コンコース・マルシェ」で販売する。  
     無農薬・無化学肥料の米『玄天快氣』(げんてんかいき)。「今の日本は全て出来レースの世界。取り繕いやうわべだけの世界であり、まさに原点回帰が求められている。これほどの消費社会、いいかげんに消費者は気づくべきだ」。販売は『量り売り』をする。「一人の一歩は小さな一歩だが、皆で踏み出せば大きな一歩になる」。
     春からの米作り。すでに残雪を割り、天水田に水を貯め始めている。「この先、なにが起きるか分からない、そのアクシデントが面白い」。
    ◆バトンタッチします。
     「会田法行さん」

    2024年3月9日号

  • 『ここ松代には全てがあります』

    中村 紀子さん(1974年生まれ)

     仕事や旅で30ヵ国余を巡った。「その国、その国の良さがありましたが、ここに来たら、その良さのすべてがあり、『出会った』という感じです」。早期退職した2022年、大地の芸術祭で訪れた十日町。印象は「こんな良いところがあるんだ」。暮らしてみたいと検索すると『竹所シェアハウス』を知り、生活を始める。それはカール・
    ベンクスさんとの出会いでもあった。
     「いつか本当に好きになったところで暮らしたい」、その思いは飼料用微生物を扱う仕事で外国を転々とする中で募っ
    ていった。だが、生まれ育った新潟県内には目が向かなかった。その契機になったのが大地の芸術祭。さらにカールさんの存在。「ここに住み続けたい」、その思いが増した。
     古民家を雰囲気たっぷりのゲストハウスに改修し、カールさんが運営していた宿『カールベンクス古民家ゲストハウス』を昨年12月引き継いだ。
     1927年建築、まもなく百年を迎える古民家はカールさんの手により、太い梁、漆喰の壁など伝統の和を生かし、そこにドイツ風のヨーロピアン雰囲気を取り入れ、「和を感じ、洋を感じ、なんとも居心地が良い空間です」。2階のゲストルーム2室は、松代の自然と生活が体感できる雰囲気たっぷりの空間だ。
     「人と人の出会いですね。自然はもちろんですが、ここに暮らす人たちの温かさがいいですね。芸術祭で様々な方が訪れているためでしょうか、ここの人たちはいつも温かく付き合っていただき、その雰囲気がとても居心地の良さを出していますね」。さらに「私はここへ来て地域の人に本当にお世話になったので、今後は自分の事業以外でも地域のお役に立てる存在になりたいです」。
    ◆バトンタッチします。
     「南雲真樹さん」

    2024年3月2日号

  • 『果実は命をつなぐ』

    大出 恭子さん(1971年生まれ)

     朝起きて、家の側の木から熟れた桃を取り、食べ、その種は土に返す…
    ニュージーランドでお世話になったガイトン家族
    は、自然と共にある暮しの日々。
     「これだっ」、漠然と求めていたものが目の前にあった。言葉にすると『フードフォレスト』。果樹を植え、完熟果物を食べ、その種は土に返し、種から新たな木が育ち、鳥や動物、人間に果実を与え、その種は再び土に帰り、また新たな果樹が育つ。
     8年前、その思いを形にした。『フード・フォレスト・ジャパン』を立ち上げる。松代や松之山に求めた土地や借地に15種、5百本の果樹を植える。「密植です。山の自然の木々は様々な樹種が密植しています。同じように果樹も自然の中で育ち、雪や風雨などで自然剪定され、育っていきます。実った果物は鳥や動物が食べ、その実はまた自然に帰ります。この鳥や動物は、私のスタッフと思っています」。
     いま会員100人余のフード・フォレスト・ジャパン。毎年植樹を行い、面積を増やしている。「まだ私たちの口に入る果物は少ないですが、明日採ろうかなと思うと、翌日には全て果物がなくなっていたなど、鳥や動物の感覚はすごいですね。でもそれも自然ですね」。
     大学卒業後、南魚沼の国際大学に就職し、英語の熟度が増し、今は新潟県農業大学校の英語講師。大学校で農業分野の知見が深まり、福岡正信著『わら一本の革命』に出会う。十日町に移住し始めた農業、ニュージーランドでの体験、フード・フォレスト・ジャパンの立上げ、すべてがつながっている。食と貧困問題にも取り組みNPOにいがたNGOネットワークのメンバー。「果実は世界の貧困を救います。種はゴミではありません。土に返すことで命をつないでくれます」。
    ◆バトンタッチします。
     「中村紀子さん」

    2024年2月24日号