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ひとから人からヒトへ一覧

  • 「合志先生と出会い、生き方学ぶ」

    田邊孝一さん(1982年生まれ)

     恩師との出会いが、その後の生き方に大きく影響している。松之山小4年生の時、担任だった当時20歳代の合志淳教諭と出会った。「それまでは、学校って勉強して、いい点とって…っていう場所だと思っていたんですが…」、合志先生の言葉は違った。 『頭で覚える勉強も大事だが、楽しく、心で覚えることを学べ』。その場面はいまもはっきり憶えている。「その時からです、なんでも楽しく、辛いことでも、何事も前向きに考えるようになっていきました」。
     いつも子どもたちと一緒に動き、一緒に考える恩師だった。「合志先生は、初雪が降ったら、外行くぞーって1限目から雪遊びに出て、そのまま授業時間が終わったりと。でも、いけないことをしたら凄く叱られましたが、いたずら程度では怒られたことはなかったです。人間味にあふれ、熱くて、皆が先生のことが大好きでした」。

     生まれは東京・府中市。1987年、幼稚園年長の時、父の実家がある松之山に家族で移り住んだ。「あまり覚えていないんですが、保育園入ったばかりの時、『声かけたのに、こっち来るなって叩かれた』って、同級生に今でも言われます」と笑う。そこは子ども同士、すぐに地域にも仲間にも溶け込み、小中は陸上やアルペンスキーに取り組む。「練習はきつかったんですが、まぁ何とかなるか、でした。それに友だちや先輩たちが居たから続けられましたね」。さらに「教室でものまね大会を開いたりと、毎日が楽しかったです。調子に乗りすぎちゃうこともあるんですが、仲間たちがよく助けてくれてますね」。
     松代高校へ進む。「進路に迷った時、友だちが持っていた進路パンフにビビビっときたんです」。4歳下の妹、8歳下の従弟の面倒を見ていたことから、「子どもが好きだなって思って」。長岡・北陸学園保育科に進学。「当時、保育士をめざす男子は少なく、女性80人に男性15人位でした。その分、男たちの団結力はすごかったですよ。いまでも仲良しです」。学園祭でのライブで影響を受け、「同級生でバンド作るかって。私はエレキギターを選び、毎日皆で練習、週5日は飲み会してました。楽しかったなぁー」。
     
     保育士初任地は十日町市の私立保育園。学園時、出会いがあり結婚、4人の子たちのパパだ。「園でも家でも、子どもたちに遊んでもらってました。子どもの発想って本当に面白いですね」。ちょっと先を考え16年前、松之山・不老閣に転職。「保育士から介護の仕事、最初は戸惑いもありましたが、入所者さんから『いい男だ、いい男だー』なんて、おだてられて、毎日楽しく業務しています」。
     学生時代からのバンド活動も続け、松之山出身の後輩と2人組デュオ『二つ星』を結成し、作詞作曲にも挑戦。十日町雪まつりや各所のイベントなどに出演した。バンドやデュオ解散後も歌への情熱は変らなかった。その時、『NHKのど自慢大会』出場のチャンスをつかんだ。「会場は中里アリーナでした。多くの皆さんの前で歌えたこと、最高の経験でした。結婚10周年だったので、妻への感謝を込め吉田山田の『日々』を歌いました」。
     のど自慢出場で感じたのは、「出場された方々の歌のうまいこと。うまい人って、こういう人たちのことなんだって感じたんです」、感情の込め方、歌に強弱をつけるなど意識し練習している。のど自慢出場者との交流がいまも続く。「みんなで定期的に集まりカラオケで練習したり、良い刺激になっています。私にとって歌はなくてはならないものです」。

     小学4年で出会った恩師、合志先生は今年3月、定年退職を迎えた。「同級生で、合志先生を囲む会を開き、皆で集まろうかって話しています。伝えたいことがいっぱいあるし、話したいことがいっぱいありますから」。

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     小宮山英樹さん

    2024年12月7日号

  • 「音楽、そして家族へ」

    深井裕司さん(1982年生まれ)

     没頭すると寝食を忘れてのめり込む。「30代の初めまでは音楽に没頭していました。集中すると止まらなくなるので、家族ができてから、音楽は封印しています」。

     31歳の時、同じ職場が縁で出会った里花さんと結婚。「娘が1歳にな
    った時、自然の中で子育てをしたいという妻の希望で、松代に引っ越しました」。2015年、加茂市から家族3人で移住。妻の両親と二世代で暮らす。

     生まれも育ちも加茂市。「加茂小、加茂中、加茂高、でしたねー」。8歳上の兄、6歳上に姉がいる。「兄がバンド活動でエレキギターをやっていて、触らせてもったのがきっかけです」。
     兄への憧れからエレキギターを初め、独自でテクニックを研究、のめり込んだ。「末っ子だったので、兄や姉の後を追う引っ付き虫でしたね。だから引っ込み思案だった。でもギターは、やりたいと自分で始めたものです」。 
     高校時代は授業が終わると家へ直行。同級生4人と毎日ギター練習。「兄がボーカル担当でライブハウスで演奏もしました。あの頃はグレイが流行っていて、毎日練習し18曲くらいを2時間通して演奏してましたね。今思うと、よく怒られなかったなぁーと思います」。
     県内大学へ進学、新潟市内就職後も大学時代のバンド仲間とライブハウスで定期的に演奏し、ソロ活動では作詞作曲にも挑戦。さらに音楽を深めていった。「仕事が終わって、家に帰ってすぐ音楽制作。朝まで寝ないで没頭し、そのまま仕事へ行くとか、夢中でしたね」。
     ギターテクニックを磨きたいと様々な音楽動画など見て学んだ。腕を見込まれ、「県内ソロシンガーのバックでギターを弾いたこともあります」。ソロ活動でCDを出したことも。「今でも楽曲の1つがカラオケに登録されています」。
     新潟市で働いていた頃、職場で出会いがあり結婚を決意。「音楽はスパッと辞めました。家族に全集中です。いま思うと、あの頃は音楽に没頭しすぎていて、何歳の時に何してたっけ?って、時系列がぐちゃぐちゃです」。

     小学3年、5年の娘と年少の息子の3人の父。「加茂市と違って雪は多いですが、地域の皆さんはとっても優しいですね」。松之山・松涛園に勤務。「介護職は大変なイメージもあり、初めは実家の親にも反対されたんです。でも、仕事をしなくてはいけないし、そんなことも言ってられなかったですね」。
     4年余の実務を経て介護福祉士資格を取得。9年目に知人の紹介で不老閣へ転職。「タイミングでした。大変なことも楽しいことも勿論あります。ただ、関わったお年寄りの方がリハビリで機能向上すると嬉しく思いますね。どうしたら機能が上がるかを考え、突き詰めるのが好きなんでしょうか」。
     音楽は封印しているが、新しく手にしたものがある。「家族。それと、家族の歴史を記録するカメラですね」。義母がキャノンを持っていた。シャッターを押すといい音が響く。「あの感触、カメラっていいなって。家族貢献にもなりますし」。
     現在の愛器はニコンD780。「今までいろいろなカメラを更新してきましたが、D780はフルサイズだから室内に強く、子どもたちの何気ないしぐさやイベントに役立ちます。カメラの趣味をさせてもらって感謝です」。撮影した写真は家では勿論、子どもや愛猫の写真は職場にも飾られ入所者に喜ばれている。
     「我が子が生まれ、人生がガラッと変わりました。音楽にのめり込んだことは、自分の糧でもありますし、音楽があったから自分の自信にもなっています。日々成長する子どもたち、その姿をカメラで撮る、楽しいですねぇ」。

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     田邉孝一さん

    2024年11月30日号

  • 「歌で想いを」

    髙橋直幸さん(1984年生まれ)

     静かな佇(たたず)まい、だが秘める思いは熱い。マイクを握ると心のスイッチが入り、思いの丈が熱唱になる。「いやぁー、小っちゃい頃から口下手で」。ふたりの姉に抑えられていた。「7つ上と5つ上の姉ふたりです。いたずらすると『なおゆきー』って叱られていたので、だんだん無口になっていきましたね」。
     
     松代中時代、野球部と駅伝部を兼任、自分と向き合い、自分を鍛えた。「でも、高校では帰宅部で、バイクを乗り回して、よくドライブして楽しんでいました」。卒業後の進路に悩んだ。「親元から一度は離れてみたくて、神奈川県内で就職を決め、上京しました」。
     社員寮がある電気工事会社へ就職。「朝早く5時に出て、帰りは夜10時。体力的にも精神的にもしんどかったですね」。休日はひたすら寝て休むだけ。子ども時代怖かった次姉が良き相談相手に。「姉が都内に住んでいたので、遊びに行っていました」。姉弟の絆は固い。
     淡々と時間が過ぎる毎日に疑問を抱く。1年半頑張ったが退職。都内の古本屋でアルバイト生活。その時だった。「バイト先の先輩から、バンド組むから一緒にやらない? って声を掛けてもらったんです」。バイト仲間とよく行ったカラオケ店。結成バンドでは声の良さをかわれ、ボーカル担当に。「男に魂って書いて、メンソールという屋号でした」。
     都内のスタジオを借り、週1回の練習。「楽曲はギター担当の方の自作です。先輩はグリーン・デイが好きなので、そのような曲調ですね」。3ヵ月に一度ライブハウスで演奏。「観客は皆知り合いばかりでしたが、人前で歌うのは最高に気持ち良いです。口下手で人前で話すのは苦手ですが、歌だと気持ちを乗せ歌えるんです」。
     4年余り活動し、それぞれ思い思いの進路があり解散。電気店で2年余り勤務したが、「やりたいことも無いし、帰ろうかなぁ思い、地元に戻りました」。26歳の時。そんな時、またまた声が掛かった。「松代の地元バンドづくりに誘われたんです」。同級生4人バンド『CANBALL8』を結成。ボーカルを担当。松代観音祭、松代町商工会関係イベントなどで演奏。「やっぱりライブで歌うのは、本当に気持ちがいいですね」。

     職探しでも出会いが。「人と関わる仕事が良いなと思って」、松之山の介護施設・介護助手で働き始める。「全く初めての仕事で、覚えるまで大変でしたが先輩方に優しく指導していただきました」。勤めて3年目で介護福祉士の資格を取得。さらに声が掛かった。30歳で地元介護施設に転職。「来ないか? って声掛けを頂き、地元貢献できると思い転職しました。介護職は大変ですが、おじいちゃん、おばあちゃんの話を聞くのは楽しいですね」。

     円(まどか)さんとは友だちの紹介で出会った。29歳で結婚。小学4、3年と4歳、3人娘に囲まれる。「パパ、パパって呼んでくれるのが嬉しいし、可愛くて仕方ないですね。でも歌の練習をしていると、うるさーいって言われるので、車を走らせながら発声練習していますよ」。
     声量と声質を保つには日々の発声が大切。その練習方法も自分で編み出している。
     最近、自作の曲、詞にも挑戦。「家族への想いです。妻や子へ思いを込め、作っています」。
     ベイビー ありがとう
    ありったけの愛をくれて ベイビー 感謝してる
    私のすべてなんだ
     最近の作詞の一節だ。
     「楽しいことは何歳になっても共有できるので、仲間と音楽に関わり続けたいですね。各地のバンドとも仲間の輪を広げ、地域を盛り上げたいです。一緒にやりませんか?」。

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      深井裕司さん

    2024年11月23日号

  • 「自分の手で生みだす」

    佐藤 弘祐さん(1984年生まれ)

     音楽、物作り、自分の手から生み出す感覚が心地いい。「音楽は、なんだかんだずっと続けられていて、不思議です」。父の部屋にあったフォークギター。いつも何気なく見ていただけだった。松代
    中学2年生の時、「なんとなーく、フォ
    ークギターに触れてみたら音が出て。そこからです」。
     弦を弾くと音が出る。その魅力にどんどん引き込まれていった。「今までそんなにやりたいことも無かったんですが、音楽には強く興味を持ちましたね」。そんな姿を父も見ていた。「エレキギターの初心者セットを買ってくれたんです。本当はフォークギターが良かったんですが…おすすめされました」。

     家に居る時はエレキと向き合う時間がはじまった。毎日弾いても飽きることなくのめり込んでいき楽しさを感じた。「その頃、友だちも音楽に目覚めて、ふたりでずっと練習していましたね」。松代高に進み、さらに自己研鑽に励んだ。「中学校の頃はグレイ、高校の頃はハイスタンダードの曲にはまって、全曲弾けるようになりました」。
     高校卒業を目前にして進路に悩んだ。「父からは一度は東京に出て一人暮らししてみろ、とアドバイスをもらって進学を考えました」。三者面談、進路選択案内でESPミュージカルアカデミーのギタークラフト科が目に留まった。「これだ!行くならココだって思いました」。都内へ進学。
     「モノづくりも好きなので、好きな事に夢中になれる時間が楽しかったです」。2年間の学びを経て、さらに1年、研究科にも進んだ。しかし…、「就職先がなかなか無くて、狭き門でもあったのですが。自然豊かな地元に帰りました」。
     生まれ育った松代に戻った。21歳の時。エレキギターを作っていた腕を活かし、もの作りがしたいと市内木工店に勤務。家具や建具など細かい細工などの専門分野だ。障子や襖(ふすま)など木を削り作り上げる。「木には様々な種類があり、木の香りや感触など様々です。木の温もりを感じながら作っています」。モノ作りは家でも発揮。「木で作った子ども用棚やスキーブーツ乾燥の用具などを作り、家族に喜ばれています」。2019年、妻・真由美さんと結婚、2人の子どもに恵まれた。

     音楽活動は続けている。松代に戻り同級生と
    バンド結成。『CANBAL
    L8』に改称し本格的に活動。ボーカル、ギター、
    ドラム、ベース、4人の同級生メンバーで松代の観音祭をメインに演奏活動。楽曲も年を重ねるごとに変わってきている。「メッセージ性のある曲を演奏するようになりましたね」。ジー・フリーク・ファクトリーなど自分で作ったエレキギターを使用し演奏する。
     2年前、さいたま市大宮演奏した。「松代町商工会の依頼で一緒に行きました。緊張したけど、祭りと変わらず皆さんに聞いてもらえて楽しかった」。今後は観音祭だけではなく市内各所にも進出したいとする。
     「皆さんの前で演奏し、音楽を聴いてのってくれる姿は力になりますね。あまり何かが続くタイプではなかったのですが、音楽は自分の世界に入れる魅力があります。今後も時間の許す限り、メンバーと音楽活動をつづけていきたいです」。
     最近は十日町大太鼓『雪花会』に入り、幅広い音楽の魅力を追及。「奴奈川小学校時代に太鼓をしていたので活かせるかなと思って。様々な音やモノを自分の手で作り上げたいですね」。

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     高橋直幸さん

    2024年11月16日号

  • 「地域の伝統を守り、つなぐ」

    雲野 誠さん(1981年生まれ)

     小さな頃から身近に家づくり職人がいて、その技を間近で見ていた。「いつか自分も大工になりたい、ずっと思っていました」。十日町市八箇に生まれ、祖父は大工職人。鋸(のこぎり)や鉋(かんな)
    鑿(のみ)で
    木を切り、
    木を刻む姿を、憧れの眼差しで見ていた。「おじいちゃんのような職人になりたいと、その道に進みました」。
     八海高校体育科を卒業後、迷いなく大工の道へ。津南町の工務店に勤務。「まさに職人気質の現場でした。憧れと現実は違いました」。3年間頑張って働き転職。建築や土木関連の塗装会社へ。「手に職をつけたいし、何かを創り上げる仕事に携わりたかったんです」。十日町市の新装へ。
     塗装は見た目と共に保護や保存効果が高い。屋根や壁など住宅全般から野外の公共物など幅広い。「形も大きさも色も全て違います。それだけに奥が深く技術的な難しさもあり、日々学びでした。特に色の配合は、求められた色がぴったり合った時は本当に嬉しいですね」。
     どんな職も、その道のプロからは学ぶことが多く、人としてのあり方も学んだ。「厳しく、優しく教えていただき、それが今の自分につながっています」。19年間、地道に実績を積んだ。先輩から「そろそろ自分の力を試してみたらどうだ」と進言を受け、40歳で独立を決意。『雲野塗装』を立ち上げた。妻・美恵さんの後押しも大きかった。
     「事務を妻が担当してくれ、新装さんからのご支援も受けやっています」。誠実な仕事ぶりが人から人へとつながりを生み、市内外から声がかかる。「やりがいと不安の両方がありますが、いい仕事がしたい、これだけです。お客さんが喜んでくれる顔が私のやりがいです」。

     祖父の職人ぶりを間近で見て育ったが、それに通じる地域の伝統活動、『八箇太鼓』に八箇小学校時代、6年間みっちり取り組んだ。卒業後、ご無沙汰していたが26歳の時、母校の閉校を聞く。同時に「小学校が無くなると地域との関わりが途絶えてしまう。なんとか八箇太鼓を復活させてくれないか、と頼まれたんです」。
     すぐに当時の仲間たちと動き、2007年にメンバー10人余で『八箇太鼓』を復活。その年、世界で活躍する太鼓集団『鼓童』公演を見て、さらに刺激を受けた。
     「よしっ、やろうぜ、やろう…だったんですが…」、始めると「温度差を感じたんです」。3年が過ぎた時、「十日町大太鼓の『雪花会』から、生誕地祭りの助っ人に来ないか、と声を掛けられました」。3㍍の大太鼓。本町メインストリートを叩きながら練り歩く生誕地祭りの大太鼓だ。これまでにない高揚感を体感、魅了された。
     コロナ禍で活動自粛が続き、昨年4年半ぶりに再開。「私からそろそろ始めませんかって声を掛けたんです。そしたら、そのまま代表になってしまいました」。『雪花会』代表として活動する。メンバーの異動もあったが、いま子どもたちも含め16人で活動している。

     先輩から受け継いだ伝統を次代へ伝える責務を感じている。「曲、動き、一つ一つ細かい所の習得には苦労しますが、太鼓の音が合い、仲間との思いが一つになった時は最高ですし、演奏への声援や拍手は最高の励みですね。これまで頂いたご恩に、今度は我々が恩返しです。太鼓で地域を元気に盛り上げたいですね」。

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     佐藤弘祐さん

    2024年11月9日号

  • 「世界を知ってカラフルに」

    髙橋 拓也さん(1988年生まれ)

     オーストラリア、ニュージーランド、東ティモール、インドネシア…、国を巡るなかで見えてきたのは、「世界のカラフルさでしょうか」。多様な人たちと暮らし、様々な考え方、まさに「価値観の多様性」を肌で感じ、その感覚がいまにつながっている。

     「思いついたことは全てやってみたい。先ず行動する、これですね」。十日町南中時代、陸上100㍍に取り組み、練習で自己ベストを次々更新。「その年の全中は北海道だったんです。ウニ丼が食べたい、これは全国だと、そこからエンジンがかかったんです」。
     全国への壁は高く叶わなかったが、努力が認められ、スポーツ推薦で東京学館新潟高校へ。陸上に集中し始めた1年生の10月、あの中越地震が発生。「なにがきっかけだったのか自分でも分からないんですが、やる気がなくなってしまったんです」。
     陸上をやめ、自分と向き合った。「何か目標を持たないとダメなたちなんで、『やりたいことノート』を作り、かたっぱしから制覇していきました」。
     スキューバ免許取得、アメフト、ボクシングなどやりたいことでノートが埋まっていった。資金はアルバイトで稼いだ。「高校2年の時、国内を一人旅し、次は世界一周だと思ったんです」。そのためには英語が必要と高卒後、都内の語学系大学へ進んだ。だが、「日本にいたって話せないと思って、その年に大学を辞めました」。
     その時19歳。ワーキングホリデーでオーストラリアへ行き、地元の人との交流で英語を習得。自然を求めニュージーランドにも行った。外国の生活で自分の中の価値観も変わってきた。「当たり前のことですが、実際に外国の地で暮らし、人と交わり、自分の世界観がカラフルになりましたね」。目標の世界一周が見えて来たなか、オーストラリアに7ヵ月滞在し、東ティモール、インドネシアを巡る。そしてバリ島で今につながる「ヨガ」と出会った。

     心と身体に向き合うヨガ。その瞑想の素晴らしさと神秘性に魅かれ、本格的な習得のために帰国。都内で集中的に学び、指導できるまでになり講師に。15年間勤める。外国人受講生も多く、習得した英語が役立った。ヨガ教室のPRデザインや映像編集、ユーチューブ運営なども独学で習得し担当。「やっぱり自然が良い」と今年3月、十日町に戻る。
     だが、すぐに動きだした。マイカーを改修し日本一周の旅に出発。「3ヵ月余りで47都道府県を巡りました。楽しかったですねぇ~」。十日町に帰り、出会いが待っていた。「ヨガの生徒だった横浜の方が十日町に移住してたんです。すごい偶然ですよね。その方に太鼓に誘われたんです」。
     高校時代のバンド活動でドラムをやり、ニュージーランドでは打楽器ジャンベを経験。「誘われたら、なんでもトライなんです」。

     十日町大太鼓『雪花会』に入り、直径3㍍余のビッグな太鼓を、野球バットより重いばち2本で叩く。「音が跳ね、全身に響いてすごいんです。はじめはメンバー3人位だったんですが、誘い合って今では子ども含め16人のメンバーで取り組んでいます」。早3ヵ月、すっかり板についている。
     人と人とのつながりが自分の成長になっていると考える。「南中時代の陸上部後輩とも偶然再会し、それをきっかけに仕事をいただいて、人とのつながりもグンっと増え、仕事の幅もがりました」、「映像クリエイターも太鼓も、人と繋がるツールです」。映像企画・編集やユーチューブ運営代行など、県内外からも依頼の声がかかる。
     「十日町市で出会った人と楽しく仕事をしながら、そこからさらに全国、そして世界へと視野を広げていけたらと考えています」、「ココで暮らしながら世界と仕事をする…こんな暮らしができたらステキですよね。出会い、大切にしたいです」。

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     雲野誠さん

    2024年11月2日号

  • 自然と共に生きる

    太島 勝重さん(1982年生まれ)

     思ったらまずは行動。その先にあったのは『空に一番近い所で仕事をする』、特殊伐採師『空師(そらし)』だ。「英語が話したいと思って、ワーキングホリデーに行ったことがきっかけです。不思議ですね」。

     生まれは十日町市中里。
    高卒後、
    地元に就職。「あの
    頃は、これがやりたいというものが無かったなぁ」。19歳のお盆休みの頃だった。「友だちが夏休みで帰省し、一緒に遊んでいたら、友だちの携帯電話が鳴り、ちょっとごめんと、電話に出たと思ったら英語で話しはじめて…かっこいいなって。そこからでした」。 
     英語を話せるようになりたい。思ったら即行動。「叔父がアメリカのシアトルで飲食店をしていると聞いて、19歳の時に、雇ってもらいたいとアメリカまで言いに行きました」。しかし、「アメリカの失業率は高く、優先的に失業者を雇いたい、英語を話せない私を雇う必要性が見つからないと言われましたが、ワーキングホリデーという制度を教えてもらいました」。
     日本に戻り、英語を独学で勉強しながら3年間資金を貯め、2007年、カナダ・バンクーバーへ。「高級住宅地の芝や木の剪定などガーデニングの仕事をしたのですが、その時にツリークライミングで特殊伐採をする職人と一緒に仕事する機会があったんです」。 木に登り、木の上から順に幹を切り、伐採木はロープを使って下す。日本では見たことがない伐り方だった。木登りして遊ぶツリークライミング技術の応用と知り、「伐採だけでなく、何百年も生きた巨木の調査もその技術を使います。自分の体一つで樹の手入れをする姿に憧れを抱きました」。

     1年後に帰国。「木を切るには、チェーンソーを使いこなせる技術が必要」、チェーンソー技術を学ぶため津南町森林組合で5年間働く。山奥に入り間伐や造林などに取り組み技術を磨いた。
     2013年、再びワーキングホリデーでニュージーランドへ。特殊伐採技術やボーンカービングアクセサリー、パーマカルチャーにも興味があり、その先進国だ。「あの『ネピア』の原材料のパルプ材も伐採しました。このパルプ材などは通常の木の8倍も育つのが早い。1日150本くらいチェーンソーで切り、大きな木を山から山へワイヤーを張って運びました」。林業の奥深さを体感。同時に自然への畏敬の念の深さも感じた。「ニュージーランドは自然をとても大切にしている国。自然に感謝し、楽しんで生活に取り入れている姿に『自然と共に生きる』ことの意味を実感したんです」。2014年に十日町に戻った。

     山と共に生きる、山や木に生かされる実感を抱き、現代の木こり業『木こり屋八十八』を立ち上げる。商号はコメどころにちなむ。「米づくりには八十八の手間がかかると言われ、私たちもていねいな仕事をしよう、という思いです」。2017年、35歳の時。
     大型重機を使わず、狭い場所やクレーン車が入れない所でもツリークライミング技術で木をコントロールし、上部から大切に切る。「時間と手間はかかりますが、木や森と向き合い、山にダメージを与えない低負荷の伐採を心がけています」。この確かな技術が求められ、関東圏など県外からも声がかかる。
     昨年結婚。「私を含め3人の従業員と妻が協力してくれています。木を切るだけではなく、切った木は余すことなく使いたいですね。杉から精油を作ったり、地域流通活用をめざしています」。
    自然環境には特に目を向ける。「人は自然の恵みに生かされ、自然を大切にしてきました。しかし、今は人間社会と自然とが離れつつあります。山は人の手が入らなくなると荒廃していきます」。
     「先人たちが受け継いできた文化を今に活かし、自然の中にいる人間のあるべき姿を考え、何ができるかその間に立ち、私たちの社会の土台である自然という大切なモノを木こりとして発信し、人と自然を結び直す活動をしていきたいですね」。
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     髙橋拓也さん

    2024年10月26日号

  • 「やっぱり、パンを作りたい」

    金谷 日向さん(1989年生まれ)

     歩み続けて来た人生、その度、その度、自分の気持ちと向き合ってきた。「何をしたいのか、将来何をして生きていきたいのか。その時々、自分の気持ちと向き合いました。食のこと、飲食に関わることへの思いが強くなっていきました」。
     そのきっかけは大地の芸術祭だった。首都圏の大学で心理学を学んでいた4年の夏休み。2012年帰省した時、父からの言葉だった。「大地の芸術祭巡りに行こうと父から誘われました。生まれ育った妻有ですが、地域を巡りながら、改めて妻有の素晴らしさを感じたんです」。自然の心地良さ、リラックスできる地域環境、生まれ育った地を離れて分かったこの地の解放感だった。「芸術祭もきっかけでしたが、帰ろうと決めました」。

     十日町生活が始まったある日。「本屋に行ったんです。たまたま目に留まったのが『手ごねパン』の作り方の本でした」。その本の作り方を見ながらパンを自作した。何度も何度も作り、次第に夢中になっていく自分を感じ、さらに打ち込んだ。
     「これは面白い、楽しいと、市外のパン作り教室にも通いました」。この時、26歳。友だちや周囲から結婚や出産の話しが次々と聞こえた。「自分は何がしたいのか、その時も自分と向き合い、考えました。これも出会いなんですね、パンづくりがしたい、これでした」。20代最後のチャレンジ、これも自分の人生、どんな経験も無駄な経験はないと、自分で探し、首都圏のパン屋に就職した。
     厳しい現実が待っていた。予想以上に過酷でハードな業務。「朝暗いうちから夜遅くまで働きました。振り返ると辛かった気持ちも正直大きいですね」。 
     ただ経験から一つの確信を得た。「パンづくりがさらに好きになり、職人の世界に触れることができ、とっても勉強になったと思っています」。職人が手慣れた作業を淡々とこなすが、そこには秒刻みの手順やしっかりした準備と段取りが必要、その基本の基本を体感できた。「あの経験は本当に大変でしたが、それが今に活かされています」。

     早朝から夜遅くまで1年間、みっちりパンづくりを学んだ。その後、販売経験を積むためカフェへ転職。2018年大地の芸術祭の年だった。「カフェ転職までの1ヵ月間、大地の芸術祭に行こうと調べていたら、里山食堂の短期アルバイト募集があり、すぐに応募しました」。
     玄米を主体に、主菜の穀類に旬の地元食材の美味しさをそのまま提供する里山食堂。「毎日まさに目の回る忙しさでしたが、スタッフの皆さんがとても温かくって、パワフルで楽しく、あっという間の1ヵ月でした」。 都内へ戻ったが、大地の芸術祭の食関係の仕事をしたい思いが募り、2019年、二度目のUターン。再び十日町生活が始まった。
     市内の飲食店で働き始めた頃、里山食堂から声が掛かった。帰っているという情報が流れたらしい。アルバイトから正規職員になり、やりがいや責任感が増していった。
    「経験も積み、30歳を超えて、もう一度自分と向き合ったんです」。歩みを振り返ると、自分の気持ちが見えて来た。『パンづくりをしたい。自分のお店を持ちたい』だった。2023年3月退職。

     様々なイベントなどに自作パンを出店しながら自分の店づくりの準備を進めた。今年4月、『パンと暮らしとヤナギヤ』を開店。そのお店は自宅である津南町鹿渡新田の古民家。店名は屋号『柳』から。「柳の家の雰囲気を活かせるパン屋ができれば素敵だなって思って、そのまま店名にしました」。 築100年余、太い柱や梁が雰囲気を作り出す古民家。そのひと部屋を改修し、古民家に残る民具や家具など活用。丹精込めて作ったパンは、古道具店で一目ぼれしたアンティークなショーケースに並ぶ。
     北海道産小麦を使用し、ぶどうやりんごなど様々な素材による自家製酵母で焼き上げるこだわりパン。「地元で採れた季節が感じられる旬の食材をパンにアレンジし、彩りを考え、目でも楽しめ、美味しそうなものをと考えています」。
     思いを込め、こだわりぬいたパンは評判を呼び、地元はじめ十日町市や南魚沼市、県外からの芸術祭や行楽客などネットを通じて広範囲から多くの人が足を運ぶ。
     「旬のもの、季節の野菜を活かす料理は前職の里山食堂で学んだことが生きています。できるだけ手作りで、季節のものを使ってお客様に届けたいですね」。

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     太島勝重さん

    2024年10月19日号

  • 「食、すべての基本ですね」

    関 綾子さん(1987年生まれ)

     『おいしい』、このひと言が食づくりのエネルギー源。「あれこれ組み合わせを想像してワクワクしちゃうんですよね。巾着の中にトロロをいれて蒸したり、豆腐と納豆を入れたり」。誰も思いつかないような組み合わせが次々と思い浮かび、「人にもその発想なかなかないよねぇ、
    なんて驚かれます」。
     こだわりを持った創作料理や、手作り弁当をつくる『自然食ぽのわ』を開き3年目になる。

     『食』のルーツは小中学時代を過ごした南魚沼市五十沢の自然豊かな体験がベース。「何かを作るのが好きでした。小学校から帰ってきたら、友だち3人とケーキ作ったり、またそれをアレンジしてみたり料理作りを遊びのように楽しみました。当時は、そんなに簡単にお菓子なんて買えなかったのもあると思います」。
     さらに五十沢中学ではアウトドア活動に魅力を持つ。「川がきれいで、イワナ、ヤマメ、カジカを突いて、その場で焼いて食べたりしていました。獲りたての魚の味は最高に美味しかったです」。
     中3の時、十日町市に引っ越す。高卒後、幼少から夢だった保育士をめざし専門学校へ。だが…、「憧れが強かったのもあって、理想と現実の大きな違いに私のめざす保育ではないと感じ2年で十日町に帰ってきました」。

     そこから人生が方向転換。大きく動き出した。弁当屋に始まり、様々な施設など「食」に関わる業務を次々と経験。「いつか、自分のお店が持ちたいなぁって思い始めたんです。夢が叶うといいなぁって」。
     転機は、まつだい農舞台「里山食堂」勤務の時だった。「マクロビオティックという調理法との出会いでした」。玄米を主体に穀物を主菜として旬の地元食材の美味しさをそのまま提供する里山食堂。今までとは違った調理法、考え方に驚いた。「その時、息子が食物アレルギーでしたが、無農薬や無添加食品に代えたら症状が良くなったんです」。食の大切さを実体験として感じ、同時に、アレルギーや病気で食事制限に悩む人たちの力になりたい、その思いがさらに増し、「自分の店を持ちたい」と、開業への思いも強くなった。

     そんな時だった。『空いている店舗があるけど、どう?』。その人が声を掛けてくれた。「いまだ、自分でやろう」と決意。弁当屋「七彩」を開業。29歳だった。
     だが経営は難しい。「私は作ることは好きなんですが、思いだけじゃ継続できない。止めようかな…と考えたんです」。だが、あの人がまた声をかけてくれた。『いい人が居るよ、会ってみたら』。「不思議ですね、いつもそろそろ方向転換って思うと、その人が声をかけ連絡をくれるんです。いつも絶妙なタイミングで」と笑う。
     紹介された人は、食に対して同じ価値観を持つ人だった。2021年8月に出会い、9月には店をオープン。スピード結婚のような出会いから事業パートナーとなった。
     『自然食ぽのわ』。ハワイ語でポノは「ありのまま、精神、環境、物事、健康、全てのバランスが整った状態。正常な状態の事を言います」。それが広がっていく思いを「輪」という言葉に乗せ「ぽのわ」。子どもから大人まで喜ばれる安心安全の食の提供を二人三脚で経営、3年目を迎える。
     「車麩や大豆をお肉料理に仕立てるなど、目で見て楽しみ、味付けも変え、煮る、揚げるなど調
    理法を工夫し、変化をつけています。食材に固定概念を持ってほしくないですね」。オヤッと思う料理は、食を通して会話も弾む。「お客さんに、『これ何?』と、食からの話題の広がりも楽しみの一つです」。そんな楽しい雰囲気が口コミで広がり、来店者の幅が広がりに繋がっている。
     「現在JAべジぱーくで弁当や総菜を置き、仕出しや弁当の注文を受けています。今後はアレルギーや食事制限に悩む方にも対応した出張料理代行も準備中です」。さらにハワイアン料理「レイ」を市内宮下町で金曜夜に限定営業。レイは感謝の言葉。
     「食事は、自分で選んで自分の体内に入れるものです。なんでも手軽に入る時代だからこそ、自分で身体が喜ぶ食事を選んでほしいです。それは自然に良い身体が出来ていくことになりますから」。

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     金谷日向さん

    2024年10月12日号

  • 娘とのかけがえのない時間

    斉木宏幸さん(1978年生まれ)

     中学2年、高校3年の娘2人との会話のやり取りは、年々少なくなってきている。「自分に話しかけてくるときは、送って、迎えきて、アイス買ってきて、ですかね」。少しずつ大人になっている2人の姿。「そういう年代に入ってきているんですね。娘専属の便利なタクシーですよ」と、笑う。
     今はおもに長女の送迎担当。娘と2人の車中、この時間がかけがえのないものに感じるようになっている。「もう高校3年生ですよ。ほんと早いですね」。自分の高校時代と重なる。
     県立十日町実業高校として最後の卒業生だった。翌年、カリキュラムを変更し十日町総合高校に改称。「カラオケでオールして遊んで、プリクラが流行ったんで写真部作ろうってなって。名前だけの部長になった事もありました」。高校時代、仲間と一緒に遊ぶ時間が楽しかった。だが、時間は過ぎていく。
     卒業後はどうする、親からのプレッシャーを感じつつ、「これといってやりたいというものが無かったので、何か資格を取りたいと考え進んだんですが…」。
     新潟テクノスクールの土木測量科を選び卒業。しかし、「測量の仕事がなくって、土木や配管をする仕事につきました」。
     長岡の建設会社で働き始めるが土木や配管などの業務をこなし、早朝から時には夜遅くまで、ただ時間だけが過ぎていく、そんな日々が続いた。「これでいいのかと、だんだん疑問が大きくなって」、3年で見切りをつけ、十日町に帰った。

     十日町で就職した住宅設備会社。
    家の水回り全般を扱う。前職での業務経験は配管、その技術を生かしたいと次々と現場に出向いた。気が付くと17年が過ぎていた。「失敗も多くしました。それらすべてが経験値となり、自分の技術アップにつながってきました」。出来上がった時の達成感は大きく、仕事へのやりがいも増し、同時に責任ある業務を任されるようになった。
     ある日、会社をたたむと聞いた。日々関わり世話になっていた関連会社から『うちに来ないか』と声がかかった。「ありがたかったですね。悩んだんですが、新しい挑戦をしてみようと思って住宅の水回り全てと電気、ガスも取り扱っている会社に決めました」。ガスの取り扱い資格や電気工事関連の資格を取得し、業務の幅を広げている。
     
     「配管はその住居や建物により全て違います。難関な場所の配管が出来た時は嬉しいですね。排水管や水道管などは人間の身体では血管のようなものです。ですからきれいに正確につなぐ、これが一番大切なことです」。
     経験値はさらにアップしている。今は後輩への確かな技術伝達を伝える立場だと感じている。「自分がいろいろ教えてもらって覚えてきた分。これからは自分の経験をしっかり次世代に伝え、さらに高い技術アップにつないでほしいですね」。

     2人の娘の父。成長から月日を感じる。「娘たちはバスケットをやっていたり、推し活したりと忙しそうです。俺も何か趣味が欲しいなと思うんですけどね…」、「なんだかんだ娘の送迎が趣味なのか…。この時間、何気ない日常ですが、だんだん愛おしい時間になってきていますね」。

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     関綾子さん

    2024年10月5日号

  • 「合志先生と出会い、生き方学ぶ」

    田邊孝一さん(1982年生まれ)

     恩師との出会いが、その後の生き方に大きく影響している。松之山小4年生の時、担任だった当時20歳代の合志淳教諭と出会った。「それまでは、学校って勉強して、いい点とって…っていう場所だと思っていたんですが…」、合志先生の言葉は違った。 『頭で覚える勉強も大事だが、楽しく、心で覚えることを学べ』。その場面はいまもはっきり憶えている。「その時からです、なんでも楽しく、辛いことでも、何事も前向きに考えるようになっていきました」。
     いつも子どもたちと一緒に動き、一緒に考える恩師だった。「合志先生は、初雪が降ったら、外行くぞーって1限目から雪遊びに出て、そのまま授業時間が終わったりと。でも、いけないことをしたら凄く叱られましたが、いたずら程度では怒られたことはなかったです。人間味にあふれ、熱くて、皆が先生のことが大好きでした」。

     生まれは東京・府中市。1987年、幼稚園年長の時、父の実家がある松之山に家族で移り住んだ。「あまり覚えていないんですが、保育園入ったばかりの時、『声かけたのに、こっち来るなって叩かれた』って、同級生に今でも言われます」と笑う。そこは子ども同士、すぐに地域にも仲間にも溶け込み、小中は陸上やアルペンスキーに取り組む。「練習はきつかったんですが、まぁ何とかなるか、でした。それに友だちや先輩たちが居たから続けられましたね」。さらに「教室でものまね大会を開いたりと、毎日が楽しかったです。調子に乗りすぎちゃうこともあるんですが、仲間たちがよく助けてくれてますね」。
     松代高校へ進む。「進路に迷った時、友だちが持っていた進路パンフにビビビっときたんです」。4歳下の妹、8歳下の従弟の面倒を見ていたことから、「子どもが好きだなって思って」。長岡・北陸学園保育科に進学。「当時、保育士をめざす男子は少なく、女性80人に男性15人位でした。その分、男たちの団結力はすごかったですよ。いまでも仲良しです」。学園祭でのライブで影響を受け、「同級生でバンド作るかって。私はエレキギターを選び、毎日皆で練習、週5日は飲み会してました。楽しかったなぁー」。
     
     保育士初任地は十日町市の私立保育園。学園時、出会いがあり結婚、4人の子たちのパパだ。「園でも家でも、子どもたちに遊んでもらってました。子どもの発想って本当に面白いですね」。ちょっと先を考え16年前、松之山・不老閣に転職。「保育士から介護の仕事、最初は戸惑いもありましたが、入所者さんから『いい男だ、いい男だー』なんて、おだてられて、毎日楽しく業務しています」。
     学生時代からのバンド活動も続け、松之山出身の後輩と2人組デュオ『二つ星』を結成し、作詞作曲にも挑戦。十日町雪まつりや各所のイベントなどに出演した。バンドやデュオ解散後も歌への情熱は変らなかった。その時、『NHKのど自慢大会』出場のチャンスをつかんだ。「会場は中里アリーナでした。多くの皆さんの前で歌えたこと、最高の経験でした。結婚10周年だったので、妻への感謝を込め吉田山田の『日々』を歌いました」。
     のど自慢出場で感じたのは、「出場された方々の歌のうまいこと。うまい人って、こういう人たちのことなんだって感じたんです」、感情の込め方、歌に強弱をつけるなど意識し練習している。のど自慢出場者との交流がいまも続く。「みんなで定期的に集まりカラオケで練習したり、良い刺激になっています。私にとって歌はなくてはならないものです」。

     小学4年で出会った恩師、合志先生は今年3月、定年退職を迎えた。「同級生で、合志先生を囲む会を開き、皆で集まろうかって話しています。伝えたいことがいっぱいあるし、話したいことがいっぱいありますから」。

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     小宮山英樹さん

    2024年12月7日号

  • 「音楽、そして家族へ」

    深井裕司さん(1982年生まれ)

     没頭すると寝食を忘れてのめり込む。「30代の初めまでは音楽に没頭していました。集中すると止まらなくなるので、家族ができてから、音楽は封印しています」。

     31歳の時、同じ職場が縁で出会った里花さんと結婚。「娘が1歳にな
    った時、自然の中で子育てをしたいという妻の希望で、松代に引っ越しました」。2015年、加茂市から家族3人で移住。妻の両親と二世代で暮らす。

     生まれも育ちも加茂市。「加茂小、加茂中、加茂高、でしたねー」。8歳上の兄、6歳上に姉がいる。「兄がバンド活動でエレキギターをやっていて、触らせてもったのがきっかけです」。
     兄への憧れからエレキギターを初め、独自でテクニックを研究、のめり込んだ。「末っ子だったので、兄や姉の後を追う引っ付き虫でしたね。だから引っ込み思案だった。でもギターは、やりたいと自分で始めたものです」。 
     高校時代は授業が終わると家へ直行。同級生4人と毎日ギター練習。「兄がボーカル担当でライブハウスで演奏もしました。あの頃はグレイが流行っていて、毎日練習し18曲くらいを2時間通して演奏してましたね。今思うと、よく怒られなかったなぁーと思います」。
     県内大学へ進学、新潟市内就職後も大学時代のバンド仲間とライブハウスで定期的に演奏し、ソロ活動では作詞作曲にも挑戦。さらに音楽を深めていった。「仕事が終わって、家に帰ってすぐ音楽制作。朝まで寝ないで没頭し、そのまま仕事へ行くとか、夢中でしたね」。
     ギターテクニックを磨きたいと様々な音楽動画など見て学んだ。腕を見込まれ、「県内ソロシンガーのバックでギターを弾いたこともあります」。ソロ活動でCDを出したことも。「今でも楽曲の1つがカラオケに登録されています」。
     新潟市で働いていた頃、職場で出会いがあり結婚を決意。「音楽はスパッと辞めました。家族に全集中です。いま思うと、あの頃は音楽に没頭しすぎていて、何歳の時に何してたっけ?って、時系列がぐちゃぐちゃです」。

     小学3年、5年の娘と年少の息子の3人の父。「加茂市と違って雪は多いですが、地域の皆さんはとっても優しいですね」。松之山・松涛園に勤務。「介護職は大変なイメージもあり、初めは実家の親にも反対されたんです。でも、仕事をしなくてはいけないし、そんなことも言ってられなかったですね」。
     4年余の実務を経て介護福祉士資格を取得。9年目に知人の紹介で不老閣へ転職。「タイミングでした。大変なことも楽しいことも勿論あります。ただ、関わったお年寄りの方がリハビリで機能向上すると嬉しく思いますね。どうしたら機能が上がるかを考え、突き詰めるのが好きなんでしょうか」。
     音楽は封印しているが、新しく手にしたものがある。「家族。それと、家族の歴史を記録するカメラですね」。義母がキャノンを持っていた。シャッターを押すといい音が響く。「あの感触、カメラっていいなって。家族貢献にもなりますし」。
     現在の愛器はニコンD780。「今までいろいろなカメラを更新してきましたが、D780はフルサイズだから室内に強く、子どもたちの何気ないしぐさやイベントに役立ちます。カメラの趣味をさせてもらって感謝です」。撮影した写真は家では勿論、子どもや愛猫の写真は職場にも飾られ入所者に喜ばれている。
     「我が子が生まれ、人生がガラッと変わりました。音楽にのめり込んだことは、自分の糧でもありますし、音楽があったから自分の自信にもなっています。日々成長する子どもたち、その姿をカメラで撮る、楽しいですねぇ」。

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     田邉孝一さん

    2024年11月30日号

  • 「歌で想いを」

    髙橋直幸さん(1984年生まれ)

     静かな佇(たたず)まい、だが秘める思いは熱い。マイクを握ると心のスイッチが入り、思いの丈が熱唱になる。「いやぁー、小っちゃい頃から口下手で」。ふたりの姉に抑えられていた。「7つ上と5つ上の姉ふたりです。いたずらすると『なおゆきー』って叱られていたので、だんだん無口になっていきましたね」。
     
     松代中時代、野球部と駅伝部を兼任、自分と向き合い、自分を鍛えた。「でも、高校では帰宅部で、バイクを乗り回して、よくドライブして楽しんでいました」。卒業後の進路に悩んだ。「親元から一度は離れてみたくて、神奈川県内で就職を決め、上京しました」。
     社員寮がある電気工事会社へ就職。「朝早く5時に出て、帰りは夜10時。体力的にも精神的にもしんどかったですね」。休日はひたすら寝て休むだけ。子ども時代怖かった次姉が良き相談相手に。「姉が都内に住んでいたので、遊びに行っていました」。姉弟の絆は固い。
     淡々と時間が過ぎる毎日に疑問を抱く。1年半頑張ったが退職。都内の古本屋でアルバイト生活。その時だった。「バイト先の先輩から、バンド組むから一緒にやらない? って声を掛けてもらったんです」。バイト仲間とよく行ったカラオケ店。結成バンドでは声の良さをかわれ、ボーカル担当に。「男に魂って書いて、メンソールという屋号でした」。
     都内のスタジオを借り、週1回の練習。「楽曲はギター担当の方の自作です。先輩はグリーン・デイが好きなので、そのような曲調ですね」。3ヵ月に一度ライブハウスで演奏。「観客は皆知り合いばかりでしたが、人前で歌うのは最高に気持ち良いです。口下手で人前で話すのは苦手ですが、歌だと気持ちを乗せ歌えるんです」。
     4年余り活動し、それぞれ思い思いの進路があり解散。電気店で2年余り勤務したが、「やりたいことも無いし、帰ろうかなぁ思い、地元に戻りました」。26歳の時。そんな時、またまた声が掛かった。「松代の地元バンドづくりに誘われたんです」。同級生4人バンド『CANBALL8』を結成。ボーカルを担当。松代観音祭、松代町商工会関係イベントなどで演奏。「やっぱりライブで歌うのは、本当に気持ちがいいですね」。

     職探しでも出会いが。「人と関わる仕事が良いなと思って」、松之山の介護施設・介護助手で働き始める。「全く初めての仕事で、覚えるまで大変でしたが先輩方に優しく指導していただきました」。勤めて3年目で介護福祉士の資格を取得。さらに声が掛かった。30歳で地元介護施設に転職。「来ないか? って声掛けを頂き、地元貢献できると思い転職しました。介護職は大変ですが、おじいちゃん、おばあちゃんの話を聞くのは楽しいですね」。

     円(まどか)さんとは友だちの紹介で出会った。29歳で結婚。小学4、3年と4歳、3人娘に囲まれる。「パパ、パパって呼んでくれるのが嬉しいし、可愛くて仕方ないですね。でも歌の練習をしていると、うるさーいって言われるので、車を走らせながら発声練習していますよ」。
     声量と声質を保つには日々の発声が大切。その練習方法も自分で編み出している。
     最近、自作の曲、詞にも挑戦。「家族への想いです。妻や子へ思いを込め、作っています」。
     ベイビー ありがとう
    ありったけの愛をくれて ベイビー 感謝してる
    私のすべてなんだ
     最近の作詞の一節だ。
     「楽しいことは何歳になっても共有できるので、仲間と音楽に関わり続けたいですね。各地のバンドとも仲間の輪を広げ、地域を盛り上げたいです。一緒にやりませんか?」。

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      深井裕司さん

    2024年11月23日号

  • 「自分の手で生みだす」

    佐藤 弘祐さん(1984年生まれ)

     音楽、物作り、自分の手から生み出す感覚が心地いい。「音楽は、なんだかんだずっと続けられていて、不思議です」。父の部屋にあったフォークギター。いつも何気なく見ていただけだった。松代
    中学2年生の時、「なんとなーく、フォ
    ークギターに触れてみたら音が出て。そこからです」。
     弦を弾くと音が出る。その魅力にどんどん引き込まれていった。「今までそんなにやりたいことも無かったんですが、音楽には強く興味を持ちましたね」。そんな姿を父も見ていた。「エレキギターの初心者セットを買ってくれたんです。本当はフォークギターが良かったんですが…おすすめされました」。

     家に居る時はエレキと向き合う時間がはじまった。毎日弾いても飽きることなくのめり込んでいき楽しさを感じた。「その頃、友だちも音楽に目覚めて、ふたりでずっと練習していましたね」。松代高に進み、さらに自己研鑽に励んだ。「中学校の頃はグレイ、高校の頃はハイスタンダードの曲にはまって、全曲弾けるようになりました」。
     高校卒業を目前にして進路に悩んだ。「父からは一度は東京に出て一人暮らししてみろ、とアドバイスをもらって進学を考えました」。三者面談、進路選択案内でESPミュージカルアカデミーのギタークラフト科が目に留まった。「これだ!行くならココだって思いました」。都内へ進学。
     「モノづくりも好きなので、好きな事に夢中になれる時間が楽しかったです」。2年間の学びを経て、さらに1年、研究科にも進んだ。しかし…、「就職先がなかなか無くて、狭き門でもあったのですが。自然豊かな地元に帰りました」。
     生まれ育った松代に戻った。21歳の時。エレキギターを作っていた腕を活かし、もの作りがしたいと市内木工店に勤務。家具や建具など細かい細工などの専門分野だ。障子や襖(ふすま)など木を削り作り上げる。「木には様々な種類があり、木の香りや感触など様々です。木の温もりを感じながら作っています」。モノ作りは家でも発揮。「木で作った子ども用棚やスキーブーツ乾燥の用具などを作り、家族に喜ばれています」。2019年、妻・真由美さんと結婚、2人の子どもに恵まれた。

     音楽活動は続けている。松代に戻り同級生と
    バンド結成。『CANBAL
    L8』に改称し本格的に活動。ボーカル、ギター、
    ドラム、ベース、4人の同級生メンバーで松代の観音祭をメインに演奏活動。楽曲も年を重ねるごとに変わってきている。「メッセージ性のある曲を演奏するようになりましたね」。ジー・フリーク・ファクトリーなど自分で作ったエレキギターを使用し演奏する。
     2年前、さいたま市大宮演奏した。「松代町商工会の依頼で一緒に行きました。緊張したけど、祭りと変わらず皆さんに聞いてもらえて楽しかった」。今後は観音祭だけではなく市内各所にも進出したいとする。
     「皆さんの前で演奏し、音楽を聴いてのってくれる姿は力になりますね。あまり何かが続くタイプではなかったのですが、音楽は自分の世界に入れる魅力があります。今後も時間の許す限り、メンバーと音楽活動をつづけていきたいです」。
     最近は十日町大太鼓『雪花会』に入り、幅広い音楽の魅力を追及。「奴奈川小学校時代に太鼓をしていたので活かせるかなと思って。様々な音やモノを自分の手で作り上げたいですね」。

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     高橋直幸さん

    2024年11月16日号

  • 「地域の伝統を守り、つなぐ」

    雲野 誠さん(1981年生まれ)

     小さな頃から身近に家づくり職人がいて、その技を間近で見ていた。「いつか自分も大工になりたい、ずっと思っていました」。十日町市八箇に生まれ、祖父は大工職人。鋸(のこぎり)や鉋(かんな)
    鑿(のみ)で
    木を切り、
    木を刻む姿を、憧れの眼差しで見ていた。「おじいちゃんのような職人になりたいと、その道に進みました」。
     八海高校体育科を卒業後、迷いなく大工の道へ。津南町の工務店に勤務。「まさに職人気質の現場でした。憧れと現実は違いました」。3年間頑張って働き転職。建築や土木関連の塗装会社へ。「手に職をつけたいし、何かを創り上げる仕事に携わりたかったんです」。十日町市の新装へ。
     塗装は見た目と共に保護や保存効果が高い。屋根や壁など住宅全般から野外の公共物など幅広い。「形も大きさも色も全て違います。それだけに奥が深く技術的な難しさもあり、日々学びでした。特に色の配合は、求められた色がぴったり合った時は本当に嬉しいですね」。
     どんな職も、その道のプロからは学ぶことが多く、人としてのあり方も学んだ。「厳しく、優しく教えていただき、それが今の自分につながっています」。19年間、地道に実績を積んだ。先輩から「そろそろ自分の力を試してみたらどうだ」と進言を受け、40歳で独立を決意。『雲野塗装』を立ち上げた。妻・美恵さんの後押しも大きかった。
     「事務を妻が担当してくれ、新装さんからのご支援も受けやっています」。誠実な仕事ぶりが人から人へとつながりを生み、市内外から声がかかる。「やりがいと不安の両方がありますが、いい仕事がしたい、これだけです。お客さんが喜んでくれる顔が私のやりがいです」。

     祖父の職人ぶりを間近で見て育ったが、それに通じる地域の伝統活動、『八箇太鼓』に八箇小学校時代、6年間みっちり取り組んだ。卒業後、ご無沙汰していたが26歳の時、母校の閉校を聞く。同時に「小学校が無くなると地域との関わりが途絶えてしまう。なんとか八箇太鼓を復活させてくれないか、と頼まれたんです」。
     すぐに当時の仲間たちと動き、2007年にメンバー10人余で『八箇太鼓』を復活。その年、世界で活躍する太鼓集団『鼓童』公演を見て、さらに刺激を受けた。
     「よしっ、やろうぜ、やろう…だったんですが…」、始めると「温度差を感じたんです」。3年が過ぎた時、「十日町大太鼓の『雪花会』から、生誕地祭りの助っ人に来ないか、と声を掛けられました」。3㍍の大太鼓。本町メインストリートを叩きながら練り歩く生誕地祭りの大太鼓だ。これまでにない高揚感を体感、魅了された。
     コロナ禍で活動自粛が続き、昨年4年半ぶりに再開。「私からそろそろ始めませんかって声を掛けたんです。そしたら、そのまま代表になってしまいました」。『雪花会』代表として活動する。メンバーの異動もあったが、いま子どもたちも含め16人で活動している。

     先輩から受け継いだ伝統を次代へ伝える責務を感じている。「曲、動き、一つ一つ細かい所の習得には苦労しますが、太鼓の音が合い、仲間との思いが一つになった時は最高ですし、演奏への声援や拍手は最高の励みですね。これまで頂いたご恩に、今度は我々が恩返しです。太鼓で地域を元気に盛り上げたいですね」。

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     佐藤弘祐さん

    2024年11月9日号

  • 「世界を知ってカラフルに」

    髙橋 拓也さん(1988年生まれ)

     オーストラリア、ニュージーランド、東ティモール、インドネシア…、国を巡るなかで見えてきたのは、「世界のカラフルさでしょうか」。多様な人たちと暮らし、様々な考え方、まさに「価値観の多様性」を肌で感じ、その感覚がいまにつながっている。

     「思いついたことは全てやってみたい。先ず行動する、これですね」。十日町南中時代、陸上100㍍に取り組み、練習で自己ベストを次々更新。「その年の全中は北海道だったんです。ウニ丼が食べたい、これは全国だと、そこからエンジンがかかったんです」。
     全国への壁は高く叶わなかったが、努力が認められ、スポーツ推薦で東京学館新潟高校へ。陸上に集中し始めた1年生の10月、あの中越地震が発生。「なにがきっかけだったのか自分でも分からないんですが、やる気がなくなってしまったんです」。
     陸上をやめ、自分と向き合った。「何か目標を持たないとダメなたちなんで、『やりたいことノート』を作り、かたっぱしから制覇していきました」。
     スキューバ免許取得、アメフト、ボクシングなどやりたいことでノートが埋まっていった。資金はアルバイトで稼いだ。「高校2年の時、国内を一人旅し、次は世界一周だと思ったんです」。そのためには英語が必要と高卒後、都内の語学系大学へ進んだ。だが、「日本にいたって話せないと思って、その年に大学を辞めました」。
     その時19歳。ワーキングホリデーでオーストラリアへ行き、地元の人との交流で英語を習得。自然を求めニュージーランドにも行った。外国の生活で自分の中の価値観も変わってきた。「当たり前のことですが、実際に外国の地で暮らし、人と交わり、自分の世界観がカラフルになりましたね」。目標の世界一周が見えて来たなか、オーストラリアに7ヵ月滞在し、東ティモール、インドネシアを巡る。そしてバリ島で今につながる「ヨガ」と出会った。

     心と身体に向き合うヨガ。その瞑想の素晴らしさと神秘性に魅かれ、本格的な習得のために帰国。都内で集中的に学び、指導できるまでになり講師に。15年間勤める。外国人受講生も多く、習得した英語が役立った。ヨガ教室のPRデザインや映像編集、ユーチューブ運営なども独学で習得し担当。「やっぱり自然が良い」と今年3月、十日町に戻る。
     だが、すぐに動きだした。マイカーを改修し日本一周の旅に出発。「3ヵ月余りで47都道府県を巡りました。楽しかったですねぇ~」。十日町に帰り、出会いが待っていた。「ヨガの生徒だった横浜の方が十日町に移住してたんです。すごい偶然ですよね。その方に太鼓に誘われたんです」。
     高校時代のバンド活動でドラムをやり、ニュージーランドでは打楽器ジャンベを経験。「誘われたら、なんでもトライなんです」。

     十日町大太鼓『雪花会』に入り、直径3㍍余のビッグな太鼓を、野球バットより重いばち2本で叩く。「音が跳ね、全身に響いてすごいんです。はじめはメンバー3人位だったんですが、誘い合って今では子ども含め16人のメンバーで取り組んでいます」。早3ヵ月、すっかり板についている。
     人と人とのつながりが自分の成長になっていると考える。「南中時代の陸上部後輩とも偶然再会し、それをきっかけに仕事をいただいて、人とのつながりもグンっと増え、仕事の幅もがりました」、「映像クリエイターも太鼓も、人と繋がるツールです」。映像企画・編集やユーチューブ運営代行など、県内外からも依頼の声がかかる。
     「十日町市で出会った人と楽しく仕事をしながら、そこからさらに全国、そして世界へと視野を広げていけたらと考えています」、「ココで暮らしながら世界と仕事をする…こんな暮らしができたらステキですよね。出会い、大切にしたいです」。

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     雲野誠さん

    2024年11月2日号

  • 自然と共に生きる

    太島 勝重さん(1982年生まれ)

     思ったらまずは行動。その先にあったのは『空に一番近い所で仕事をする』、特殊伐採師『空師(そらし)』だ。「英語が話したいと思って、ワーキングホリデーに行ったことがきっかけです。不思議ですね」。

     生まれは十日町市中里。
    高卒後、
    地元に就職。「あの
    頃は、これがやりたいというものが無かったなぁ」。19歳のお盆休みの頃だった。「友だちが夏休みで帰省し、一緒に遊んでいたら、友だちの携帯電話が鳴り、ちょっとごめんと、電話に出たと思ったら英語で話しはじめて…かっこいいなって。そこからでした」。 
     英語を話せるようになりたい。思ったら即行動。「叔父がアメリカのシアトルで飲食店をしていると聞いて、19歳の時に、雇ってもらいたいとアメリカまで言いに行きました」。しかし、「アメリカの失業率は高く、優先的に失業者を雇いたい、英語を話せない私を雇う必要性が見つからないと言われましたが、ワーキングホリデーという制度を教えてもらいました」。
     日本に戻り、英語を独学で勉強しながら3年間資金を貯め、2007年、カナダ・バンクーバーへ。「高級住宅地の芝や木の剪定などガーデニングの仕事をしたのですが、その時にツリークライミングで特殊伐採をする職人と一緒に仕事する機会があったんです」。 木に登り、木の上から順に幹を切り、伐採木はロープを使って下す。日本では見たことがない伐り方だった。木登りして遊ぶツリークライミング技術の応用と知り、「伐採だけでなく、何百年も生きた巨木の調査もその技術を使います。自分の体一つで樹の手入れをする姿に憧れを抱きました」。

     1年後に帰国。「木を切るには、チェーンソーを使いこなせる技術が必要」、チェーンソー技術を学ぶため津南町森林組合で5年間働く。山奥に入り間伐や造林などに取り組み技術を磨いた。
     2013年、再びワーキングホリデーでニュージーランドへ。特殊伐採技術やボーンカービングアクセサリー、パーマカルチャーにも興味があり、その先進国だ。「あの『ネピア』の原材料のパルプ材も伐採しました。このパルプ材などは通常の木の8倍も育つのが早い。1日150本くらいチェーンソーで切り、大きな木を山から山へワイヤーを張って運びました」。林業の奥深さを体感。同時に自然への畏敬の念の深さも感じた。「ニュージーランドは自然をとても大切にしている国。自然に感謝し、楽しんで生活に取り入れている姿に『自然と共に生きる』ことの意味を実感したんです」。2014年に十日町に戻った。

     山と共に生きる、山や木に生かされる実感を抱き、現代の木こり業『木こり屋八十八』を立ち上げる。商号はコメどころにちなむ。「米づくりには八十八の手間がかかると言われ、私たちもていねいな仕事をしよう、という思いです」。2017年、35歳の時。
     大型重機を使わず、狭い場所やクレーン車が入れない所でもツリークライミング技術で木をコントロールし、上部から大切に切る。「時間と手間はかかりますが、木や森と向き合い、山にダメージを与えない低負荷の伐採を心がけています」。この確かな技術が求められ、関東圏など県外からも声がかかる。
     昨年結婚。「私を含め3人の従業員と妻が協力してくれています。木を切るだけではなく、切った木は余すことなく使いたいですね。杉から精油を作ったり、地域流通活用をめざしています」。
    自然環境には特に目を向ける。「人は自然の恵みに生かされ、自然を大切にしてきました。しかし、今は人間社会と自然とが離れつつあります。山は人の手が入らなくなると荒廃していきます」。
     「先人たちが受け継いできた文化を今に活かし、自然の中にいる人間のあるべき姿を考え、何ができるかその間に立ち、私たちの社会の土台である自然という大切なモノを木こりとして発信し、人と自然を結び直す活動をしていきたいですね」。
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     髙橋拓也さん

    2024年10月26日号

  • 「やっぱり、パンを作りたい」

    金谷 日向さん(1989年生まれ)

     歩み続けて来た人生、その度、その度、自分の気持ちと向き合ってきた。「何をしたいのか、将来何をして生きていきたいのか。その時々、自分の気持ちと向き合いました。食のこと、飲食に関わることへの思いが強くなっていきました」。
     そのきっかけは大地の芸術祭だった。首都圏の大学で心理学を学んでいた4年の夏休み。2012年帰省した時、父からの言葉だった。「大地の芸術祭巡りに行こうと父から誘われました。生まれ育った妻有ですが、地域を巡りながら、改めて妻有の素晴らしさを感じたんです」。自然の心地良さ、リラックスできる地域環境、生まれ育った地を離れて分かったこの地の解放感だった。「芸術祭もきっかけでしたが、帰ろうと決めました」。

     十日町生活が始まったある日。「本屋に行ったんです。たまたま目に留まったのが『手ごねパン』の作り方の本でした」。その本の作り方を見ながらパンを自作した。何度も何度も作り、次第に夢中になっていく自分を感じ、さらに打ち込んだ。
     「これは面白い、楽しいと、市外のパン作り教室にも通いました」。この時、26歳。友だちや周囲から結婚や出産の話しが次々と聞こえた。「自分は何がしたいのか、その時も自分と向き合い、考えました。これも出会いなんですね、パンづくりがしたい、これでした」。20代最後のチャレンジ、これも自分の人生、どんな経験も無駄な経験はないと、自分で探し、首都圏のパン屋に就職した。
     厳しい現実が待っていた。予想以上に過酷でハードな業務。「朝暗いうちから夜遅くまで働きました。振り返ると辛かった気持ちも正直大きいですね」。 
     ただ経験から一つの確信を得た。「パンづくりがさらに好きになり、職人の世界に触れることができ、とっても勉強になったと思っています」。職人が手慣れた作業を淡々とこなすが、そこには秒刻みの手順やしっかりした準備と段取りが必要、その基本の基本を体感できた。「あの経験は本当に大変でしたが、それが今に活かされています」。

     早朝から夜遅くまで1年間、みっちりパンづくりを学んだ。その後、販売経験を積むためカフェへ転職。2018年大地の芸術祭の年だった。「カフェ転職までの1ヵ月間、大地の芸術祭に行こうと調べていたら、里山食堂の短期アルバイト募集があり、すぐに応募しました」。
     玄米を主体に、主菜の穀類に旬の地元食材の美味しさをそのまま提供する里山食堂。「毎日まさに目の回る忙しさでしたが、スタッフの皆さんがとても温かくって、パワフルで楽しく、あっという間の1ヵ月でした」。 都内へ戻ったが、大地の芸術祭の食関係の仕事をしたい思いが募り、2019年、二度目のUターン。再び十日町生活が始まった。
     市内の飲食店で働き始めた頃、里山食堂から声が掛かった。帰っているという情報が流れたらしい。アルバイトから正規職員になり、やりがいや責任感が増していった。
    「経験も積み、30歳を超えて、もう一度自分と向き合ったんです」。歩みを振り返ると、自分の気持ちが見えて来た。『パンづくりをしたい。自分のお店を持ちたい』だった。2023年3月退職。

     様々なイベントなどに自作パンを出店しながら自分の店づくりの準備を進めた。今年4月、『パンと暮らしとヤナギヤ』を開店。そのお店は自宅である津南町鹿渡新田の古民家。店名は屋号『柳』から。「柳の家の雰囲気を活かせるパン屋ができれば素敵だなって思って、そのまま店名にしました」。 築100年余、太い柱や梁が雰囲気を作り出す古民家。そのひと部屋を改修し、古民家に残る民具や家具など活用。丹精込めて作ったパンは、古道具店で一目ぼれしたアンティークなショーケースに並ぶ。
     北海道産小麦を使用し、ぶどうやりんごなど様々な素材による自家製酵母で焼き上げるこだわりパン。「地元で採れた季節が感じられる旬の食材をパンにアレンジし、彩りを考え、目でも楽しめ、美味しそうなものをと考えています」。
     思いを込め、こだわりぬいたパンは評判を呼び、地元はじめ十日町市や南魚沼市、県外からの芸術祭や行楽客などネットを通じて広範囲から多くの人が足を運ぶ。
     「旬のもの、季節の野菜を活かす料理は前職の里山食堂で学んだことが生きています。できるだけ手作りで、季節のものを使ってお客様に届けたいですね」。

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     太島勝重さん

    2024年10月19日号

  • 「食、すべての基本ですね」

    関 綾子さん(1987年生まれ)

     『おいしい』、このひと言が食づくりのエネルギー源。「あれこれ組み合わせを想像してワクワクしちゃうんですよね。巾着の中にトロロをいれて蒸したり、豆腐と納豆を入れたり」。誰も思いつかないような組み合わせが次々と思い浮かび、「人にもその発想なかなかないよねぇ、
    なんて驚かれます」。
     こだわりを持った創作料理や、手作り弁当をつくる『自然食ぽのわ』を開き3年目になる。

     『食』のルーツは小中学時代を過ごした南魚沼市五十沢の自然豊かな体験がベース。「何かを作るのが好きでした。小学校から帰ってきたら、友だち3人とケーキ作ったり、またそれをアレンジしてみたり料理作りを遊びのように楽しみました。当時は、そんなに簡単にお菓子なんて買えなかったのもあると思います」。
     さらに五十沢中学ではアウトドア活動に魅力を持つ。「川がきれいで、イワナ、ヤマメ、カジカを突いて、その場で焼いて食べたりしていました。獲りたての魚の味は最高に美味しかったです」。
     中3の時、十日町市に引っ越す。高卒後、幼少から夢だった保育士をめざし専門学校へ。だが…、「憧れが強かったのもあって、理想と現実の大きな違いに私のめざす保育ではないと感じ2年で十日町に帰ってきました」。

     そこから人生が方向転換。大きく動き出した。弁当屋に始まり、様々な施設など「食」に関わる業務を次々と経験。「いつか、自分のお店が持ちたいなぁって思い始めたんです。夢が叶うといいなぁって」。
     転機は、まつだい農舞台「里山食堂」勤務の時だった。「マクロビオティックという調理法との出会いでした」。玄米を主体に穀物を主菜として旬の地元食材の美味しさをそのまま提供する里山食堂。今までとは違った調理法、考え方に驚いた。「その時、息子が食物アレルギーでしたが、無農薬や無添加食品に代えたら症状が良くなったんです」。食の大切さを実体験として感じ、同時に、アレルギーや病気で食事制限に悩む人たちの力になりたい、その思いがさらに増し、「自分の店を持ちたい」と、開業への思いも強くなった。

     そんな時だった。『空いている店舗があるけど、どう?』。その人が声を掛けてくれた。「いまだ、自分でやろう」と決意。弁当屋「七彩」を開業。29歳だった。
     だが経営は難しい。「私は作ることは好きなんですが、思いだけじゃ継続できない。止めようかな…と考えたんです」。だが、あの人がまた声をかけてくれた。『いい人が居るよ、会ってみたら』。「不思議ですね、いつもそろそろ方向転換って思うと、その人が声をかけ連絡をくれるんです。いつも絶妙なタイミングで」と笑う。
     紹介された人は、食に対して同じ価値観を持つ人だった。2021年8月に出会い、9月には店をオープン。スピード結婚のような出会いから事業パートナーとなった。
     『自然食ぽのわ』。ハワイ語でポノは「ありのまま、精神、環境、物事、健康、全てのバランスが整った状態。正常な状態の事を言います」。それが広がっていく思いを「輪」という言葉に乗せ「ぽのわ」。子どもから大人まで喜ばれる安心安全の食の提供を二人三脚で経営、3年目を迎える。
     「車麩や大豆をお肉料理に仕立てるなど、目で見て楽しみ、味付けも変え、煮る、揚げるなど調
    理法を工夫し、変化をつけています。食材に固定概念を持ってほしくないですね」。オヤッと思う料理は、食を通して会話も弾む。「お客さんに、『これ何?』と、食からの話題の広がりも楽しみの一つです」。そんな楽しい雰囲気が口コミで広がり、来店者の幅が広がりに繋がっている。
     「現在JAべジぱーくで弁当や総菜を置き、仕出しや弁当の注文を受けています。今後はアレルギーや食事制限に悩む方にも対応した出張料理代行も準備中です」。さらにハワイアン料理「レイ」を市内宮下町で金曜夜に限定営業。レイは感謝の言葉。
     「食事は、自分で選んで自分の体内に入れるものです。なんでも手軽に入る時代だからこそ、自分で身体が喜ぶ食事を選んでほしいです。それは自然に良い身体が出来ていくことになりますから」。

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     金谷日向さん

    2024年10月12日号

  • 娘とのかけがえのない時間

    斉木宏幸さん(1978年生まれ)

     中学2年、高校3年の娘2人との会話のやり取りは、年々少なくなってきている。「自分に話しかけてくるときは、送って、迎えきて、アイス買ってきて、ですかね」。少しずつ大人になっている2人の姿。「そういう年代に入ってきているんですね。娘専属の便利なタクシーですよ」と、笑う。
     今はおもに長女の送迎担当。娘と2人の車中、この時間がかけがえのないものに感じるようになっている。「もう高校3年生ですよ。ほんと早いですね」。自分の高校時代と重なる。
     県立十日町実業高校として最後の卒業生だった。翌年、カリキュラムを変更し十日町総合高校に改称。「カラオケでオールして遊んで、プリクラが流行ったんで写真部作ろうってなって。名前だけの部長になった事もありました」。高校時代、仲間と一緒に遊ぶ時間が楽しかった。だが、時間は過ぎていく。
     卒業後はどうする、親からのプレッシャーを感じつつ、「これといってやりたいというものが無かったので、何か資格を取りたいと考え進んだんですが…」。
     新潟テクノスクールの土木測量科を選び卒業。しかし、「測量の仕事がなくって、土木や配管をする仕事につきました」。
     長岡の建設会社で働き始めるが土木や配管などの業務をこなし、早朝から時には夜遅くまで、ただ時間だけが過ぎていく、そんな日々が続いた。「これでいいのかと、だんだん疑問が大きくなって」、3年で見切りをつけ、十日町に帰った。

     十日町で就職した住宅設備会社。
    家の水回り全般を扱う。前職での業務経験は配管、その技術を生かしたいと次々と現場に出向いた。気が付くと17年が過ぎていた。「失敗も多くしました。それらすべてが経験値となり、自分の技術アップにつながってきました」。出来上がった時の達成感は大きく、仕事へのやりがいも増し、同時に責任ある業務を任されるようになった。
     ある日、会社をたたむと聞いた。日々関わり世話になっていた関連会社から『うちに来ないか』と声がかかった。「ありがたかったですね。悩んだんですが、新しい挑戦をしてみようと思って住宅の水回り全てと電気、ガスも取り扱っている会社に決めました」。ガスの取り扱い資格や電気工事関連の資格を取得し、業務の幅を広げている。
     
     「配管はその住居や建物により全て違います。難関な場所の配管が出来た時は嬉しいですね。排水管や水道管などは人間の身体では血管のようなものです。ですからきれいに正確につなぐ、これが一番大切なことです」。
     経験値はさらにアップしている。今は後輩への確かな技術伝達を伝える立場だと感じている。「自分がいろいろ教えてもらって覚えてきた分。これからは自分の経験をしっかり次世代に伝え、さらに高い技術アップにつないでほしいですね」。

     2人の娘の父。成長から月日を感じる。「娘たちはバスケットをやっていたり、推し活したりと忙しそうです。俺も何か趣味が欲しいなと思うんですけどね…」、「なんだかんだ娘の送迎が趣味なのか…。この時間、何気ない日常ですが、だんだん愛おしい時間になってきていますね」。

    ▼バトンタッチします
     関綾子さん

    2024年10月5日号