「日本軍は決して島民を守ってはくれなかった」

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沖縄から恐山、父を思う

松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

 6月23日は、沖縄での組織的戦闘が終わった日で、のちに沖縄慰霊の日と定められた。79回目だ。
父はその日までは生きていなかった。とは言えあの激戦が続き、何もかも焼き尽くされ、破壊尽くされたなかで、よく記録が残されていたなーと正直思う。
 命日とされる日・場所等は定かでなくとも当然だ。ただ沖縄で戦死したのだけは事実だろう。
 記念の日前後の、島民インタビューでは、幼くして戦争を体験した人々の声が聞かれた。私と同年齢の人々の声。「日本軍は決して島民を守ってはくれなかった」、この声が痛かった、父は軍人であったから。
 島民から食料を奪い、より安全な場所から島民を追いやり、軍人の安全を図ったのだろう。
 80年近く経った今、同じことを思う。米軍は決して日本を守るために、沖縄に基地を多く持っている訳ではない。都合の良いように、日本を利用しているだけだと確信している。
 現在は禁止されているドローン撮影映画を、九条の会の学習会で見た。冊子も見た。沖縄本島から繋がる先島諸島は、琉球弧として、台湾・中国に合い対峙している。その先島諸島に軍事基地が既に完成している。
 中国・台湾が何かのきっかけで紛争が起きれば、近距離にある沖縄は巻き込まれると、島民は恐れ、かつての戦前の状態に似ていると懸念し戦々恐々の様子だった。
 よく夢に死んだ人が出てきて、思いを聞いたことがあるというが、私は未だかつて一度も経験がない。父も母も他の人も、どんなに会いたいと思っていても、夢で会った試しがない。
 父とも幼くして分かれたので、どんなことを考え、話す人なのかさっぱりわからない。「おとーたん」と呼び、たばことマッチ・灰皿をそろえて父の所へ持っていく子どもだったと母から聞いたことはある。
 敗戦末期、極限状態の中でどんな事を考えていたのか。飢えと下痢の日々、何も考えられない状態だったのか。部下を持つ大尉として指揮をしなければという使命感が残っていたのか…。
 青森県下北半島には、霊感のあるイタコと言われる人々が居て、死者の声を聞かせてくれるという。なんとか聞いてみたいと願っているが、実現できるだろうか。
 父を失うということは、単に大黒柱を失うだけでなく、社会的な立場も失い、世の中の端っこへ押しやられ、人間扱いされなくなるという感じだった。
 沖縄だけで二十万人、大戦中では三百万人の戦死者がいる。戦争は敗者ばかりで勝者はいない。戦争を止められる人が勝者だという言葉もある。

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