政権不信、極まる

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社説

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 この現実をどう考えたらいいのか。政治不信、いや政権不信だろう。国政、県政、市町村政、この繋がりの中で我々は政治を信頼し、この国の住人として納税義務を果たしている。だが、これほどの不信感が募ると、その義務感すら怪しくなってしまう。
 政権トップが連日繰り返す言葉の羅列を聞くと、その場をしのげばいい、とする感覚が見え見えだ。これほどまでに不信感を与える政治に対し、我々は何ができるか。国政選挙はまだない、国会前でデモる、納税しない…そこまで考えてしまう、それほどの政権不信だ。羅列の言葉の垂れ流しを連日聞かされる現実は、もはや国を司る体をなくしている。
 信頼されない政権は、即刻去るべきだが、ことはそう簡単ではない。このままズルズル政権を引きずりながら、来たるべきタイミングを見ているのだろうが、その無為な時間の流れは、さらに信頼感の欠如を助長させ、不信感を増幅させる。時は新年度予算が固まり、国会・県会・市町村議会で審議が始まる時期。
 だが、先ずこの不信感を払拭することだ。この醜態では新年度予算が空虚に聞こえ、大切な事業が盛り込まれる予算が、なんとも軽く薄い、まさに軽薄な印象を受けてしまう。
 政治と金、この関係性と付随する種々の問題は、過去の政治の歴史が物語るが、少なくとも歴史に残る政治が示すのは、そこに政権の「潔さ」がある。言葉での言い逃れが限界に来れば、政権トップは辞し、政権の大掃除をする。だが、今回の一連の政治がらみの問題に対する政権の姿勢は、これとは真逆で、言い逃れの連続ではないか。これほどの醜態を見せつけられては、もはや信頼関係は失せ、不信感ばかりが募り、この国に暮らす住人の義務さえ、怪しくなる。
 事は深刻だ。国政・県政・市町村政の繋がりは大切だ。だが、その信頼感が無ければ、その関係性さえ危うい。

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