小宮山英樹さん(1968年生まれ)
芸は身を助く、それを実感する日々だ。観光ツアーの添乗員歴33年。全都道府県、25ヵ国の国を飛び回り、バス旅行ではツアー参加者の年代に合った歌を車中で披露し、旅行の雰囲気を盛り上げる。「人を楽しませたい」、その思いを込め、今日も旅先まで添乗している。
父は民謡大会に出場、母は台所で家事をしながら演歌を口ずさむ姿を、幼い頃からいつも見てきた。「唄好きの血が私にも流れているのかなぁと思います」。中学は剣道、高校では野球に取り組む。一方で井上陽水のモノマネなど歌の上手さが評判を呼んだ。野球部では「先輩のフォームのモノマネすると、みんなが大笑いしました。でも、マネはうまいのに何で野球はうまくならねぇーんだ、なんて言われていましたね」。
野球に打ち込んだ高校時代、卒業後の進路で親とぶつかった。「どうしても東京へ行きたかった」自分。長男を置いておきたい両親は猛反対。最後は「好きにしろっと言われ、学費を自分で稼ぐため新聞奨学生となり、都内の旅行専門学校へ進みました」。
初めての東京はカルチャーショックの連続。一方で新聞販売所の寮生活は想像以上にハードだった。「朝2時に起きて新聞配達。朝食後、学校へ。寮に帰り夕食後は夜9時まで新聞勧誘という毎日。年間9日くらいしか休みが無かったですね」。このハードの生活を野球部で培った根性で立ち向かい、学校の勉強にも集中。まさに螢雪の功だった。「頑張った分、学校の成績は良かったですよ」。この新聞販売所で1年間、頑張った。
翌年には別の新聞販売所へ転職。再び寮生活。週休2日、読者勧誘はなく自分の時間ができた。「自分の甘さが出ましたね。学校の成績がガタ落ち、時間が無いは言い訳だなと実感しました。今も教訓にしています」。専門学校卒業後はアメリカ行きを思ったが、専門学校の同級生の誘いで都内の旅行会社に就職。会社勤務の疲れをいやす居酒屋で、伴侶「ひろみ」さんと出会い結婚。20歳の時だった。
国内外の添乗員経験を5年積み、国家資格を取得。しかし、さらに自分への課題を課した。「もっと自分を成長させたい」と転職。夜の飲食店、さらに体を動かしたいと佐川急便なども。だが、わが子の誕生で人生観を見直した。28歳の時。「様々な仕事を経験し、我が子は自然の中で育てたいと、生まれたふるさとに帰りました」。今は5人の子の父であり、9人の孫のおじいちゃんである。
再び旅行添乗員の業務に戻り、越後交通で13年ほど働く。業務経験を積むと業務管理のポストに。「お客さんの喜ぶ顔を間近で見たい」と南魚沼市・昭和観光へ転職。バス旅行で添乗すると評判を知っている方々から歌のリクエストがある。楽曲は年代に合わせるためレパートリーを増やしている。「三橋美智也さんの曲などお客さんに喜んでもらうことが、私も嬉しいですね」。企業の社員旅行では若い年代のリズム感ある楽曲も披露する。
そんな時、声が掛かった。十日町市でNHKのど自慢大会の開催が決まり、出てみればと。「話のタネになるかなぁーと思って」、さっそく応募。会場は中里アリーナ。7百人の応募から書類選考で250人に絞り、本選出場は20人、その中に選ばれた。「ゲストは細川たかしさんでした。難しい『望郷じょんがら』を歌ってアピールし、チャンピオン授賞でした」。
出場後、各地の祭りやイベントへの出場依頼が舞い込んだ。だが、「人前で歌う自分の歌声を録音して聞いてみたら、自分はまだまだだなって」。ここからさらに自分を磨いた。「毎日の車での通勤時間や一人カラオケで7時間くらい練習。まだまだ納得できる歌になっていませんよ。お客さんが喜んでくれる顔を、いつも思い描いて練習しています」。
今日も旅に添乗している。「リクエストがあれば、歌います。あくまでも楽しい旅のお手伝いですから。お客様の笑顔が第一です」。
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岡村さやかさん