田邊孝一さん(1982年生まれ)
恩師との出会いが、その後の生き方に大きく影響している。松之山小4年生の時、担任だった当時20歳代の合志淳教諭と出会った。「それまでは、学校って勉強して、いい点とって…っていう場所だと思っていたんですが…」、合志先生の言葉は違った。 『頭で覚える勉強も大事だが、楽しく、心で覚えることを学べ』。その場面はいまもはっきり憶えている。「その時からです、なんでも楽しく、辛いことでも、何事も前向きに考えるようになっていきました」。
いつも子どもたちと一緒に動き、一緒に考える恩師だった。「合志先生は、初雪が降ったら、外行くぞーって1限目から雪遊びに出て、そのまま授業時間が終わったりと。でも、いけないことをしたら凄く叱られましたが、いたずら程度では怒られたことはなかったです。人間味にあふれ、熱くて、皆が先生のことが大好きでした」。
生まれは東京・府中市。1987年、幼稚園年長の時、父の実家がある松之山に家族で移り住んだ。「あまり覚えていないんですが、保育園入ったばかりの時、『声かけたのに、こっち来るなって叩かれた』って、同級生に今でも言われます」と笑う。そこは子ども同士、すぐに地域にも仲間にも溶け込み、小中は陸上やアルペンスキーに取り組む。「練習はきつかったんですが、まぁ何とかなるか、でした。それに友だちや先輩たちが居たから続けられましたね」。さらに「教室でものまね大会を開いたりと、毎日が楽しかったです。調子に乗りすぎちゃうこともあるんですが、仲間たちがよく助けてくれてますね」。
松代高校へ進む。「進路に迷った時、友だちが持っていた進路パンフにビビビっときたんです」。4歳下の妹、8歳下の従弟の面倒を見ていたことから、「子どもが好きだなって思って」。長岡・北陸学園保育科に進学。「当時、保育士をめざす男子は少なく、女性80人に男性15人位でした。その分、男たちの団結力はすごかったですよ。いまでも仲良しです」。学園祭でのライブで影響を受け、「同級生でバンド作るかって。私はエレキギターを選び、毎日皆で練習、週5日は飲み会してました。楽しかったなぁー」。
保育士初任地は十日町市の私立保育園。学園時、出会いがあり結婚、4人の子たちのパパだ。「園でも家でも、子どもたちに遊んでもらってました。子どもの発想って本当に面白いですね」。ちょっと先を考え16年前、松之山・不老閣に転職。「保育士から介護の仕事、最初は戸惑いもありましたが、入所者さんから『いい男だ、いい男だー』なんて、おだてられて、毎日楽しく業務しています」。
学生時代からのバンド活動も続け、松之山出身の後輩と2人組デュオ『二つ星』を結成し、作詞作曲にも挑戦。十日町雪まつりや各所のイベントなどに出演した。バンドやデュオ解散後も歌への情熱は変らなかった。その時、『NHKのど自慢大会』出場のチャンスをつかんだ。「会場は中里アリーナでした。多くの皆さんの前で歌えたこと、最高の経験でした。結婚10周年だったので、妻への感謝を込め吉田山田の『日々』を歌いました」。
のど自慢出場で感じたのは、「出場された方々の歌のうまいこと。うまい人って、こういう人たちのことなんだって感じたんです」、感情の込め方、歌に強弱をつけるなど意識し練習している。のど自慢出場者との交流がいまも続く。「みんなで定期的に集まりカラオケで練習したり、良い刺激になっています。私にとって歌はなくてはならないものです」。
小学4年で出会った恩師、合志先生は今年3月、定年退職を迎えた。「同級生で、合志先生を囲む会を開き、皆で集まろうかって話しています。伝えたいことがいっぱいあるし、話したいことがいっぱいありますから」。
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小宮山英樹さん