『四国八十八霊場、お遍路で「荷」を置く』

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高橋 勇さん(1953年生まれ)

 高校2年の夏。
「自転車で友だちと大阪万博へ行っていいか」
『だめだ』
「校長がいいと言えば、行ってもいいか」

 時は1970年、大阪万博開催。父にダメ出しされたが、すぐに動いた。県立十日町高校、当時の校長は歴代に名を残す名物校長の深田虎雄校長。万博行きを直接聞いた。「いましか出来ないことだ、行ってこい」、それは明快だった。
 高校2年の夏休み。友と2人で自転車にテント、自炊道具、食糧など積み、早朝出発。野宿をしながら長野から木曽路、岐阜、滋賀を通り大阪へ。「行きに6日かかった。友だちの親戚が大阪に居るというので、そこに泊まるつもりで行ったが、なんと引っ越していた。不動産屋に頼み込んで、その空き家に泊めてもらったが、電気はストップ、水風呂に入った」。夏休み後半の高校の北海道修学旅行に間に合わなくなり、「仕方なく、列車で帰ってきた」。
 十高生徒会役員の時、校則廃止を求め直談判へ。その時の問答。
「喫茶店に行ったことがあるか」
『はい、行きました』
「校則違反だな。今日か
ら3日間停学だ」
 その日は金曜日。この日午後から停学となり、金曜、土曜、日曜の3日間の停学。これが後世に伝わる『深田裁定』。十高時代の出会いが、その後の人生観に影響している。当時の倫理社会の教諭・髙橋竹雄先生(現勝又)の影響で「倫社の高校教諭」をめざす。
 進学先は國學院大哲学科。学内を歩いていると少林寺拳法部の勧誘を受け入部。「そこは、あの漫画『花の応援団』そのままでした。オスッの毎日。理不尽、不条理、そんな世界だったが、自分が上になるようになり、そんな体質は変えた」。
 大学4年、新潟県教員試験を受けるが採用ならず。そんな時「父から連絡が来て、駐在さんが誘いにきたぞと、試験だけでも受けてみろと言われ、受験した」。当初、学生運動に対する機動隊に良いイメージはなかったが新卒で入る。そこで良い同期、尊敬できる教官と出会い不安は払拭した。

 警察官37年間、刑事畑を歩む。警察学校の指導巡査、関東管区機動隊なども勤務。「年間百体くらいの検死をした。先輩から『身内と思え』と繰り返し言われた」。事件はもちろん病死、溺死、事故死などあらゆる現場を経験。「退職したら遍路に行こうと決めていた」。それは現職時代に抱え背負った荷、まとわりついた『情念』を置いて来たかったから。
 10年前に退職。すぐに四国八十八霊場・遍路の旅に出た。退職の春、4月中旬から6月上旬まで、すべてを歩き通した。高野山での出会いは忘れがたい。「御朱印を推す職員の方だったが『高野山から歩き始め、再び高野山まで歩き通す遍路はほとんどいない。本当にやる気か』と親身になって教えてくれた。この人との出会いがなければ、歩き通せなかったかもしれない」。今もこの人とは交友が続いている。
 
 出会いは続く。現職もあと5年ほどになった頃。小出署勤務時代に通った英会話教室で活動を知る。浦佐・国際大学のベトナム留学生の「日本語チューター」(補佐指導者)活動をボランティアで務め、いまも続ける。
ある日、自宅に女子留学生3人を招く。ベトナム料理を作ってくれ食卓を囲む。「私の母は恥ずかしがって食卓に来なかった。すると『なぜおばあさんはここに来ないのですか』と」。呼びに行き食卓に一緒に着くと「母に次々と言葉を掛け、すっかり打ち解けた。あ~こういう事かと分かりましたね」。年配者を大切にする、その気持ちを強く感じた。その後、結婚式に招待され、二度もベトナムへ行った。日本語チューターはもう15年目になる。
 さらに縁を感じる出会いは続く。地元川西・千手神社の奉賛会役員の誘いを受けた。県神社庁中魚沼支部の総代会副会長を務める。「でも、これ以上いろいろな役は引き受けない方がいいと家族に言われ、その日の朝、入会を断った。その日の昼、大学時代の友人で東京日野市の八坂神社の神主をしている友だちから本が贈られてきた。家族はそれを見て『これは何かの印、お告げかも』と言い、奉賛会役員を受けたんです。不思議な巡り合わせがあるもんですね。それにしても出会いは、おもしろい」。

◆バトンタッチします。「田邊武さん」