大津 富士夫さん(1964年生まれ)
これまでの人生の歩みの節目、節目に人との出会いがあり、声掛けがあり、事態が良い方向に流れた。20代の時。特に信仰心が強かったわけではなかったが、友人に誘われて行ったある宗教の集会。いつのまにか入会、自分ではどうしようもできない状態に。その時、ふるさとの知人紹介で聖書と出会い、十日町教会の松井愛美牧師に導かれ、洗礼を受けた。転職を重ねつつ歩んだ時間が、いまにつながり、キリスト教に基ずく私立・山本愛泉保育園の園長で子どもたちと向き合う日々だ。「私が今あるのは十日町教会からの巡りあわせですね」。
卒業が迫った高校3年の時。「人見知りでしたから、人前でしっかり話せるようになりたいと営業職に飛び込みました」、長岡マツダに入社。年間販売台数23台の実績を上げ、新人表彰を受けた。「でも、若さゆえだったんでしょうが、仕事と遊びの境がなくなってしまったんです」。我が身を振り返り、転職を考え佐川急便に。ここで思わぬ事態が待っていた。「歯が痛くて2日ほど眠れずにいて、業務中に居眠り運転をしてしまって…」。道路わきの倉庫に突っ込む自損事故。上半身負傷で1ヵ月半の入院。「親に心配をかけてしまい、あれからですね、人の話はしっかり聞くようにと、心を入れ替えました」。
退院後もリハビリを続け、働けるようになり湯沢町のレンズ工場に就職。勤務態度が評価され埼玉の本社勤務に。仕事への意欲が増していった頃だった。「友だちに誘われて…」、ある宗教の集会に行った。自分の思いとは関係なく深みにはまった。その様子を親が聞きつけ、『正月だよ、帰って来い』と声が掛かった。
十日町の家に帰ると、そこに待っていたのは新津福音キリスト教会の松永堡智牧師だった。「信仰心とは何かから、生きる意味まで諭されました。その時、聖書の意味を教えてもらい、そこからです」。
それから十日町教会に通う日々が始まった。「何かを信じる信仰心とは何か、次第に自分が見えてきました」。聖書を読み込む中で何が大切かを感じるようになり、1988年4月3日、イースターで洗礼を受けた。23歳。
地元の高山生コンで18年間勤務。あの中越地震が再び人生の転機をもたらした。会社の機械が地震で壊れ、再建が難しく廃業。その時、知人を通じて声が掛かった。コンクリート主任技士資格が次につながった。長岡市川口にある生コン会社へ転職。「朝から晩まで働き、業績も上げましたが、そこも震災特需が終わり3年で廃業してしまいました」。
だが世間は見捨てない。再び声が掛かった。生コンやU字溝、側溝ブロックなど2次製品製造の長岡長栄工業へ。管理職・課長ポストが用意されていた。「コンクリートの強度管理や品質管理、商品企画も自分のアイデアが取り入れられ、やりがいを感じる業務でした」。その勤勉さと熱心さが評価され工場長に。「全体をまとめる責任があり、朝から晩まで働きましたね」、だが体が悲鳴を上げた。
そんな時だった。十日町教会牧師・十日町幼児園の久保田愛策園長から声が掛かった。「園長をやりませんか、でした。悩みましたが、これも教会からの導きと、自分への信頼からかなと思いました」。園長職は早や6年目。
「日々、子どもたちの声に癒され、自分が救われている思いです」。一昨年創立50周年を迎えた同園。「少子化の波もありますが、自分の代から次へ繋いでいく使命が私にはあります」。
幾多の職歴がいまに活きている。保育園でのオムツや給食の副食費無料化を取り入れ、ICT化やSNS導入に力を入れる。「子どもを一番に大切にするベースは出来ていますから、さらにその園の良さを広めていきたいです」。
リフレッシュは大型バイク。昨年免許を取得、「バイクがずっと憧れで今は『ニンジャ1000』が愛車。休みの日は風を切ってバイクを走らせる。最高ですね」。
26歳で結婚した妻・真由美さんと十日町教会へ毎週足を運ぶ。「キリスト教は私の柱です。くじけそうになった時、教会仲間や園職員、園長会のつながりが力になります」。
▼バトンタッチします
飯塚隆行さん