七十九年を考える
松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)
六月のオピニオン担当では沖縄戦のことを書いた。そして八月六日は広島、九日は長崎に原爆が投下された。十五日は敗戦の日。いずれも七十九年前。特別な行動をするわけでもない。
かつては平和集会に出かけたり、署名運動に参加したりもしたが、昨今は何ら行動していないのを面目ない思いでいる。只々、毎年毎年、鎮魂の思いで八月の日々を書き続けている。
私が何をしなくても各地で鎮魂の供養を一年一年続けていくうちに、七十九年は『戦』のない世の中が続いている。戦争体験世代が少なくなっていくのは自明の理だが、精いっぱい『戦』はだめだ、と言い続けることを止めてはならないと強く思っている。
いろんな形で記録は積み重なっていく。時の政府に都合が悪くても、報道されなくても、新聞記事として、映画や文学・音楽・演劇あらゆる手段で記録は残される。
残された記録を次の世代がどう学び、どう生かして行くのかが問われる。
体験した者として、折に触れて書き残し、語り継いだつもりだが、どこまで伝わったのだろう。
戦火の中を逃げまどい、幸い生き残った我々も、戦地で無念の死を迎えた父たちも、願ったことはただ一つ『戦』の無い世の中に一日も早くなってほしいと願っただけだった。
欲望を言い募るときりがないが、ただただ、穏やかな日々が続くことだけだった。ささやかで健気な願いだ。それでいて、とてつもなく大変な願いであることがよくわかる。
いまも大きな戦争が世界中に少なくない。皆どうして? なぜ止められない? と思っているのに、エスカレートしている。世の中は高度に進化し、便利な世の中になっているはずなのに、どんどん悪くなっていくのは何故?
朝ドラを見ている。新しい憲法が発布され、今日よりは明日、よりよい日になるような気がしていた時代。自分の来し方とダブる。ささやかな喜びを見つけては、幸せを実感していた。無いない尽くしの日々、思いがけず手に入ったキャラメルを娘さんと、大切に大切に味わうシーンで、宝石でも扱うがごとき幸せな表情、よくわかる。
なんでも比較的たやすく手に入る現代では味わえない本当の幸せかも!
細やかで健気な幸せは、一人一人がしっかり守り育てて、少しずつお隣にひろげていくしか無いのかもしれない。