前倉の慰霊碑

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小林 幸一(津南案内人)

 中津川第一線工事での殉職者の慰霊碑は切明の沈砂池の上にあります。碑には「中津川第一線工事の殉職者追悼碑」とあり、裏には昭和3年7月建立、大林組社長と刻まれています。
 また、中津川第一線工事では県境で工区が分かれていて、新潟県側の穴藤~前倉工区を日本土木(大倉組)現在の大成建設が請け負いましたが、会社としての慰霊碑は今のところ不明です。
 前倉の阿部利昭氏から「前倉の山の中に聖徳太子の石塔が建っている」との情報を得て現地に出かけたところ、原生林の中に大きな岩が集められ、その碑は建っていました。表には聖徳太子と大きく刻まれ、裏にはこの碑を建てた11人の名前が彫られています。肩書には「現場監査役」「工事請負人」「現場世話役」「帳場役」「工事小頭」「坑夫小頭」「石工」等出身地や実名が彫られています。
 そもそも聖徳太子とは大工や職人たちが信仰していた守護神で、工事の安全や亡くなった人の慰霊を兼ねる碑のようです。
 建立が大正11年11月1日ということは秋山郷で発電した電力が東京に送電された月でもあり、4ヵ月前には朝鮮人の溺死体が発見された年でもありますので、これは安全祈願というよりは工事関係者が建立した慰霊碑だと言えます。また後日、阿部氏から「聖徳太子の碑の奥に大峯神社の碑がある」とのことで案内をして頂きました。
 前倉から高野山に上がる車道の脇に車を停めて道のない急斜面を転がるように50㍍ほど下ると杉林の中にひときわ太く何本も寄り添って立っている杉の根元に小さな碑がありました。
 建立は大正12年8月、工事関係者は故郷に向かって帰省が始め、発電所景気に沸いた大割野には不景気風が吹き始めた頃ですから、やはり安全祈願ではなく、慰霊のために建立したものです。裏面には「信越電力」「日本土木」の他に「田巻事務所一同」の名前が刻まれ、工事発注者や元受けの名前も出てきましたが、切明の慰霊碑に比べると辺鄙な場所で碑も小さく、とても大会社が建立したものとは思えません。きっと秋山郷の原生林の中で草に埋もれ探し出される日待っている碑がまだあるはずです。
 前倉の2つの碑を調査して思ったことは、建立した人たちには後ろめたいことなどなく、実名まで彫って後世に残そうとしたことから、世間で騒がれた朝鮮人虐待事件は、当の現場ではそれほど問題視されていなかったのではないでしょうか。
 この問題はまだまだ調査が必要ですが、過酷な環境の中で大事業を完工し、その後各地に散って行った人夫や技術者たちのことを忘れてはいけない場所としてこれからも守って行きたいと思います。