立派な肥料、SDGsの胸バッジの意味は?

Category:
オピニオン

contents section

「糞尿について考える」

長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

 子どもだった頃、肥溜めに落ちたことがあった。10歳くらいだった。戦時中から都会の空地には多くの素人畑があって、南瓜や芋を植えて飢えをしのいでいたのだろう。近くには防空壕の残がいや工場の鉄骨が焼けただれて残っていて、小さな畑も同じ時代の哀しみを映していた。同時期の大通りには馬が曳く長い荷車に肥桶が満載されていたことを覚えている。
 そのうちに肥桶を積んだ長い荷車も無くなり、各自の便所にはバキュームカーが横付けされて僕らの糞尿は運び去れ、少し時代が進んだように感じたものだ。母親は汲み取りの人にタバコを手渡してお愛想をいっていたような記憶もある。
 その後、津軽を歩いた時のことだが、夏になる頃だったと思うが、うねるように広がる畑に、今まかれただろう糞尿がいいにおいをさせていた。抜けるような青空と人糞のコントラストが今でも忘れられない。
 現代では糞尿は環境省の指導でやたらに廃棄も出来なくなったが、昔は東京湾に糞尿を積んだ船が出て、そこで汚泥を捨てていたことがあった。いま汚物はほとんどが水洗式となって海に投棄されることはないが、その分、東京湾の栄養価が下がってイワシなどの資源が減ったとも聞く。
 秋山でも人糞を肥しとしてまいたのかと長老の方に訊いてみると、「あ~、お金がないのだから肥料は人糞で、肥溜めを作る余裕もなく直ぐに畑にまいたものだ、ナスなどは小便を掛けるとよく育ったよ!」と笑った。 私が落ちた肥溜めはそりゃ汚らしかったが、においはなかったように覚えている。続けて長老は「人糞をまくと回虫が出て来る。それには困った」と話した。私の小学校では朝礼の時に虫下し用チョコレートの配布もあった。私の尻からは回虫は顔を出さなかったが、多分多くの小学生は腹のなかで回虫を養殖していたのだろう。
 正月に起こった能登半島地震で被災された方々が身を委ねた避難所では水がなくトイレが使えず不便をしているという。洋式便器にビニール袋をかぶせ、自身の糞尿をゴミとして出すという。都会ではそんなビニール袋が品薄となったと聞く。 時代が進んで汲み取り便器に腰を下ろした経験のない人にしてみれば、それもしょうがないのだろうが、そんな経験が出来る所がないようになったのだろう。
 生きていれば腹が空いて、食べれば排泄するのはセットとして当然のことでもある。そんな当たり前のことを日本中の大人が忘れてはいけないと思った。
 自分の糞尿が野菜を作り、海の魚を育て、それをうまいと思って口にすることから、つまり一からもう一度、生き方の復習が来るべき大きな災害に備えることになる。ペットボトルの本数やら非常食の備えやら忙しくなるのだが、それで解決する訳もないとしても、それなりの準備も必要なのだろう。
 昔、チベットの安宿で塔のような便所まで階段を上り、そこの二つの互い違いに置かれた便器にしゃがんでいると、反対の便器に西洋人のご婦人が外連げもなくしゃがんで、そのご婦人と競争するように用を足した記憶がある。三階ほどの便所から落ちた糞尿は下に蠢いていた豚がそれを食べていた。その豚をチベットの住人がうまそうに食べるのだろう。
 資源とは面白いものでそれを生かすのも捨てるのも、その時代の人間の感性なのだ。生きることは奇麗ごとではなく、生き延びる知恵と力が無くてはならないのだと考える。
例えば灯油ストーブ、とりわけお湯がわせる型のものやプロパンガス、テーブルボンベなど使い方を知って置かなければならないのだ。行政が火災の危険や爆発の予防と言ったとしても、今回の能登地震のような寒さのなかで、どう生きるかを考えなければいけない。
 汚いと嫌われる糞尿が研究を重ねることで立派な肥料になる事などを考えないでSDGsのバッジを胸につけても意味は無いじゃないか。ここのような小さな集落でこそ堆肥作りの研究を行うべきなのだと考える。

Category:
オピニオン