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ひとから人からヒトへ一覧

  • 『四国八十八霊場、お遍路で「荷」を置く』

    高橋 勇さん(1953年生まれ)

     高校2年の夏。
    「自転車で友だちと大阪万博へ行っていいか」
    『だめだ』
    「校長がいいと言えば、行ってもいいか」

     時は1970年、大阪万博開催。父にダメ出しされたが、すぐに動いた。県立十日町高校、当時の校長は歴代に名を残す名物校長の深田虎雄校長。万博行きを直接聞いた。「いましか出来ないことだ、行ってこい」、それは明快だった。
     高校2年の夏休み。友と2人で自転車にテント、自炊道具、食糧など積み、早朝出発。野宿をしながら長野から木曽路、岐阜、滋賀を通り大阪へ。「行きに6日かかった。友だちの親戚が大阪に居るというので、そこに泊まるつもりで行ったが、なんと引っ越していた。不動産屋に頼み込んで、その空き家に泊めてもらったが、電気はストップ、水風呂に入った」。夏休み後半の高校の北海道修学旅行に間に合わなくなり、「仕方なく、列車で帰ってきた」。
     十高生徒会役員の時、校則廃止を求め直談判へ。その時の問答。
    「喫茶店に行ったことがあるか」
    『はい、行きました』
    「校則違反だな。今日か
    ら3日間停学だ」
     その日は金曜日。この日午後から停学となり、金曜、土曜、日曜の3日間の停学。これが後世に伝わる『深田裁定』。十高時代の出会いが、その後の人生観に影響している。当時の倫理社会の教諭・髙橋竹雄先生(現勝又)の影響で「倫社の高校教諭」をめざす。
     進学先は國學院大哲学科。学内を歩いていると少林寺拳法部の勧誘を受け入部。「そこは、あの漫画『花の応援団』そのままでした。オスッの毎日。理不尽、不条理、そんな世界だったが、自分が上になるようになり、そんな体質は変えた」。
     大学4年、新潟県教員試験を受けるが採用ならず。そんな時「父から連絡が来て、駐在さんが誘いにきたぞと、試験だけでも受けてみろと言われ、受験した」。当初、学生運動に対する機動隊に良いイメージはなかったが新卒で入る。そこで良い同期、尊敬できる教官と出会い不安は払拭した。

     警察官37年間、刑事畑を歩む。警察学校の指導巡査、関東管区機動隊なども勤務。「年間百体くらいの検死をした。先輩から『身内と思え』と繰り返し言われた」。事件はもちろん病死、溺死、事故死などあらゆる現場を経験。「退職したら遍路に行こうと決めていた」。それは現職時代に抱え背負った荷、まとわりついた『情念』を置いて来たかったから。
     10年前に退職。すぐに四国八十八霊場・遍路の旅に出た。退職の春、4月中旬から6月上旬まで、すべてを歩き通した。高野山での出会いは忘れがたい。「御朱印を推す職員の方だったが『高野山から歩き始め、再び高野山まで歩き通す遍路はほとんどいない。本当にやる気か』と親身になって教えてくれた。この人との出会いがなければ、歩き通せなかったかもしれない」。今もこの人とは交友が続いている。
     
     出会いは続く。現職もあと5年ほどになった頃。小出署勤務時代に通った英会話教室で活動を知る。浦佐・国際大学のベトナム留学生の「日本語チューター」(補佐指導者)活動をボランティアで務め、いまも続ける。
    ある日、自宅に女子留学生3人を招く。ベトナム料理を作ってくれ食卓を囲む。「私の母は恥ずかしがって食卓に来なかった。すると『なぜおばあさんはここに来ないのですか』と」。呼びに行き食卓に一緒に着くと「母に次々と言葉を掛け、すっかり打ち解けた。あ~こういう事かと分かりましたね」。年配者を大切にする、その気持ちを強く感じた。その後、結婚式に招待され、二度もベトナムへ行った。日本語チューターはもう15年目になる。
     さらに縁を感じる出会いは続く。地元川西・千手神社の奉賛会役員の誘いを受けた。県神社庁中魚沼支部の総代会副会長を務める。「でも、これ以上いろいろな役は引き受けない方がいいと家族に言われ、その日の朝、入会を断った。その日の昼、大学時代の友人で東京日野市の八坂神社の神主をしている友だちから本が贈られてきた。家族はそれを見て『これは何かの印、お告げかも』と言い、奉賛会役員を受けたんです。不思議な巡り合わせがあるもんですね。それにしても出会いは、おもしろい」。

    ◆バトンタッチします。「田邊武さん」

    2024年5月25日号

  • 『夫が作ったこの家、思いがいっぱいです』

    北野一美さん(1941年生まれ)

     これは「我が一代記」だ。生まれ育った山梨から新潟・川西へ。親戚、友だちが一人もいない地での生活は、まさに「無我夢中」の人生だった。

     役場にも
    農協にも、
    商工会にも
    断られたと劇団制作の女性が訪ねて来た。ミュージカル劇団公演の思いを聞き、
    「よし、やってみよう」
    と決めた『ふ
    るさときゃらばん』川西町公演は、28年前の1995年。親戚も友だちも、誰一人知らない地に来た時の、当時の自分と重なった。
     公演費用260万円、千人の観客が必要。合併前の川西町人口は8千人余。「あの時、商工会女性部長でした。会員に川西町のイメージカラーをアンケートで聞いたんですが、灰色、黒など暗いイメージばかり」。
     そこで、「元気が出ることをやろうと声を掛け、それが劇団公演。1人1万円出資を広げ、その輪が広がって1枚3千円のチケットが千2百枚売れたんです」。劇団公演に取り組んだメンバーの『熱』を次につなげようと、旗揚げした町民劇団「かわにし夢きゃらばん」は今も続く。

    2024年5月18日号

  • 『サッカーに、農業に、芸術祭に』

    小林舞さん(1990年生まれ)

     真っ青な空に真っ赤な『鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館』が映える。大地の芸術祭の人気拠点の十日町市鉢には、芸術祭開催年ではない年もたくさんの人が訪れる。運営スタッフのひとり。横浜から移り住み5年目の春を迎えた。小林さんにはもう一つの顔がある。「動く大地の芸術祭作品」である女子サッカー『FC越後妻有』
    のゴールキーパーだ。今日11日、松本市でリーグ3戦目を松本山雅レディースと対戦。これまで負けていないが「どのチームもレベルを上げています。アウェイですが、妻有の皆さんの応援を受け、勝ちにいきます」。

     妻有の地に至るプロセスを振り返ると「引き寄せられる」繋がりを感じる。横浜の進学高時代、172㌢余の長身を生かしハンドボールのキーパーで活躍。クラスメイトの多くは「有名難関大学をめざすなか、私は部活に集中でしたから、志望大学には残念ながら…でした」。
     幼少期から小学、中学時代、両親とミュージカルや映画などによく行った。母は中学時代、ミュージカル劇団に所属しており、我が娘も生の舞台の鑑賞に連れて行った。「そうした下地があったんでしょうか。志望大学に入れず浪人時代、『自分が本当にやりたいことは?』と疑問を抱き、その時、母から日藝(日本大学藝術学部)のことを聞き、方向転換しました」。そのアドバイスを受け、日大藝術学部映画学科監督コースに入った。
     小さな頃から見て来た舞台や映画、その分野への関心は大学進学と共にさらに増し、在学中は様々な映像製作や美術系に取り組む。越後妻有で開く大地の芸術祭を知り「こへび隊に入りたい、とずっと思っていましたが、なかなか実現できませんでした」。
     日藝の卒業作品は、自分のオリジナル脚本『坊ダンス』。お寺の息子と教会の娘の恋バナ。ロミオとジュリエットをベースに、30分のミュージカル作品を仕上げた。子どもから大人までキャスト30人ほど。卒業後、東京の映画制作会社に入り美術スタッフで働く。
     「4年ほど在職し、その後フリーランスになったんですが、その時、芸術祭のこへび隊に入り初めて妻有を訪れました。人が良く、この空気感が最高で、いい所だなぁ、が実感でした」。
     
     事はそこからとんとん拍子で進んだ。こへび隊で、まつだい農舞台で働く時、女子サッカーのFC越後妻有選手募集のチラシを見た。「地元スタッフの樋口さんに話すと、俺が監督に話してやるとなり、すぐに監督から連絡が来て、ハンドボールをしていたんですが…と話したんですが、やってみようよ、とすぐにメンバー入り、なにかに引っ張られるようでした」。
     その練習拠点、奴奈川キャンパスで、大地の芸術祭に作品出展している日藝の鞍掛純一教授と出会う。「学生時代、芸術祭に関わっておられることは知っていましたが、お会いしたことはなかったです」。これも巡りあわせか。

     FC越後妻有は、小林さん入団時には6人、いまは12人の選手に。FC越後妻有は、存在そのものが大地の芸術祭作品であり、その活動は「まつだい棚田バンク」など地元農業を手伝いながら、芸術祭スタッフとして拠点作品の運営に関わり、さらにサッカーのリーグ戦に参戦するという文字通りオールラウンドプレイの「女子サッカーチーム」。一昨年は2部リーグ初優勝、昨年は北信越女子サッカーリーグ3位と、上位の常連チームになっている。毎週4日、それぞれの仕事を終え、練習に集まる。ホームグラウンドは奴奈川キャンパスのグラウンド。試合では地元応援団オリジナルの応援旗がなびき、これもオリジナルな応援歌がグラウンドに響く。

     サッカーも初めて、農業も初めて、妻有も初めて。「でも、初めては面白いです。年に一度くらい横浜に帰りますが、ここに来ると落ち着きますね。友だちも両親も来てくれます。こちらでは知り合いがどんどん広がっていき、こちらがホームになりつつあります」。

    ◆バトンタッチします。
     「北野一美さん」

    2024年5月11日号

  • 『居心地の良さ、住み続けたい』

    原 拓矢さん(1994年生まれ)

     「なにか、しっくりこない」。こんな風に感じる日々は誰にもある。その時、どう動くかで、その後の時間は大きく変わる。立教大で社会学を学び就職した会社は「全農パールライス」。米を扱う国内大手で輸出分野でも大きなシェアを持つ。2年ほど在職し、さらに数社で働くなかで「しっくりこない」と感じ始めた。そこで自分を動かしたのは「農業がしたい」という内なる声だった。だが、移住となると二の足を踏んだ。そこでさらに内なる声が聞こえた。「やりたいことをやらなきゃ、後悔する」。
     地域おこし協力隊制度を知り、リサーチを始めると福島や山梨、新潟で農業分野の協力隊を募集していた。「各地へ行き、いろいろ見ましたが、十日町の鉢や中手に来た時、直感的ですが、ピンときました。ここだと」。
     2022年1月、真冬のお試し体験に入った。「全くの初めての私を、いつも会っているように歓迎していただき、地元の皆さんの人の良さが決め手でした」。

     その年の4月、吉田地区の鉢・中手を担当する地域おこし協力隊で赴任。吉田地区には協力隊の先輩、山口洋樹さんが地域支援員として活動している。「中手集落は5世帯6人です。でも水田を耕作する人は3人、70代、80代の方です。この先を考えると担い手不足は明らかで、自分に何ができるのか、すこしでも力になりたい、という思いと農業がしたい、その結果の吉田地区でしょうか」。 いまは鉢集落に住み、来年3月の任期満了後も暮らし続け、中手の田んぼを受けて米づくりをするつもりだ。いまは40㌃ほどを手伝い耕作する。
     なぜ農業、米づくりなのか。全農パールライス時代に感じたのは、「自分で作ったものではなく、営業していてもしっくりこなかったんです。自分で作った米を、自信を持って提供していきたい、その思いが強くなっていきました」。時々、両親が暮らす埼玉・川越に帰るが、「どうも人がいっぱいいる所が苦手なんです。生まれ育った川越には友だちもいて、近所付き合いもありますが、ここで2年間暮らし、感じているのは『いざという時の強さ』でしょうか。災害など起こった時も、こちらでは生きていける強さがあります。これは生きる安心感にもつながります。それに居心地の良さですね」。

     今夏は第9回大地の芸術祭。暮らす鉢集落には絵本作家・田島征三氏の『絵本と木の実の美術館』がある。芸術祭で人気トップ級の拠点だ。「田島さんには何度もお会いしていますが、あの飾らない、いつも自然体の人柄はいいですね」。
     昨年初めて自作の米を自炊で食べた。「美味しかったですね。中手は山からの水でコメ作りをしていますから、標高も400㍍余りで良いコメができるようです。もうご飯だけでも充分です」。
     自炊生活も3年目、レトルトや冷凍品などからは遠ざかり、「近所の方が玄関先に野菜を置いていってくれたり、ありがたいです」。身長188㌢は、高い所の用事など何かと声もかかる。
     「毎日が仕事で、毎日がプライベートの時間、そんな毎日ですが、居心地の良さは、なにものにも代えがたいですね」。
    ◆バトンタッチします。
     「小林舞さん」

    2024年4月27日号

  • 『クワガタに魅せられ』

    髙木 良輔さん(1994年生まれ)

     その体験が、いまもベースにある。小学2年の夏休み、祖父と兄、2人の従兄と一緒に早朝のクワガタ・カブトムシ採りに行った。母の実家、茨城・古河市の自然は、小学生には魅力的な地だった。
     「もともと、一つのものに対して執着心を持って、深めていくことが好きな子でしたので、虫を長い時間じっと見ていたりしていました」。
     クワガタ。その生態をどんどん知りたくなり、小学時代で専門誌や昆虫図鑑を見て情報を集め、家族旅行の行先も自然を求めての旅。飼育と養殖にも取り組んだ。だが中学生になり、「周りは音楽や不良カルチャーが関心でしたから、友だちには分からないように話題にはせず、ひっそりと自分だけでやっていました」。 さらに高校時代も進学先に生物部がなく、ここでも「ひとりの世界」だった。だが「自宅から高校まで往復26㌔、自転車通学していましたから、把握できる地点が多くなり、あそこに行けばクワガタがいるなど通学が自然散策でした。帰りが夜8時を過ぎることもありました」。
     クワガタへの関心と共に、鉄道を通じて全国の地名への関心も並行して高まり、進んだ専修大・環境地理学科では各地へ演習に行くことで、さらにクワガタとのつながりが濃くなっていった。「全国を旅しました。これまでに47都道府県のうち山口、宮崎以外の45都道府県に行っています。その先々で、知らないことへの関心がさらに深まっています」。 その学生時代。飼育・養殖をアパートで行い、百匹近くを飼育。整然と積み上げられた収納箱を見た学友は「こんな部屋は初めて」と驚かれたというが、いまはさらに種類も数も増えている。

     『クワガタを身近に観察できる環境に暮らしたい』。その契機は2020年6月に訪れた。一つの場所で一夜で50匹以上のミヤマクワガタと出会った。その地は湯沢町だったが、魚沼エリアを調べると十日町地域にはさらに魅力的な自然環境があることが分かった。2021年4月から地域おこし協力隊で十日町に入り、松代中部地区(松代田沢・小荒戸・菅刈・太平・千年・青葉・池尻の7集落)を担当、今春3月で退任。旧松代町内に定住している。
     協力隊の3年目、2023年8月。十日町市と友好交流する世田谷区民祭で「クワガタ・カブトムシ」を出品した。「対面販売をしたんですが、子どもたちの反応がとてもよく、その時、クワガタを求めた家族とは今も交流が続いています」。 この時の好感触で「クワガタでやれるかも」と飼育・養殖・販売の強い手応えを掴んだ。前年の2022年度の十日町ビジネスプラン審査会で最優秀賞も受け、現在は外国種30種、国内15種を飼育・養殖している。

     「この地域の自然環境は、クワガタ生息に合っています。ミヤマクワガタは標高百㍍以下に生息し、ヒメオオクワガタは標高7百㍍以上に。関東地方では前者は3百㍍、後者は千㍍級に生息しています。当地域は山地の標高が低い割に冷涼な気温で、生息環境が良いからです」。 この魅力的な自然環境を子どもたちの体験の場にしたいと考える。「市内のキャンプ場と連携し、クワガタ生息地での自然体験ツアーを計画したいです。世田谷の子どもたちとの交流のように、子どもたちにこの自然を体験してほしいです」。

     クワガタに魅せられている自分の存在以上に、この地に生息するクワガタの存在感が、さらに増している。
    ◆バトンタッチします。
     「原 拓矢さん」

    2024年4月20日号

  • 『建築は芸術』、たまたまの出会い

    神内 隆伍さん(2000年生まれ)

     環境問題を議論した国際会議の場で、「京都議定書締結」会場として世界に知られる国立京都国際会館。その建物の造形が気になりだしたのは高校時代。「あの建物の前に周囲1・5㌔もある大きな池があります。国際会館とその池、あの風景は自然の中に巨大な人工物があるという異物感があると思いますが、私はあの建物と池があるから、あの風景の雰囲気があると感じています」。でも、と続ける。「高校時代は、なんとなく気になる建物であり、風景でした。こうして言語化できるようになったのは、大学に行ってからですね」。国際会館も、あの池「宝ヶ池」も、『たまたま』家の近くにあった。
     『建築は芸術』。
    この視点のままに多摩美術大に進み、環境デザイン学科で建築を専攻。一般的な住宅も「芸術」として見ると、暮らしまで見えてくる。学生時代、東北以外のほぼ全国を巡り、行く先々で「建築」を見た。在学中の作品制作は、自分のルーツや育ちを振り返る契機にもなり、その中から出てきたのが卒論テーマ『自然と人間』。卒業設計ではテーマを具現化した図面と模型を製作。その理念は「『人間』以後の自然/人の関係性」ー自然との一体化をめざしてー。この論点が卒業後、迷いなく『米づくり』へとつながった。
     十日町行きも「たまたま」だった。米づくり、協力隊、このキーワードで検索すると「十日町市」が出てきた。「大地の芸術祭は知っていましたから、先ずは行ってみるか、でした」。入った地域は「北山地区」。田野倉、仙納、莇平の3集落を担当。1年目から思い描いた米づくりが実現。「田んぼ4枚で2畝(2㌃)を、最初の年は耕運しないで、そのまま手で苗を植えました。地元の人たちがとっても温かく迎えてくれ、米づくりも教えて頂き、2年目には少しコツをつかみましたが一朝一夕にはいかないことが、実感として分かりました」。
     だが、苦しい・疲れる・大変の農作業から、「そういう行為からしか得られない快楽が得られた、これはこの作業をしない限り分からなかったことでした」。『建築は芸術』に通じる感覚でもあり、米づくりを「ライフワーク」とするつもりだ。それも、無心で土と向き合う、その行為でなければ得ることができない『快楽』を求めて。
     3月末で地域おこし協力隊を退任。「建築は芸術」に通じる家づくり、こだわり設計の津南町の工務店「大平木工」で5月から働く。「近代以前の建築は、大工さんが自分で設計し家を建てていましたが、最近は設計と建築が分業化されてしまいました。近代以前の建築のあり方に関心があり、先ずは現場から入ります」。

     美大で抱いた「建築は芸術」。その方向性に向かう自分がいる。「これも、たまたま、その方向に向かい始めている、ですね。これからも、たまたま、に出会うことを楽しみにしたいです」。
     協力隊で暮らした田野倉。ここでも「たまたま」の出会いがあり、築後150年余の古民家を譲り受けることになった。地域の「旦那様」の家で、長らく空き家だった。「どう手を入れようかという設計は出来ています。自分でリノベーションしていきます。まさか24歳で家と土地を持つとは思ってなかったですね。これも、たまたまの出会いでしょうか」。
     取材の3日前、突然友だちが家に来て『髪、染めたら』と染め始め、人生初の「ゴールド髪」に。「有無を言わせず、いきなり髪染めが始まったんです」。取材が終わり、「この後、このまま東北の旅に出ます。ノープラン、5月までに帰るつもりです」。
     きっと、旅の先々で新たな「たまたま」が待っているのだろう。
    ◆バトンタッチします。
     「高木良輔さん」

    2024年4月13日号

  • 『自分の興味エネルギーのままに』

    廣田 伸子さん(1983年生まれ)

     16歳の時、北海道・紋別でファームスティで牧場で働いた。夕食会の時、その言葉と出会った。『自分の興味に素直になったほうがいいよ』。牧場経営者の友だちも一緒の食事会で、その人はNHKを退職し、夫婦で紋別で暮らしていた。中学を出たばかりの16歳には、興味深い話ばかりだった。小学卒業後、親に長文の手紙を書いて願った埼玉の「自由の森学園」に入り、卒業後、東京の劇団やタイへのバックパックの旅などを話すと、その人は『自分の興味に…』と話した。「そういうことなのか…」と、ストンと胸に落ちる言葉だった。
     十日町生まれ。
    17歳の時には沖縄の高校に通い、沖縄の歴史、習俗や文化に触れ、民俗の研究者になろうとひらめく。「ちょっと違う角度で見ると、こんなにも違う世界があるんだと。それを見つけ出すことをしたい」と文化人類学をめざし、高校の英語教諭の橋渡しでネパールへ。フィールドワークがある現地の大学に入り、村々を回った。
     大学3年間でネパール語を習得、卒業後に一端帰国するが、海外協力隊に応募するとネパール担当にすぐ決まり、2年間の活動後、JICA(ジャイカ)に就職。日本のNGOと現地NGOをつなぐコーディネイト役を担いカトマンズに3年間駐在。「山が最高にきれいでしたね」。現地ではセーブ・ザ・チルドレンなど両国での9件のプロジェクトに取り組んだ。
     探求はさらに続く。日本財団の奨学生に受かり、フィリピンとコスタリカの国連大学で国際政治学や持続可能経済開発学を学ぶ。「キャリアアップをめざしたんですが、それ以上に人と接するのが好きで、現地の人たちとの出会いや交流が最高でした」。
     自分を突き動かすエネルギーのままに国外での活動を続けるなかで、ふと感じた。「キャリアを積んでいくと、そのキャリアに引っ張られてしまう。本当にやりたいことから外れていくような感じがしたんです」。違う何かへの興味が湧いてくるのを感じた。北海道で出会った、あの言葉がよみがえった。
     十日町に帰った時、ち
    ょうど大地の芸術祭開催の年だった。実家の農家民宿を手伝う中で、「自分でプロジェクトを立ち上げるのも楽しそうだな」、さらに「自分で好きなようにしてみたい」。 清津峡入口の小出集落に空き家を見つけた。「人から人につながり、この家のリノベーションには本当に様々な人たちが関わってくれ、皆さんほぼ手弁当でした。亡くなっちゃいましたが、棟梁・樋口武さんも病気を推して最後まで『こだわり』で作り続け、この家の随所に見られますよ」。
     『Tani House Itaya』(谷ハウスいたや)。清津峡渓谷の谷、その清流、清津川の脇に立つ。屋根裏まで吹き抜け、黒光りする階段を登ると中二階の廊下から囲炉裏がある居間が見下ろせる。歴史を感じる太い梁に漆喰壁、「ずっと居たくなる空間」がそこにある。
     「昨年の夏、オランダからの家族が1ヵ月滞在し、台湾の家族も1週間居ました。国内からも家族が来て、ここの自然を楽しんでいます」。宿泊は『1棟貸し』。まるごと家を借りられ、我が家のようにリラックスして過ごせる魅力は大きい。
     13歳で家を離れ、自分の興味エネルギーのままに動いてきた。「ふりきった、かなぁ、ですね」。10代からの歩みは相当な振れ幅の時間。まだ振れは続いているようだ。「来年は、ここに居ないかもしれませんねぇ」、冗談の笑顔は、まだエネルギーでいっぱいだ。
    ◆バトンタッチします。
     「神内隆伍さん」

    2024年4月6日号

  • 『街の日常にもっときものを』

    河田 千穂さん(1993年生まれ)

     桜が満開になる4月中旬過ぎに、街をきもので歩くイベントを企画している。「以前、ネットを通じてアンケートをしました。きものについて一番困っていることのトップは、きものを着る機会、場がないという回答でした。きものが好きな方が多い街ですから、もったいないですね」。
     このきものは知人から譲り受けた「小紋」。幼少期から絵を描くことが好きで、大学では服飾関係のテキスタイル・デザインを専攻。「そのままデザイン系に進むと自分では思っていましたが、『るろうに剣心』との出会いで、和の世界観、きものへの関心が増し、思いはさらに増しています」。
     学生時代に刺激を受け、「推し」バンドになった『デッド・オア・アライヴ』のボーカルの世界観に魅かれ、「追っかけでロンドンを何往復もしました」。大学卒後の進路は「路線変更」。すぐに就職せず、都内の料亭でバイトし、推しバンドのライブ日程に合わせロンドンへ。渡り鳥生活を1年余り続ける。「ロンドンでは、日本文化を通じて和の雰囲気をさらに感じ、きものを着ていると、きものを『作品』と見てくれます。これだ、と思いました」。
     きもの関連企業をリサーチし、十日町市の「きものブレイン」でテキスタイルデザイナーとして入社。在社中に地元の十日町服飾専門学校に通い、実務3年以上で受験できる「着付け師」資格を取得。同じ会社でパートナーと出会い退社。きものレンタル『kcda』(クダ)を立ち上げ、成人式の前撮りやきものイベントで着付を担当している。kcdaはKawadaChihoを入れ替えアレンジした。
     好きな「絞り」や「小
    紋」「訪問着」「振袖」など100着ほど持つ。専用クローゼットに三つ折りでハンガーに吊るし保管している。
     「飲み会も多いので、そういう時は周りに気を使わせないようにポリエステルのきもので行きます。タイムスリップできれば、るろうに剣心の時代に行きたいですね」。聖地巡礼で会津若松を何度も訪れている。
     絵も好きで、昨年の十日町きものまつりでは路上ライブ・ペイントを行い、出没で話題になった熊を自分のイメージで描いた。「なかなか描いている時間がないですね」。
     「私は歴史が好きで、バックグラウンドがあるものに魅かれます。歴史と伝統があるきものです。雪まつり、きものまつり、もっとファッションショーに力を入れてもいいのでは。きものを身近なものにしていきたいですね。街なかで日常的にきもの姿が見られれば、もっとすてきな雰囲気の街になるのではないでしょうか」。
    ◆バトンタッチします。
     「廣田伸子さん」

    2024年3月30日号

  • 『この自然、この民度、すごいね』

    河中 登さん(1956年生まれ)

     小高いブナ林から家を訪ねたようにカモシカの足跡が続く。14年ほど家主がいない空き家を十日町市西方(さいほう)に求めて4年。兵庫西宮時代に描いた「北国・雪国くらし」が実現。「このロケーション、風土、民度がいいですね。特に人がいい」。前住人は気象や雪氷の研究者で、こだわりの家を感じさせる造りだ。さらに手を加え、お気に入り空間に仕上げた。
     40年余り大手ドラッグストアに勤務。管理職時代に「北国、雪国に住みたい」と北海道から探し始めた。「関西人にとっては、青森より北海道よりイメージ的に遠い越後・新潟。そこに雪の魅力が加わった」。角部屋の両ガラス窓からブナ林越しに遠方の山並みが見え、突き出しの居間テラス前は雪原。カモシカやキツネの足跡が点々と絵を描く。
     天井まで吹き抜けの居間に響くJAZZ。「物心ついた時からJAZZだった。獣医の親父がずっと聞いていたから、中学高校で日野皓正やコルトレーンなどを聞き、以来ずっと聞いているが、クラシックにもはまってしまった」。名機のターンテーブル、アンプ、スピーカー、さらにレコード、CD数百枚は兵庫から運び、吹き抜け空間は最高の音響を創り出す。
     西宮時代から続けるモノづくり。建築用材や厚いアクリルなど使い「思いついたまま創る。やるぞーと向かうより、ふとした時にイメージがわくね」。藝大に進んだ娘から『オリジナルなブランドを作ったら』と言われ、使いたかった「空」を入れ『我空(がくう)』に。
     オリジナ
    ル創作品を展示販売するギャラリー&カフェ『設亮庵(せつりょうあん)』も西宮時代から。「ここの環境が良すぎて、イメージが湧かなくなっているので、ちょっと自分を痛めつけないと…」。それほど居心地が良い西方だ。
     この地の人たちの「人の良さ」を考えた。「この民度は、縄文人から来ているんじゃないかな。中世以降も農耕を通じてモノゴトをきちっとする勤勉さが根付いているのではと思う。十日町は着物産業で、外からの人を受け入れる素地ができており、それが大地の芸術祭に訪れる人たちを、すんなり受け入れる民度ができて、心地よい感じを出しているんじゃないかな」。
     「それに雪が大手資本を、結果的に入れなかったことも大きい。大手企業は豪雪地には参入しない。それが今のこの地域の良さを出している。人気の清津峡はあれだけ人が入っているので、大手資本が入ってもおかしくないが、大手が入ったらあの雰囲気は壊れてしまうだろうね」。
     地元の西方の米のうまさを実感している。「ここの米はうまいよ。作る人の人柄が出ているね」。美味い清水(しみず)が米を育てている。
    ◆バトンタッチします。
     「河田千穂さん」

    2024年3月23日号

  • 『子ども向け本をもっと』

    会田 法行さん(1972年生まれ)

     「3・11」、13年の時間が流れた。発災から2週間後、被災地に入り車中泊しながら「現実」を撮った。朝日新聞退社後のフリーランス取材。「フクシマ原発事故でその地を追われる人たち。根
    無草の自分には、頭で理解できて
    も、心で分からないこともあった」。目の前の現実を記録。子ども向け本『春を待つ里山—原発事故に揺れるフクシマで』を発刊。『続被爆者70年目の出会い』など多数の著書を出す。
     米国の大学在学中、イ
    ンターン生として地元地方新聞社で研修中、ラスベガスで世界的なボクシング試合を取材。「僕も高校、大学までボクシングをしてたんです」。報道写真記者のスタートは1996年の朝日新聞入社、その後フリーランス。イラクなど紛争地を取材、パレスチナ・ガザにも。この道28年。「カメラの向こうの世界に身を置きたい」と妻で大地の芸術祭作家「蓮池もも」出身の新潟県内に移住先を探し縁あって十日町へ。 
     「大地に根を張るためには、その地に暮らすこと」。松代蓬平の空き家を求め、小学1年の息子と家族3人で暮らす。市の依頼を受けブログ『究極の雪国のくらし』で「ワラ細工」「ツケナ(漬菜)とニーナ(煮菜)」など写真と文で発信。「十日町8年目で、取材を通して客観的に見ることができるようになったかな」。
     8年目の米づくり、早稲田大・大学院政治学研究科ジャーナリズムコースの報道写真講師、取材先で出会った東ティモールのコーヒーがきっかけで自家焙煎し販売、「パレスチナ問題」で今も時々メディアから取材を受ける、などなど様々な顔を持つ。
     蓬平で実現したことがある。「移住してからの日々を毎日発信し、2700日余り続け、息子『あお』の成長記録の中から絵本『おにがくる』を出すことができ、妻ももが作家として大地の芸術祭に出展できた。ここでの暮らしを、子ども向け本としてもっと発信したいですね」
    ◆バトンタッチします。
     「河中登さん」

    2024年3月16日号

  • 『四国八十八霊場、お遍路で「荷」を置く』

    高橋 勇さん(1953年生まれ)

     高校2年の夏。
    「自転車で友だちと大阪万博へ行っていいか」
    『だめだ』
    「校長がいいと言えば、行ってもいいか」

     時は1970年、大阪万博開催。父にダメ出しされたが、すぐに動いた。県立十日町高校、当時の校長は歴代に名を残す名物校長の深田虎雄校長。万博行きを直接聞いた。「いましか出来ないことだ、行ってこい」、それは明快だった。
     高校2年の夏休み。友と2人で自転車にテント、自炊道具、食糧など積み、早朝出発。野宿をしながら長野から木曽路、岐阜、滋賀を通り大阪へ。「行きに6日かかった。友だちの親戚が大阪に居るというので、そこに泊まるつもりで行ったが、なんと引っ越していた。不動産屋に頼み込んで、その空き家に泊めてもらったが、電気はストップ、水風呂に入った」。夏休み後半の高校の北海道修学旅行に間に合わなくなり、「仕方なく、列車で帰ってきた」。
     十高生徒会役員の時、校則廃止を求め直談判へ。その時の問答。
    「喫茶店に行ったことがあるか」
    『はい、行きました』
    「校則違反だな。今日か
    ら3日間停学だ」
     その日は金曜日。この日午後から停学となり、金曜、土曜、日曜の3日間の停学。これが後世に伝わる『深田裁定』。十高時代の出会いが、その後の人生観に影響している。当時の倫理社会の教諭・髙橋竹雄先生(現勝又)の影響で「倫社の高校教諭」をめざす。
     進学先は國學院大哲学科。学内を歩いていると少林寺拳法部の勧誘を受け入部。「そこは、あの漫画『花の応援団』そのままでした。オスッの毎日。理不尽、不条理、そんな世界だったが、自分が上になるようになり、そんな体質は変えた」。
     大学4年、新潟県教員試験を受けるが採用ならず。そんな時「父から連絡が来て、駐在さんが誘いにきたぞと、試験だけでも受けてみろと言われ、受験した」。当初、学生運動に対する機動隊に良いイメージはなかったが新卒で入る。そこで良い同期、尊敬できる教官と出会い不安は払拭した。

     警察官37年間、刑事畑を歩む。警察学校の指導巡査、関東管区機動隊なども勤務。「年間百体くらいの検死をした。先輩から『身内と思え』と繰り返し言われた」。事件はもちろん病死、溺死、事故死などあらゆる現場を経験。「退職したら遍路に行こうと決めていた」。それは現職時代に抱え背負った荷、まとわりついた『情念』を置いて来たかったから。
     10年前に退職。すぐに四国八十八霊場・遍路の旅に出た。退職の春、4月中旬から6月上旬まで、すべてを歩き通した。高野山での出会いは忘れがたい。「御朱印を推す職員の方だったが『高野山から歩き始め、再び高野山まで歩き通す遍路はほとんどいない。本当にやる気か』と親身になって教えてくれた。この人との出会いがなければ、歩き通せなかったかもしれない」。今もこの人とは交友が続いている。
     
     出会いは続く。現職もあと5年ほどになった頃。小出署勤務時代に通った英会話教室で活動を知る。浦佐・国際大学のベトナム留学生の「日本語チューター」(補佐指導者)活動をボランティアで務め、いまも続ける。
    ある日、自宅に女子留学生3人を招く。ベトナム料理を作ってくれ食卓を囲む。「私の母は恥ずかしがって食卓に来なかった。すると『なぜおばあさんはここに来ないのですか』と」。呼びに行き食卓に一緒に着くと「母に次々と言葉を掛け、すっかり打ち解けた。あ~こういう事かと分かりましたね」。年配者を大切にする、その気持ちを強く感じた。その後、結婚式に招待され、二度もベトナムへ行った。日本語チューターはもう15年目になる。
     さらに縁を感じる出会いは続く。地元川西・千手神社の奉賛会役員の誘いを受けた。県神社庁中魚沼支部の総代会副会長を務める。「でも、これ以上いろいろな役は引き受けない方がいいと家族に言われ、その日の朝、入会を断った。その日の昼、大学時代の友人で東京日野市の八坂神社の神主をしている友だちから本が贈られてきた。家族はそれを見て『これは何かの印、お告げかも』と言い、奉賛会役員を受けたんです。不思議な巡り合わせがあるもんですね。それにしても出会いは、おもしろい」。

    ◆バトンタッチします。「田邊武さん」

    2024年5月25日号

  • 『夫が作ったこの家、思いがいっぱいです』

    北野一美さん(1941年生まれ)

     これは「我が一代記」だ。生まれ育った山梨から新潟・川西へ。親戚、友だちが一人もいない地での生活は、まさに「無我夢中」の人生だった。

     役場にも
    農協にも、
    商工会にも
    断られたと劇団制作の女性が訪ねて来た。ミュージカル劇団公演の思いを聞き、
    「よし、やってみよう」
    と決めた『ふ
    るさときゃらばん』川西町公演は、28年前の1995年。親戚も友だちも、誰一人知らない地に来た時の、当時の自分と重なった。
     公演費用260万円、千人の観客が必要。合併前の川西町人口は8千人余。「あの時、商工会女性部長でした。会員に川西町のイメージカラーをアンケートで聞いたんですが、灰色、黒など暗いイメージばかり」。
     そこで、「元気が出ることをやろうと声を掛け、それが劇団公演。1人1万円出資を広げ、その輪が広がって1枚3千円のチケットが千2百枚売れたんです」。劇団公演に取り組んだメンバーの『熱』を次につなげようと、旗揚げした町民劇団「かわにし夢きゃらばん」は今も続く。

    2024年5月18日号

  • 『サッカーに、農業に、芸術祭に』

    小林舞さん(1990年生まれ)

     真っ青な空に真っ赤な『鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館』が映える。大地の芸術祭の人気拠点の十日町市鉢には、芸術祭開催年ではない年もたくさんの人が訪れる。運営スタッフのひとり。横浜から移り住み5年目の春を迎えた。小林さんにはもう一つの顔がある。「動く大地の芸術祭作品」である女子サッカー『FC越後妻有』
    のゴールキーパーだ。今日11日、松本市でリーグ3戦目を松本山雅レディースと対戦。これまで負けていないが「どのチームもレベルを上げています。アウェイですが、妻有の皆さんの応援を受け、勝ちにいきます」。

     妻有の地に至るプロセスを振り返ると「引き寄せられる」繋がりを感じる。横浜の進学高時代、172㌢余の長身を生かしハンドボールのキーパーで活躍。クラスメイトの多くは「有名難関大学をめざすなか、私は部活に集中でしたから、志望大学には残念ながら…でした」。
     幼少期から小学、中学時代、両親とミュージカルや映画などによく行った。母は中学時代、ミュージカル劇団に所属しており、我が娘も生の舞台の鑑賞に連れて行った。「そうした下地があったんでしょうか。志望大学に入れず浪人時代、『自分が本当にやりたいことは?』と疑問を抱き、その時、母から日藝(日本大学藝術学部)のことを聞き、方向転換しました」。そのアドバイスを受け、日大藝術学部映画学科監督コースに入った。
     小さな頃から見て来た舞台や映画、その分野への関心は大学進学と共にさらに増し、在学中は様々な映像製作や美術系に取り組む。越後妻有で開く大地の芸術祭を知り「こへび隊に入りたい、とずっと思っていましたが、なかなか実現できませんでした」。
     日藝の卒業作品は、自分のオリジナル脚本『坊ダンス』。お寺の息子と教会の娘の恋バナ。ロミオとジュリエットをベースに、30分のミュージカル作品を仕上げた。子どもから大人までキャスト30人ほど。卒業後、東京の映画制作会社に入り美術スタッフで働く。
     「4年ほど在職し、その後フリーランスになったんですが、その時、芸術祭のこへび隊に入り初めて妻有を訪れました。人が良く、この空気感が最高で、いい所だなぁ、が実感でした」。
     
     事はそこからとんとん拍子で進んだ。こへび隊で、まつだい農舞台で働く時、女子サッカーのFC越後妻有選手募集のチラシを見た。「地元スタッフの樋口さんに話すと、俺が監督に話してやるとなり、すぐに監督から連絡が来て、ハンドボールをしていたんですが…と話したんですが、やってみようよ、とすぐにメンバー入り、なにかに引っ張られるようでした」。
     その練習拠点、奴奈川キャンパスで、大地の芸術祭に作品出展している日藝の鞍掛純一教授と出会う。「学生時代、芸術祭に関わっておられることは知っていましたが、お会いしたことはなかったです」。これも巡りあわせか。

     FC越後妻有は、小林さん入団時には6人、いまは12人の選手に。FC越後妻有は、存在そのものが大地の芸術祭作品であり、その活動は「まつだい棚田バンク」など地元農業を手伝いながら、芸術祭スタッフとして拠点作品の運営に関わり、さらにサッカーのリーグ戦に参戦するという文字通りオールラウンドプレイの「女子サッカーチーム」。一昨年は2部リーグ初優勝、昨年は北信越女子サッカーリーグ3位と、上位の常連チームになっている。毎週4日、それぞれの仕事を終え、練習に集まる。ホームグラウンドは奴奈川キャンパスのグラウンド。試合では地元応援団オリジナルの応援旗がなびき、これもオリジナルな応援歌がグラウンドに響く。

     サッカーも初めて、農業も初めて、妻有も初めて。「でも、初めては面白いです。年に一度くらい横浜に帰りますが、ここに来ると落ち着きますね。友だちも両親も来てくれます。こちらでは知り合いがどんどん広がっていき、こちらがホームになりつつあります」。

    ◆バトンタッチします。
     「北野一美さん」

    2024年5月11日号

  • 『居心地の良さ、住み続けたい』

    原 拓矢さん(1994年生まれ)

     「なにか、しっくりこない」。こんな風に感じる日々は誰にもある。その時、どう動くかで、その後の時間は大きく変わる。立教大で社会学を学び就職した会社は「全農パールライス」。米を扱う国内大手で輸出分野でも大きなシェアを持つ。2年ほど在職し、さらに数社で働くなかで「しっくりこない」と感じ始めた。そこで自分を動かしたのは「農業がしたい」という内なる声だった。だが、移住となると二の足を踏んだ。そこでさらに内なる声が聞こえた。「やりたいことをやらなきゃ、後悔する」。
     地域おこし協力隊制度を知り、リサーチを始めると福島や山梨、新潟で農業分野の協力隊を募集していた。「各地へ行き、いろいろ見ましたが、十日町の鉢や中手に来た時、直感的ですが、ピンときました。ここだと」。
     2022年1月、真冬のお試し体験に入った。「全くの初めての私を、いつも会っているように歓迎していただき、地元の皆さんの人の良さが決め手でした」。

     その年の4月、吉田地区の鉢・中手を担当する地域おこし協力隊で赴任。吉田地区には協力隊の先輩、山口洋樹さんが地域支援員として活動している。「中手集落は5世帯6人です。でも水田を耕作する人は3人、70代、80代の方です。この先を考えると担い手不足は明らかで、自分に何ができるのか、すこしでも力になりたい、という思いと農業がしたい、その結果の吉田地区でしょうか」。 いまは鉢集落に住み、来年3月の任期満了後も暮らし続け、中手の田んぼを受けて米づくりをするつもりだ。いまは40㌃ほどを手伝い耕作する。
     なぜ農業、米づくりなのか。全農パールライス時代に感じたのは、「自分で作ったものではなく、営業していてもしっくりこなかったんです。自分で作った米を、自信を持って提供していきたい、その思いが強くなっていきました」。時々、両親が暮らす埼玉・川越に帰るが、「どうも人がいっぱいいる所が苦手なんです。生まれ育った川越には友だちもいて、近所付き合いもありますが、ここで2年間暮らし、感じているのは『いざという時の強さ』でしょうか。災害など起こった時も、こちらでは生きていける強さがあります。これは生きる安心感にもつながります。それに居心地の良さですね」。

     今夏は第9回大地の芸術祭。暮らす鉢集落には絵本作家・田島征三氏の『絵本と木の実の美術館』がある。芸術祭で人気トップ級の拠点だ。「田島さんには何度もお会いしていますが、あの飾らない、いつも自然体の人柄はいいですね」。
     昨年初めて自作の米を自炊で食べた。「美味しかったですね。中手は山からの水でコメ作りをしていますから、標高も400㍍余りで良いコメができるようです。もうご飯だけでも充分です」。
     自炊生活も3年目、レトルトや冷凍品などからは遠ざかり、「近所の方が玄関先に野菜を置いていってくれたり、ありがたいです」。身長188㌢は、高い所の用事など何かと声もかかる。
     「毎日が仕事で、毎日がプライベートの時間、そんな毎日ですが、居心地の良さは、なにものにも代えがたいですね」。
    ◆バトンタッチします。
     「小林舞さん」

    2024年4月27日号

  • 『クワガタに魅せられ』

    髙木 良輔さん(1994年生まれ)

     その体験が、いまもベースにある。小学2年の夏休み、祖父と兄、2人の従兄と一緒に早朝のクワガタ・カブトムシ採りに行った。母の実家、茨城・古河市の自然は、小学生には魅力的な地だった。
     「もともと、一つのものに対して執着心を持って、深めていくことが好きな子でしたので、虫を長い時間じっと見ていたりしていました」。
     クワガタ。その生態をどんどん知りたくなり、小学時代で専門誌や昆虫図鑑を見て情報を集め、家族旅行の行先も自然を求めての旅。飼育と養殖にも取り組んだ。だが中学生になり、「周りは音楽や不良カルチャーが関心でしたから、友だちには分からないように話題にはせず、ひっそりと自分だけでやっていました」。 さらに高校時代も進学先に生物部がなく、ここでも「ひとりの世界」だった。だが「自宅から高校まで往復26㌔、自転車通学していましたから、把握できる地点が多くなり、あそこに行けばクワガタがいるなど通学が自然散策でした。帰りが夜8時を過ぎることもありました」。
     クワガタへの関心と共に、鉄道を通じて全国の地名への関心も並行して高まり、進んだ専修大・環境地理学科では各地へ演習に行くことで、さらにクワガタとのつながりが濃くなっていった。「全国を旅しました。これまでに47都道府県のうち山口、宮崎以外の45都道府県に行っています。その先々で、知らないことへの関心がさらに深まっています」。 その学生時代。飼育・養殖をアパートで行い、百匹近くを飼育。整然と積み上げられた収納箱を見た学友は「こんな部屋は初めて」と驚かれたというが、いまはさらに種類も数も増えている。

     『クワガタを身近に観察できる環境に暮らしたい』。その契機は2020年6月に訪れた。一つの場所で一夜で50匹以上のミヤマクワガタと出会った。その地は湯沢町だったが、魚沼エリアを調べると十日町地域にはさらに魅力的な自然環境があることが分かった。2021年4月から地域おこし協力隊で十日町に入り、松代中部地区(松代田沢・小荒戸・菅刈・太平・千年・青葉・池尻の7集落)を担当、今春3月で退任。旧松代町内に定住している。
     協力隊の3年目、2023年8月。十日町市と友好交流する世田谷区民祭で「クワガタ・カブトムシ」を出品した。「対面販売をしたんですが、子どもたちの反応がとてもよく、その時、クワガタを求めた家族とは今も交流が続いています」。 この時の好感触で「クワガタでやれるかも」と飼育・養殖・販売の強い手応えを掴んだ。前年の2022年度の十日町ビジネスプラン審査会で最優秀賞も受け、現在は外国種30種、国内15種を飼育・養殖している。

     「この地域の自然環境は、クワガタ生息に合っています。ミヤマクワガタは標高百㍍以下に生息し、ヒメオオクワガタは標高7百㍍以上に。関東地方では前者は3百㍍、後者は千㍍級に生息しています。当地域は山地の標高が低い割に冷涼な気温で、生息環境が良いからです」。 この魅力的な自然環境を子どもたちの体験の場にしたいと考える。「市内のキャンプ場と連携し、クワガタ生息地での自然体験ツアーを計画したいです。世田谷の子どもたちとの交流のように、子どもたちにこの自然を体験してほしいです」。

     クワガタに魅せられている自分の存在以上に、この地に生息するクワガタの存在感が、さらに増している。
    ◆バトンタッチします。
     「原 拓矢さん」

    2024年4月20日号

  • 『建築は芸術』、たまたまの出会い

    神内 隆伍さん(2000年生まれ)

     環境問題を議論した国際会議の場で、「京都議定書締結」会場として世界に知られる国立京都国際会館。その建物の造形が気になりだしたのは高校時代。「あの建物の前に周囲1・5㌔もある大きな池があります。国際会館とその池、あの風景は自然の中に巨大な人工物があるという異物感があると思いますが、私はあの建物と池があるから、あの風景の雰囲気があると感じています」。でも、と続ける。「高校時代は、なんとなく気になる建物であり、風景でした。こうして言語化できるようになったのは、大学に行ってからですね」。国際会館も、あの池「宝ヶ池」も、『たまたま』家の近くにあった。
     『建築は芸術』。
    この視点のままに多摩美術大に進み、環境デザイン学科で建築を専攻。一般的な住宅も「芸術」として見ると、暮らしまで見えてくる。学生時代、東北以外のほぼ全国を巡り、行く先々で「建築」を見た。在学中の作品制作は、自分のルーツや育ちを振り返る契機にもなり、その中から出てきたのが卒論テーマ『自然と人間』。卒業設計ではテーマを具現化した図面と模型を製作。その理念は「『人間』以後の自然/人の関係性」ー自然との一体化をめざしてー。この論点が卒業後、迷いなく『米づくり』へとつながった。
     十日町行きも「たまたま」だった。米づくり、協力隊、このキーワードで検索すると「十日町市」が出てきた。「大地の芸術祭は知っていましたから、先ずは行ってみるか、でした」。入った地域は「北山地区」。田野倉、仙納、莇平の3集落を担当。1年目から思い描いた米づくりが実現。「田んぼ4枚で2畝(2㌃)を、最初の年は耕運しないで、そのまま手で苗を植えました。地元の人たちがとっても温かく迎えてくれ、米づくりも教えて頂き、2年目には少しコツをつかみましたが一朝一夕にはいかないことが、実感として分かりました」。
     だが、苦しい・疲れる・大変の農作業から、「そういう行為からしか得られない快楽が得られた、これはこの作業をしない限り分からなかったことでした」。『建築は芸術』に通じる感覚でもあり、米づくりを「ライフワーク」とするつもりだ。それも、無心で土と向き合う、その行為でなければ得ることができない『快楽』を求めて。
     3月末で地域おこし協力隊を退任。「建築は芸術」に通じる家づくり、こだわり設計の津南町の工務店「大平木工」で5月から働く。「近代以前の建築は、大工さんが自分で設計し家を建てていましたが、最近は設計と建築が分業化されてしまいました。近代以前の建築のあり方に関心があり、先ずは現場から入ります」。

     美大で抱いた「建築は芸術」。その方向性に向かう自分がいる。「これも、たまたま、その方向に向かい始めている、ですね。これからも、たまたま、に出会うことを楽しみにしたいです」。
     協力隊で暮らした田野倉。ここでも「たまたま」の出会いがあり、築後150年余の古民家を譲り受けることになった。地域の「旦那様」の家で、長らく空き家だった。「どう手を入れようかという設計は出来ています。自分でリノベーションしていきます。まさか24歳で家と土地を持つとは思ってなかったですね。これも、たまたまの出会いでしょうか」。
     取材の3日前、突然友だちが家に来て『髪、染めたら』と染め始め、人生初の「ゴールド髪」に。「有無を言わせず、いきなり髪染めが始まったんです」。取材が終わり、「この後、このまま東北の旅に出ます。ノープラン、5月までに帰るつもりです」。
     きっと、旅の先々で新たな「たまたま」が待っているのだろう。
    ◆バトンタッチします。
     「高木良輔さん」

    2024年4月13日号

  • 『自分の興味エネルギーのままに』

    廣田 伸子さん(1983年生まれ)

     16歳の時、北海道・紋別でファームスティで牧場で働いた。夕食会の時、その言葉と出会った。『自分の興味に素直になったほうがいいよ』。牧場経営者の友だちも一緒の食事会で、その人はNHKを退職し、夫婦で紋別で暮らしていた。中学を出たばかりの16歳には、興味深い話ばかりだった。小学卒業後、親に長文の手紙を書いて願った埼玉の「自由の森学園」に入り、卒業後、東京の劇団やタイへのバックパックの旅などを話すと、その人は『自分の興味に…』と話した。「そういうことなのか…」と、ストンと胸に落ちる言葉だった。
     十日町生まれ。
    17歳の時には沖縄の高校に通い、沖縄の歴史、習俗や文化に触れ、民俗の研究者になろうとひらめく。「ちょっと違う角度で見ると、こんなにも違う世界があるんだと。それを見つけ出すことをしたい」と文化人類学をめざし、高校の英語教諭の橋渡しでネパールへ。フィールドワークがある現地の大学に入り、村々を回った。
     大学3年間でネパール語を習得、卒業後に一端帰国するが、海外協力隊に応募するとネパール担当にすぐ決まり、2年間の活動後、JICA(ジャイカ)に就職。日本のNGOと現地NGOをつなぐコーディネイト役を担いカトマンズに3年間駐在。「山が最高にきれいでしたね」。現地ではセーブ・ザ・チルドレンなど両国での9件のプロジェクトに取り組んだ。
     探求はさらに続く。日本財団の奨学生に受かり、フィリピンとコスタリカの国連大学で国際政治学や持続可能経済開発学を学ぶ。「キャリアアップをめざしたんですが、それ以上に人と接するのが好きで、現地の人たちとの出会いや交流が最高でした」。
     自分を突き動かすエネルギーのままに国外での活動を続けるなかで、ふと感じた。「キャリアを積んでいくと、そのキャリアに引っ張られてしまう。本当にやりたいことから外れていくような感じがしたんです」。違う何かへの興味が湧いてくるのを感じた。北海道で出会った、あの言葉がよみがえった。
     十日町に帰った時、ち
    ょうど大地の芸術祭開催の年だった。実家の農家民宿を手伝う中で、「自分でプロジェクトを立ち上げるのも楽しそうだな」、さらに「自分で好きなようにしてみたい」。 清津峡入口の小出集落に空き家を見つけた。「人から人につながり、この家のリノベーションには本当に様々な人たちが関わってくれ、皆さんほぼ手弁当でした。亡くなっちゃいましたが、棟梁・樋口武さんも病気を推して最後まで『こだわり』で作り続け、この家の随所に見られますよ」。
     『Tani House Itaya』(谷ハウスいたや)。清津峡渓谷の谷、その清流、清津川の脇に立つ。屋根裏まで吹き抜け、黒光りする階段を登ると中二階の廊下から囲炉裏がある居間が見下ろせる。歴史を感じる太い梁に漆喰壁、「ずっと居たくなる空間」がそこにある。
     「昨年の夏、オランダからの家族が1ヵ月滞在し、台湾の家族も1週間居ました。国内からも家族が来て、ここの自然を楽しんでいます」。宿泊は『1棟貸し』。まるごと家を借りられ、我が家のようにリラックスして過ごせる魅力は大きい。
     13歳で家を離れ、自分の興味エネルギーのままに動いてきた。「ふりきった、かなぁ、ですね」。10代からの歩みは相当な振れ幅の時間。まだ振れは続いているようだ。「来年は、ここに居ないかもしれませんねぇ」、冗談の笑顔は、まだエネルギーでいっぱいだ。
    ◆バトンタッチします。
     「神内隆伍さん」

    2024年4月6日号

  • 『街の日常にもっときものを』

    河田 千穂さん(1993年生まれ)

     桜が満開になる4月中旬過ぎに、街をきもので歩くイベントを企画している。「以前、ネットを通じてアンケートをしました。きものについて一番困っていることのトップは、きものを着る機会、場がないという回答でした。きものが好きな方が多い街ですから、もったいないですね」。
     このきものは知人から譲り受けた「小紋」。幼少期から絵を描くことが好きで、大学では服飾関係のテキスタイル・デザインを専攻。「そのままデザイン系に進むと自分では思っていましたが、『るろうに剣心』との出会いで、和の世界観、きものへの関心が増し、思いはさらに増しています」。
     学生時代に刺激を受け、「推し」バンドになった『デッド・オア・アライヴ』のボーカルの世界観に魅かれ、「追っかけでロンドンを何往復もしました」。大学卒後の進路は「路線変更」。すぐに就職せず、都内の料亭でバイトし、推しバンドのライブ日程に合わせロンドンへ。渡り鳥生活を1年余り続ける。「ロンドンでは、日本文化を通じて和の雰囲気をさらに感じ、きものを着ていると、きものを『作品』と見てくれます。これだ、と思いました」。
     きもの関連企業をリサーチし、十日町市の「きものブレイン」でテキスタイルデザイナーとして入社。在社中に地元の十日町服飾専門学校に通い、実務3年以上で受験できる「着付け師」資格を取得。同じ会社でパートナーと出会い退社。きものレンタル『kcda』(クダ)を立ち上げ、成人式の前撮りやきものイベントで着付を担当している。kcdaはKawadaChihoを入れ替えアレンジした。
     好きな「絞り」や「小
    紋」「訪問着」「振袖」など100着ほど持つ。専用クローゼットに三つ折りでハンガーに吊るし保管している。
     「飲み会も多いので、そういう時は周りに気を使わせないようにポリエステルのきもので行きます。タイムスリップできれば、るろうに剣心の時代に行きたいですね」。聖地巡礼で会津若松を何度も訪れている。
     絵も好きで、昨年の十日町きものまつりでは路上ライブ・ペイントを行い、出没で話題になった熊を自分のイメージで描いた。「なかなか描いている時間がないですね」。
     「私は歴史が好きで、バックグラウンドがあるものに魅かれます。歴史と伝統があるきものです。雪まつり、きものまつり、もっとファッションショーに力を入れてもいいのでは。きものを身近なものにしていきたいですね。街なかで日常的にきもの姿が見られれば、もっとすてきな雰囲気の街になるのではないでしょうか」。
    ◆バトンタッチします。
     「廣田伸子さん」

    2024年3月30日号

  • 『この自然、この民度、すごいね』

    河中 登さん(1956年生まれ)

     小高いブナ林から家を訪ねたようにカモシカの足跡が続く。14年ほど家主がいない空き家を十日町市西方(さいほう)に求めて4年。兵庫西宮時代に描いた「北国・雪国くらし」が実現。「このロケーション、風土、民度がいいですね。特に人がいい」。前住人は気象や雪氷の研究者で、こだわりの家を感じさせる造りだ。さらに手を加え、お気に入り空間に仕上げた。
     40年余り大手ドラッグストアに勤務。管理職時代に「北国、雪国に住みたい」と北海道から探し始めた。「関西人にとっては、青森より北海道よりイメージ的に遠い越後・新潟。そこに雪の魅力が加わった」。角部屋の両ガラス窓からブナ林越しに遠方の山並みが見え、突き出しの居間テラス前は雪原。カモシカやキツネの足跡が点々と絵を描く。
     天井まで吹き抜けの居間に響くJAZZ。「物心ついた時からJAZZだった。獣医の親父がずっと聞いていたから、中学高校で日野皓正やコルトレーンなどを聞き、以来ずっと聞いているが、クラシックにもはまってしまった」。名機のターンテーブル、アンプ、スピーカー、さらにレコード、CD数百枚は兵庫から運び、吹き抜け空間は最高の音響を創り出す。
     西宮時代から続けるモノづくり。建築用材や厚いアクリルなど使い「思いついたまま創る。やるぞーと向かうより、ふとした時にイメージがわくね」。藝大に進んだ娘から『オリジナルなブランドを作ったら』と言われ、使いたかった「空」を入れ『我空(がくう)』に。
     オリジナ
    ル創作品を展示販売するギャラリー&カフェ『設亮庵(せつりょうあん)』も西宮時代から。「ここの環境が良すぎて、イメージが湧かなくなっているので、ちょっと自分を痛めつけないと…」。それほど居心地が良い西方だ。
     この地の人たちの「人の良さ」を考えた。「この民度は、縄文人から来ているんじゃないかな。中世以降も農耕を通じてモノゴトをきちっとする勤勉さが根付いているのではと思う。十日町は着物産業で、外からの人を受け入れる素地ができており、それが大地の芸術祭に訪れる人たちを、すんなり受け入れる民度ができて、心地よい感じを出しているんじゃないかな」。
     「それに雪が大手資本を、結果的に入れなかったことも大きい。大手企業は豪雪地には参入しない。それが今のこの地域の良さを出している。人気の清津峡はあれだけ人が入っているので、大手資本が入ってもおかしくないが、大手が入ったらあの雰囲気は壊れてしまうだろうね」。
     地元の西方の米のうまさを実感している。「ここの米はうまいよ。作る人の人柄が出ているね」。美味い清水(しみず)が米を育てている。
    ◆バトンタッチします。
     「河田千穂さん」

    2024年3月23日号

  • 『子ども向け本をもっと』

    会田 法行さん(1972年生まれ)

     「3・11」、13年の時間が流れた。発災から2週間後、被災地に入り車中泊しながら「現実」を撮った。朝日新聞退社後のフリーランス取材。「フクシマ原発事故でその地を追われる人たち。根
    無草の自分には、頭で理解できて
    も、心で分からないこともあった」。目の前の現実を記録。子ども向け本『春を待つ里山—原発事故に揺れるフクシマで』を発刊。『続被爆者70年目の出会い』など多数の著書を出す。
     米国の大学在学中、イ
    ンターン生として地元地方新聞社で研修中、ラスベガスで世界的なボクシング試合を取材。「僕も高校、大学までボクシングをしてたんです」。報道写真記者のスタートは1996年の朝日新聞入社、その後フリーランス。イラクなど紛争地を取材、パレスチナ・ガザにも。この道28年。「カメラの向こうの世界に身を置きたい」と妻で大地の芸術祭作家「蓮池もも」出身の新潟県内に移住先を探し縁あって十日町へ。 
     「大地に根を張るためには、その地に暮らすこと」。松代蓬平の空き家を求め、小学1年の息子と家族3人で暮らす。市の依頼を受けブログ『究極の雪国のくらし』で「ワラ細工」「ツケナ(漬菜)とニーナ(煮菜)」など写真と文で発信。「十日町8年目で、取材を通して客観的に見ることができるようになったかな」。
     8年目の米づくり、早稲田大・大学院政治学研究科ジャーナリズムコースの報道写真講師、取材先で出会った東ティモールのコーヒーがきっかけで自家焙煎し販売、「パレスチナ問題」で今も時々メディアから取材を受ける、などなど様々な顔を持つ。
     蓬平で実現したことがある。「移住してからの日々を毎日発信し、2700日余り続け、息子『あお』の成長記録の中から絵本『おにがくる』を出すことができ、妻ももが作家として大地の芸術祭に出展できた。ここでの暮らしを、子ども向け本としてもっと発信したいですね」
    ◆バトンタッチします。
     「河中登さん」

    2024年3月16日号