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ひとから人からヒトへ一覧

  • 世界の人と通じ合う、そのための英語

    春日 彩音さん(2004年生まれ)

     「こんなことって、あるんですね」。スマホのSNSでその存在を知った外国の方が、なんと、自分がアルバイトしているコンビニ店に現れた。あの人だ、とすぐに話しかけ、とんとんと事が運び、いまそのアーティスト、ウォルフガング・ギルさん主宰の『ホンク・ツイート美術館』で働いている春日彩音さん(19)。高校時代に習得した語学力で、さらなる世界を見ている。

     八箇峠を超えて通った六日町高時代、外国を肌で感じる場面に出会った。
     南魚沼市などが支援する一般社団法人愛・南魚沼みらい塾の『youkeyプロジェクト』1期生に応募。「なにか国際支援の活動をしたいと、ずっと思っていました」。
     この思いは十日町中時代に芽が出た。全中駅伝8位入賞で大きな自信を得た。その自信で次のステップをめざした。十日町市が中学生対象に計画したカナダ留学に応募。内定していながら、コロナ禍の直撃を受け事業は中止。「悔しかったですね。陸上以外で初めて本気で頑張ろうと思ったことだったので、残念で、残念で。でも、外国への思いがより増しました」。

     参加したyoukeyプロジェクトの郊外探求プログラムに入った。活動先の大和・国際大学で南アフリカ出身の女性と出会う、インタビューした。女性は『貧富の差はあるけど、現地の人は彼らなりに幸せに暮らしている。貧しい国と思わず、南アフリカの良い所を伝えて欲しい』と母国への思いを話した。
     自分の先入観を思い直した。「支援というと物資や金銭を送ることだと思っていました。何が支援なのか、その意味が彼女の言葉から分かりました」。
     すぐに動いた。六日町高で独自のアンケートを取った。『アフリカに対するイメージは?』。やはり、だった。「多くがアフリカは貧困、というイメージが多かったです」。南アフリカを通じてアフリカへの理解を深めようと、国際大学やその女性の協力を得て『南アフリカの料理レシピ集』を独自に作成し、国際大学学園祭で配った。当然、会話は英語。「多くの外国の方々と関わって、英語力は格段にアップしたと思います。とにかく英単語を頭に叩き込みましたね」。
     国際大学での活動がさらに視野を広げ、国内の高校生や大学生が参加するサマーキャンプにも参加し、目の前の世界がさらに広がった。

     そして、大学受験。「友だちからは推薦で行けるのにって言われたけど、どうしても行きたい大学があって。その大学に絞り一般受験したんですが…」。難関大を受験したが…。「いま思うと、受験中、自分を追い込みすぎました。この春からバイトを始めています。でも、人と話すのって、本当に楽しくていいなぁと感じています」。
     そんな時にコンビニで出会ったのがギルさん。「美術館をつくる手伝いをしないかって言われ、すぐに行きました。大工さんに通訳をしたり一緒に家具を作ったり、まさか自分も関わるとは思いませんでしたが嬉しかったです。家にいる時間より、ここに居る時間の方が長いです。私のセカンドホームですね」。
     ギルさんとの出会いで、自分の中での変化を感じている。「ずっと外国っていいなって思っていましたが、ギルさんのコミュニティー作りへの思いや取り組みを間近で感じて、とっても素敵だなって。日本も良いなって思い始めています」。
     さらに、「でも、大学
    には行きたいです。視野を広げ人と人の繋がりを増やし、自分を創っていけるようになりたいです」。コミュニケーションの大切さ、人と話すことが自分のメンタルケアになる、そう実感する春日さん。「そうですね、英語は世界の人と思いを通じ合う大切な手段です、私にとっては」。

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     福原久八郎さん

    2024年9月7日号

  • 光から音へ「感じるアート」

    ウォルフガング・ギルさん(1983年生まれ)

     生まれた街は、いつもアートで彩られていた。南米北部ベネズエラの首都カラカス生まれ。原体験の延長に今がある。光で空間をアート展開し、光から音へと進化し、「感じる」アートに取り組むウォルフガング・ギルさん(40)。
     先週の金曜23日、昨年8月から暮らす十日町市下条に『ホンク・ツイート美術館』と『カフェ』を開いた。『音楽彫刻家』と名刺にあるギルさん。ニューヨークから知人を頼り家族3人で移り住んだ。
     「自然とアートが共存している素晴らしい妻有に、すぐに恋に落ち、移住を決めた」。

     カラカスのメトロポリタン大学でシステム工学学士号を取得し、銀行に就職したが6ヵ月で退職。「エンジニアの業務や計算は好きだったが、オフィスの環境が合わなかった」。生まれ育った
    アート環境が、自分の中で動き出すのを感じた。
     光の直進性、その屈折や色の錯綜感に魅かれた。「数学的、理学的で光と色を計算し、アート表現しているカルロス・クルス=ディエスに魅かれ、自分と同じ価値観を感じた」。自宅ガレージで光によるアート実験を重ねながら、この道への思いを強くした。友人から「アーティストになるならニューヨークに行ったほうがいい」と勧められ、25歳で渡米。「家族には語学学校に行って戻ってくると言って、そのまま美術大学院に入ったんだ」。
     この語学学校で運命的な出会い。2008年、学生だった愛里さんと会う。「出会ってすぐ魅かれ合い、2週間後には学校の寮で一緒に暮らし、今に至ります」。「私はやりたいことが多くあり、愛里はいつも側で応援してくれている。愛里は家族であり、友人であり、パートナーであり、そして最大の協力者だよ」。
     ニューヨーク・ブルックリン大学院を卒業後、アートの関心は『音・サウンド』に向かう。「音はそもそも周波数で表され、周波数が高いほど高音に、低いほど低音になるなど数学と深く関わっている」。
     だが、「音は目に見えず、理解してくれる人は少なかった」。問題解決のため『音の形』を追い求め、視覚化に取り組んだ分野が音響彫刻。「音は目に見えなくても空間を満たし、彩を与えたり、分割したり、さまざまな姿を見せてくれるが、金属やガラス、プラスチックなど変容性のある素材を使って作った彫刻を振動させることで、さらに音の変化を楽しむことができ、場所や空間自体を作品にできる」。

     日本へ、妻有へ向かう転機は、愛里さんの妊娠だった。「仕事も安定してきたので、出産のため一緒に日本に一時帰国したんだ。その時、知人に大地の芸術祭を教えてもらって」。昨年2月、妻有初訪問。「ここ妻有の地に、すぐに恋に落ち、移住を決めたよ」。
     今月23日開設の『ホンク・ツイート美術館』。ホンクは車のクラクション、ツイートは鳥のさえずり音を意識し名付けた。「私はニューヨークのコーヒーも好きで、どうしてもそれが飲みたくて、オーストラリアからイタリア製のエスプレッソ・マシンを購入してきた。税関で止められた時はひやひやしたね。ここで、おいしいコーヒーを飲みながらアートや窓から見える自然を楽しんで欲しいね」。
     ギルさんの思いはさらに広がる。「美術館を拠点に、多くの人が集まる場になって欲しい。アー
    トを楽しむバーや音楽を楽しむクラブなどもしたい」、「何かを表現したい人の教育の場も作りたいし、山の中に倉庫を借りてアートスペースをもっと作りたい」と話す。
     さらに、「アートをめざしてきたが、エンジニア大学で学んだ方法論が今も生きている。方法論があるおかげで夢だけで終わらず、叶えるための行動や方向性を導き出している。すべて繋がっているよ。面白い」。

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     春日彩音さん
        
     『ホンク・ツイート美術館』=水曜~日曜午前8時~午後5時開館。十日町市下条4丁目489番地1。今後バー経営も検討している。インスタグラム@thehonktweetcafe

    2024年8月31日号

  • 「戻ってきて良かった。これが実感。家族のおかげ」

    綱 大介さん(1982年生まれ)

     暮らす地を転々と動き、たどり着いたのは生まれた地だった。十日町市下条・上新田の三代続く専業農家を継いだ綱大介さん(42)。結婚17年のパートナーで農業初心者ながら次々とアイデアを創出する優子さん(39)と「ツナファーム」を3年前に立上げ、家族営農で水田10㌶で魚沼産コシヒカリや新之助などを栽培し、20㌃でサツマイモを営農する。「いつかは…と思っていました。決断できたのは妻のおかげですね」。

     高校進学から地元を離れ柏崎市・新潟産業付属高校で学ぶ。卒業後、堀之内で土木業や小千谷市の山田鉄筋で業務をし、ひなの宿ちとせ旅館では仲居業など、多種多様な業務を経験。18年前、高校の友人紹介で柏崎市出身の優子さんと出会う。「出会った頃は突き放されていたので逆に燃えましたね」。大介さんの猛アタックで2007年10月に結婚。ふたりで話し、「ちょっと雪から離れた所で暮らしたい」と静岡・浜松市へ転居。この地で長女を授かり、2年間ほど暮らす。雪のない地での暮らしの中で、「なんとなくなんですが…十日町に帰った方がいいのかなぁ…と思ったんですが…」。次の転居先は十日町を通り越した新潟市だった。その地で電気関係業で働きながら4年ほど暮らす。
     それは、突然やって来た。
     「父の腰の具合が悪いって母から電話がありました。そろそろ帰るか…でしたね。6年間の長い新婚旅行でした」。2014年、生まれた地、下条上新田に帰った。いつかは…と考えていた農業と向き合う日々が始まる。
     やるからにはと、両親の元で農業を学び3年前夫婦で継ぎ「ツナファーム」と名付けた。水稲を主体に魚沼コシヒカリ、新之助などブランド米を手がけ、需要が多いこがねもちも生産。さらにサツマイモなど野菜栽培にも家族で取り組む。
     農業初心者の優子さんの農業への関心の高さが大介さんのやる気を倍増させている。「お米ってこんな風にできているんだと喜び、こんな美味しいお米を食べたのは初めて、と言ってくれて嬉しかったですね」。
     優子さんの新鮮な感度が営農にも大いに役立っている。ツナファームの農産物でネット販売に乗り出し、事業名刺も作成し、交友関係を広げている。「自分だけだったら、これまで通りの農業だったでしょうね。ネット販売など思いつかなかったし、ネット購入の消費者から生の声も聞けて、大きな励みになっています。新しい視点での農業になり、妻には本当に感謝です」。

     家族営農のツナファーム。小学、高校生の娘3人の存在が、新たな交友関係を広げている。「自分が小さい頃に参加していた子ども会キャンプなど、今度は自分が運営する側になって、なんだか不思議な感じですね。地域の大切なつながりになり、地域で子どもたちを育てるという、ありがたみを感じますね」。 下条小でサツマイモや米づくりなどを教え、市内で開設の子ども食堂にもいち早く関わり、米など地元食材を提供している。「子どもが喜んでくれる姿を見ると嬉しくなりますね」。

     雪を嫌って県外に転居したが、いまは雪の恵みを感じている。美味い米、野菜ができるのも雪のおかげと。冬期間はガーラ湯沢に勤務。「あんなに雪が嫌だと思っていたのに、我が子のスキー授業に合わせ、スノーボードを始めました。ボードも買っちゃって、いまでは家族で雪が待ち遠しいくらいです」。さらに「雪のおかげで、美味しいお米もでき、雪があるからこその農業だと感謝しています」。
     暮らす地を転々としながら見つけ出した『ふるさとの良さ』。「戻ってきて良かった、これが実感ですね。妻のおかげ、子どもたちのおかげ、それに家族同然の愛犬まめたのおかげですね」。

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     ウォルフガング・ギル さん

    2024年8月24日号

  • 「大好きなミシンで大好きな犬の服を」

    山田 由美子さん(1967年生まれ)

     「なにがしてやん? っ
    てよく周りから言われるんです」。笑いながら話す『だいにんぐ遊らく』の女将で、『刺しゅうミシン工房8.(エイト・ドット)』を営む山田由美子さん(57)。幼少期、祖母から編み物を教わり、「編み物や手芸は生活の一部。自然と好きになりました。だから高校も家政科のある小千谷西高校を選びました」。
     夏休みには、婦人服のサンプルや芸能人の衣装を外注制作している関東在住の叔父・叔母の元で生地の裁断からミシン縫製で洋服ができる過程を学んだ。「縫うっていいな。芸能人が着るような服を作りたい」と、縫製の道を選んだ。

     「縫製工場の仕事をしながら文化服装学院で洋服を学べる道を選びました。でも工場は流れ作業で面白くなかったんです。やっぱり一から洋服を縫い上げたかった」と退職。洋服サンプル縫製会社に入り、芸能人やファッションショーで着るような服のサンプルを作った。
     「当初は思い通り縫えず怒られてばかりでしたが、作ることが楽しくて、朝から晩までミシンと向き合っていました。アフターファイブなんてなかったです」。
     その頃、同じく十日町市出身で都内で働いていた中学の同級生、山田健一さんと再会し結婚。「子どもを授かった頃、料理人の主人も十日町からオファーがあって、帰りたくなかったけど、いつか東京に戻ってくるぞと思い、十日町に帰ってきました」。工業用ミシンやアイロンと共に帰省。勤めていた会社から外注を受け、「子どもはミシンの音をきいて眠っていましたね。お腹の中にいた時から聞いていたからかな」。しかし、ネット社会になり、外注で仕事をするのが難しく働きに出た。
     健一さんの独立に合わせ由美子さんと共に二人三脚の日々が始まった。「趣味でミシンは触っていましたがオープン当初は忙しくて、子育てややらなきゃいけないことがありすぎてミシンは一度『封印』しました」。
     ミシン『封印』を解いたのはコロナ禍の最中。「コロナで店が暇になり、昼間の時間帯に遊休時間が生まれ自分にできるミシンで何か仕事ができないか」と健一さんに話したが、ミシンで商売することになかなか首を縦に振ってくれなかった。「他ではあまりやってない刺繍を取り入れたらどうだろうって言ったら、縦に振ってくれましたね」。
     刺繡をバッグなどに縫い入れたり、刺繍アクセサリーを作り初めて長岡の大きなイベントに出店。「自信を持って行ったのに、初めての参加でもあって思ったほど手に取ってもらえませんでした。ただ、隣の人が私の作品を見て犬のイベントで出してみたら?って言ってくれたんです」。由美子さんは犬が好きで愛犬『太(うず)』、『雪(ゆき)』がいる。その日の作品にもバッグに犬の刺繍ワッペンなどを施していた。「心折れたけどいいアドバイスがもらえて収穫のある出店でした」。
     その後、犬のイベントに出店。「求めてくれる人が居てリピーターも今
    はできています。直接対面で大好きな犬に触れながら販売できるので嬉しいですね」。さらに「犬服やグッズをイベントで販売。オーダー希望のお客様には名前刺繍や、うちの子ワッペン、セミオーダー服などを受注制作しています」。
     由美子さんは『だいにんぐ遊らく』の女将も務めながら刺繡業やイベント、とおか市にも出店し日々忙しい。「ゆっくり好きな事をして暮らしたいと思っていたのに、逆に忙しくなってしまいました。常に動いていたいんでしょうね。やりたいことがありすぎて何がしてやんって言われます。大きな夢は十日町にないドッグラン&カフェ併設のミシン工房作りかな」。

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     綱大介さん

    2024年8月17日号

  • 「300㌔のトップスピードに魅かれ」

    早川 紅音さん(1999年生まれ)

     「自分でも、こんなにもはまっちゃうとは思いませんでした」。時速300㌔余で疾走するレーシングカー。
     先週4日、静岡・富士スピードウェイでレース観戦した。観戦だけではなく、そのスピード感た
    っぷりのレ
    ースをカメラ撮影する。「良い場所を取るため
    に前日深夜
    に出て、帰
    ったのは日曜深夜でした。あのスピード感と臨場感は、TVや動画で見ても、間近でレースを見ないと実感が湧かないでしょうね」。
     これほどモータースポーツに熱中するきっかけは、ちょっとした後輩との話だった。県立津南中等教育学校・吹奏楽部の後輩たちの演奏会を段十ろうへ聴きに訪れた時だ。「後輩からモータースポーツ観戦の話を聞き、その動画を見せられ、面白そうだと。そこからですね」。
     YouTubeなど視聴する
    なかで、ちょ
    っと気になる
    レーサーを見
    つける。20
    22年5月、その選手の出場レースを観戦するため富士スピードウェイへ。その選手・大湯都史樹(としき)レーサーは同世代の20代。「すごい、最高、このひと言でした。あの音、目の前をトップスピードで疾走する臨場感、もう、とりこになりましたね」。
     その翌年から始めたカメラ撮影。単に走るマシンを撮るだけではない。事前にコースを調べ、ベストショットを狙うためのポジショニングなど下調べは欠かせない。
     レース会場は広く、場所探しはひたすら歩くしかない。ベストスポットを足で探す。「先日の日曜のレースでは、歩いた距離は20㌔ほどになるでしょうか。多い時は40㌔ほど歩きます」。レース観戦とカメラ撮影は体力勝負でもある。だが、それを上回るレースの醍醐味がある。
     類は友を呼ぶの通り、レース好き、レーシングカー好きが集まる。会場やSNSで出会った仲間の同世代7人ほどで共有サイトを設け、撮った写真をSNSにアップ、批評し合っている。「この写真いいねぇ、なんて言ってもらえると嬉しいですね」。同じ場所で撮っても違うショットになる。その奥深さも魅力でまさに『一瞬の傑作』を狙う。 
     「自前のカメラですから、プロのような機材はないので、連射よりベストショットを狙って撮っています」。疾走感を出すためカメラを動かし背景を流す手法や、迫るマシンをアップで撮るなど様々なイメージで狙う。マシンの疾走を求め鈴鹿サーキットや栃木・モビリティリゾートもてぎ、などにも行く。

     激しいモータースポーツは非日常の世界。一方で本職は臨床検査技師。南魚沼市の齋藤記念病院に勤務。小学時代、手塚治虫作品「ブラックジャック」を全巻読み、小学時代に医療系への道を決め、そのまま県立津南中等、北里大学保健衛生専門学院に進み地元医療機関に就いた。「そうですね、仕事とモータースポーツ、このギャップが生活のメリハリ感を創り出しています」。小学4年から取り組む吹奏楽。津南中等でも吹奏楽部。いまは十日町市民吹奏楽団のメンバー。小学生から一貫してテナーサックスを奏でる。12月の市吹50周年記念演奏会に向け練習の日々が続く。

     「目で見て、音を感じ、五感で体感する、これがモータースポーツの醍醐味です。トップスピードで直線を疾走し、コーナリングや追い越しのテクニックなど、そのドライバーの性格が出ます。ここも面白いところですね。この非日常感がたまりませんね」。

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     山田由美子さん

    2024年8月10日号

  • 「音楽の力、助けられています」

    酒井 彩音さん(1996年生まれ)

     『社会に出て、孤独を感じたり、つまずいた時、近くの楽団に足を運んでみなさい。楽器があれば、どこにいても、つながることができるから』。 
    六日町高校3年の時、吹奏楽部の外部講師で指導してくれた魚沼吹奏楽団の指揮者の人が、卒業の時、送り出してくれた言葉だ。「いま、この言葉を実感しています」。

     吹奏楽との出会いは十日町中学入学の時。小学時代に音楽部でクラリネットを演奏していた友だちが、中学で同じ吹奏楽部に入り、「私もクラリネットを…」と同じ楽器を選んだ。当時の部員は50人ほどの大所帯。この年に赴任してきた指導の音楽教諭は厳しかった。
     「とにかく怖かったです。ですから余計なことなど考えず、私たちにとっては恐怖の対象ですから、みんなで団結して頑張ろうと、部活、部活の毎日でした」。そのチームワークが奏功し3年の時、十中は県大会を勝ち抜き、5年ぶりの西関東大会に出場。だが、この県大会では忘れられない思い出がある。
     練習では一度もしたことがないタイプのミスをした。「曲の最初の方でクラリネットパートだけの部分があり、私は音を外してしまいました。明らかに分かるミスです。でもその後、メンバーみんなが何もなかったかのように、普段通りの良い演奏をしてくれました。いまもその時のことは鮮明に覚えています」。練習を通じても初めての痛恨のミスだった。だが結果は西関東出場。「ほんとに忘れられない、あの日、あの時です」。

     高校進学。ここでも出会いが待っていた。進学先を考えていた中3の5月の連休。六日町高校吹奏楽部の定期演奏会があった。聴きに行くと、そこに十中時代の吹奏楽部の先輩の姿が。真っ白なブレザーに蝶ネクタイ姿で、ユーフォニュームを奏でていた。「なんて、かっこいいんだ」、進学先を決める大きな出会いだった。その年の秋には六高・吹奏楽部のクラリネットパートがアンサンブルコンテストで西関東大会出場を決め、「六高」に進学先を決めた。
     「六高に入って、山を越えるとなにかが違う、そんな雰囲気を感じる時もありました」。だが、あの先輩の姿を追いかけ、すぐに吹奏楽部に入る。新たな環境での高校生活は、学業と部活の両立を迫られた。 
     1年の時、練習のし過ぎで腕に炎症を起し、1ヵ月ほど休部。「やめようかとも思いましたが、仲間に救われました」。休部中に県大会があり親が聴きに連れて行ってくれた。その日の夜、部活の友だちから『明日の部活に来なよ』と一本のメール。翌日部活に行くと、いつものように迎え入れてくれ、その1ヵ月後には、西関東大会に仲間たちと出場した。
     転機はさらに来た。2年の冬。メンタル的に「もうやめよう」と思い詰めた時、自分の中で声が聞こえた。『仲間や顧問が悲しむだろうな。辞めたらきっと後悔するだろうなぁ』。いや、人のためにしているんじゃない、自分はどうなんだ? もう一人の自分の声が。『好きでいいんだ、やっぱり好きなんだ』。クラリネットへの自分の素直な気持ちに気がついた。

     20歳の時、十日町市民吹奏楽団に正式入団。高校3年の時から市吹から声がかかり演奏会には参加していた。当時クラリネットは1人、いまでは9人まで増えている。「クラリネットは木管ですから、あったかい、丸い音です。音域が広く、伴奏もメロディーもできます。曲によっていろいろな役割を見せる楽器で、とても奥深いです。自分はクラリネットが好きなんだと、改めて最近感じています」。
     六高の外部講師の言葉が、最近、実感としてよみがえる。「本当にそうだなぁと思います。音楽の力でしょうか、助けられています」。

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     早川紅音さん

    2024年8月3日号

  • 「吹奏楽、生活のメリハリに」

    黒島 有彩さん(2002年生まれ)

     続けていることで、感性が増し、気づきと学びがある。小学4年の時、「なんとなく…なんです」、十日町小の吹奏楽部に入る。この『なんとなく』の出会いが、いま仕事以外の生活時間で、大部分を占めている音楽活動、吹奏楽につながっている。十日町高校3年で入った「十日町市
    民吹奏楽団」、早や7年目に入っている。「今年、創立50周年なんです。12月に記念の定期演奏会があります」。

     小学時代は打楽器・パーカッションを担当したが、中学からトロンボ
    ーンに。「体験で吹いたら音が出たんです。よしっ、これをやろうと、すぐに決めまし
    た」。進んだ十日町高校でも迷わず吹奏
    楽部に入り、部活動優先の高校生活。「そうですね、お正月とお盆くらいしか休まず、高校時代は部活、部活でした。
    3年で部活引退後、市吹に入り、そのままずっと続けています」。
     十日町市民吹奏楽団は1974年、十高吹奏楽部卒業生など有志12人で設立。翌年、十日町市消防音楽隊と合流。以降、同校吹奏楽部卒業生や市外から移住の吹奏楽経験者などが入り、今年50周年を向かえている。12月1日には創立50周年記念定期演奏会をホームグラウンドでもある越後妻有文化ホール・段十ろうで開く。
     その50周年を記念し、プロの作曲家・清水大輔氏に「十日町市民吹奏楽団のテーマ曲」を作曲依頼し、12月の記念定期演奏会で初演する計画だ。
     「6月のサマーコンサートの時、清水先生が来られて私たちの演奏を聞き、お話しなどして、市吹のイメージを感じていただきました。どんな曲になるか、いまから楽しみです」。秋には完成し、12月の記念演奏会に向けて練習を重ねる。
     9月には南魚沼市「さわらびホール」で、首都圏のプロ集団「オフトボーン・カルテット」と一緒に演奏する。市吹トロンボーン奏者7人が共演する。「昨年からご一緒させていただいています。プロの方との演奏はとても刺激になります。音の出し方や演奏スタイル、楽曲の感じ方など、技術も感性も参考になりますし、とても良い刺激になります」。同カルテットの知人が妻有地域の中学音楽教師で、その人の仲介などで実現している共演だ。

     川西と松之山の国保診療所の医療事務が日々の業務。ローテーションで両診療所に勤務する。診療所運営を支える医療事務は細部に渡る業務。市吹の活動は仕事とのリセットにもなっている。「そうですね、全く違う
    分野ですから生活のリセットと共に気分転換にもなっています」。市吹は毎週2回のほか各パート練習を積んでいる。
     「私は高校3年から市吹に入りましたが、親子や兄弟、姉妹、祖父と孫など、高校生から70代まで幅広いメンバーですから、面白く、雰囲気ある吹奏楽になっています。私も姉がクラリネットで入っています」。

     先ずは9月22日、さわらびホールでの「オフトボーン・カルテット」との共演。さらに12月1日の創立50周年定期演奏会。「メンバーの人たちとの練習は楽しいです。目標があると気持ちも入りますし、自分の生活のメリハリにもなっていますね」。

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     酒井彩音さん

    2024年7月27日号

  • 「自分だったらと、患者の立場に立ち」

    山本 陽向子さん(2001年生まれ)

     小さい頃、『かんごしさんになりたいです』と願い事を七夕の短冊に書き、毎年竹に飾っていた。その思いをずっと抱き続け、いまその職にある。 厚生連・柏崎総合医療センターの内科病棟の看護師として日々、病と向き合う患者に寄り添っている。「まだまだ知識、経験、技術が足りていません」。
    看護師として医療現場に立って3年、率直な思いだが、常に前を向いている。
     看護師で助産師も務めた母の姿を、幼少期に「かっこいい」と見つめ、そのまま憧れの対象となり、小学・中学と具体的な目標になり、高校では「この道しかない」と看護学校への進学を早くから決めていた。
     「夜勤の時には母は夜いませんでしたし、大晦日でも仕事に出かけ、災害など発生するとすぐに駆けつけました。そんな日々の母の姿がかっこよかったんです。私がケガをしてもすぐに手当してくれ、かっこよさと共に頼もしく感じました」。
     さらに4歳違いの姉も看護師。自分が進む道の先を、母と姉が前を歩んでおり、その姿が明確な目標として常にあった。いま勤務する医療機関はそれぞれ違うが、共通の看護師として、母と娘という固い絆以上の連帯感でつながっている。
     「母と姉、私の3人だけで旅行に行ったりします。父と兄は留守番です。旅先では仕事の話ばかりです。職場ではなかなか話せない事も、母と姉には気軽に話せて、私のリセットにもなっています」。現在の内科病棟では消化器内科・腎臓内科・血液内科の入院患者を担当。夜勤を含め、1ヵ月単位の勤務ローテーションが組まれている。 
     「自分だったら、自分の家族だったらと思って、いつも患者さんと向き合っています。どうしてほしいのか、退院後、家で過ごす時の事なども考えて、いつも接しています」。
     
     辛い経験も多くしている。「人が亡くなる場面に初めて立ち会った時や、長い入院の中で亡くなってしまった時など、考えてしまうこともあります。先輩や母や姉と話すことで切り替えています。いまは仕事と家に帰った時などオン・オフのスイッチを切り替えています」。
     病で困っている人の一番身近に居る存在でもある看護師。感謝の言葉は大きなエネルギー源になっている。「ありがとうという言葉を頂くと、看護師をしていて良かったと思います。入退院を繰り返す方が『今度も山本さんで良かった』と言っていただくと嬉しくなります。退院される時は、良かったと思うと同時に、家で大丈夫だろうかなどと心配な面もあります。もっともっと経験を積んでいきたいです」。
     この先も見ている。いまの病棟の看護師婦長はガン医療の専門看護師でもあり、見習いたい先輩看護師でもある。さらに各種医療機器を扱う臨床工学技士への道も視野に入れている。「日々の経験を通じて、自分がさらに関心を持て、興味が深まるものを、医療看護の経験を積みながら見つけていきたいです」。

     命と向き合う日々。「ためない」ようにしている。海を見ながら、「ボーとするのが好きなんです」。海が近い柏崎、時々海を見に行く。
     
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     黒島有彩さん

    2024年7月20日号

  • 「多様性という時代を、どう考えるか」

    栁 拓玖さん(2001年生まれ)

     「この先、どうなっていくのか」。自分の中にある率直な心情だ。それは、少子化が進み高齢化がますます進む地に暮らす今であり、人口減少がさらに進むであろう現実であり、人と人が殺し合う世界の動きであり、沸騰していると表現される最近の地球環境である。
     「そんなに大きいことを言っているわけではありませんが、正直、この先、どうなっていくんだという思いです」。

     2000年世代は、社会との関係性で一番刺激を受ける時期にコロナ禍が重なり、将来を見据えた行先の進路変更を余儀なくされたり、対面授業ができず画面越しのオンラインになり、生身の人間同士の付き合いが希薄になった時間を過ごし、いまも影響を受け続けている世代でもある。
     「多様性の時代は、なんでもありの時代でもあり、そうではない時代でもあると思います。あれもこれも多様性という言葉に組み込まれているようにも感じます」。
     その端的な事例が「結婚」という形のあり方への疑問。「家族のあり方そのものが変わってきている気がします。将来は子どもの世話になるから我が子が必要という考えは世代によって違うし、自分たちの世代はそういう考えにはなっていないでしょう。だから結婚という形ではなく、パートナーについても形にこだわらない、いろいろな形があって良いと考えています。それも多様性ということなんでしょうね」。
     さらに大きな要因もある。それは経済的なこと。「結婚は1プラス1は2ですが、その先に子どもが加わると、それが5にも6にでもなります。それほど経済的な面が大きくなっているのが、今ではないでしょうか」。所得格差は、その先の格差を生み出し、まさに「この先、どうなっていくのか」の疑問符はさらに膨らむことになる。

     中学3年間、吹奏楽部でバスクラリネットを担当したが、「女子の強さを思い知ったので、高校では女子がいないサッカーをやりました」。
    世代間というより性差ギャップを思い知った思春期だった。専門学校で調理師資格を取得したが、別の道に進む。いま社会人として働きながら「AI分野への関心が高まっています。もっと専門的なスキルを身に付けていきたい。これからどんな時代になるか、そのためにもAI分野は必要になると思っています」。
     休日は長岡のバッティングセンターなどが入る長岡ドームに友だちと行く。「ストレス発散になりますね」。仲間たちとの時間を大切にする。
     いよいよ大地の芸術祭が13日開幕。「受け入れ側という感覚です。外国からの人たちが増えてきているようですね」。その外国の在り様にも目が向く。「混沌としている世の中で、これからどういう方向に向かっていくのか、誰にも分からない不安があります。それは戦争ばかりではなく、平均気温がどんどん高くなっているなか、まさにこの先、どうなるのか、ですね」。
     さらに「特に人口減少は深刻ですね。結婚の必要性が薄くなり、子どもが生まれない世になれば、ますます人口が減少します。ほんと、この先、どうーなっていくの、ですね」。

    ▼バトンタッチします。
     山本陽向子さん

    2024年7月13日号

  • 「24時間、命と向き合う」

    伊藤 隆汰さん(2000年生まれ)

     勢いを増し燃え盛る火、初めての火災現場で初めての放水…。消防官になり初体験した現場は、想像を超える過酷さだった。「迫る火の勢いと熱さ、これが現場かと、ちょっと恐怖さえ感じました」。あれから5年、十日町地域消防本部消防官として事故や災害、病気など「命」と向き合う現場に出動し救急活動にあたっている。

     「小さい頃から消防自動車や消防官へのあこがれがあり、十日町地域消防が毎年開く『消防ひろば』には必ず行っていました。はしご車にも乗せてもらいました」。そのあこがれが、さらに具体化したのが映画『252生存者あり』。大災害に見舞われた東京を舞台に「生還」と「救出」の消防レスキュー活動を描いた人間ドラマ。「あれを見て、レスキュー隊員になろうと決めました。あとはその目標に向かってまっしぐらでした」。
     保育園時代に乗せてもらった消防はしご車。入署して3年目、消火訓練で消防はしご車バケットに入り高さ25㍍まで上がり、高所訓練を経験。「実は高い所がちょっと苦手でしたので、高いなぁーと感じながらの訓練でした」。だが、いまは経験を積み、高さへの恐怖心はなく、どんな現場にもひるむことなく臨んでいる。
     地域の高齢化、独り暮らし世帯増加などから救急救命の出動が増加するなか、5年の現場経験から「救急救命士」の重要性を感じている。救急車乗車は「救急資格」を取得しなければ乗れない。入署2年目で資格取得した。救急救命士は乗車資格取得後、さらに5年間の救急経験、あるいは2千時間の救急業務経験など一定条件をクリアしないと資格試験に挑戦できない厳しい国家資格だ。それをめざしている。
     「まだ救急業務の経験年数が足りていないので受験できませんが、必ず目標の救急救命士を取得します」。
     十日町地域消防本部では年間3500件余、1日平均10件余の出動があり、年々増加傾向にある。消防官は24時間勤務後、非番(緊急時は出動)、休日という3日間サイクルが勤務体系。まさに体力と気力、精神力が求められる。一方で風邪の発熱、指先を切ったなど全国的に問題視される「不適切利用」も増加要因になっているといわれる。
     体力づくりはランニングだ。非番や休日で走り込む時は30㌔ほど走る。十日町の国道117号を本町からスタート、小千谷境で折返し、そのまま土市・姿まで行き、本町に引き返すルート。30㌔を超える距離を2時間弱で走る。
     2022年10月には初のフルマラソンに挑戦。「金沢マラソンです。大会3ヵ月ほど前に先輩から、俺が出られなくなったので出てみないかと誘われ、やってみるかと出場を決めました」。初出場ながら2時間50分台で走り切った。いまも1日10㌔ほど走っている。高校時代の陸上部活動がいまに通じる。800㍍、1500㍍に取り組み、3年の時は駅伝で県大会入賞を果たしている。

     今年2月、佐渡出身の萌さんと入籍。今春の新潟ハーフマラソンに一緒に出場。「結構、走るんですよ。今度は2人でフルマラソン出場をめざします」。今秋10月、結婚式を挙げる。「そうですね、来年4月の『佐渡ときマラソン』に2人で出場する予定です」。良きパートナーとの出会いは、目標とする「救急救命士」取得へのモチベーションを高めている。
     数々の現場を体験し、命と向き合う日
    々。悲惨な現場、目の前で命が途絶えていく現場、言葉に表せない数々の惨状。消防官、救急隊員の心身の負荷は計り知れない。
     「すぐには切り替えられない場面もありますが、先輩などと話をして貯めないようにしています。私の場合、ランニングがリセットの場になっています。今後、さらに私たちの出動数は増えていくと思いますが、それが私たちの使命ですから」。

    ▼バトンタッチします。
     栁拓玖さん

    2024年7月6日号

  • 世界の人と通じ合う、そのための英語

    春日 彩音さん(2004年生まれ)

     「こんなことって、あるんですね」。スマホのSNSでその存在を知った外国の方が、なんと、自分がアルバイトしているコンビニ店に現れた。あの人だ、とすぐに話しかけ、とんとんと事が運び、いまそのアーティスト、ウォルフガング・ギルさん主宰の『ホンク・ツイート美術館』で働いている春日彩音さん(19)。高校時代に習得した語学力で、さらなる世界を見ている。

     八箇峠を超えて通った六日町高時代、外国を肌で感じる場面に出会った。
     南魚沼市などが支援する一般社団法人愛・南魚沼みらい塾の『youkeyプロジェクト』1期生に応募。「なにか国際支援の活動をしたいと、ずっと思っていました」。
     この思いは十日町中時代に芽が出た。全中駅伝8位入賞で大きな自信を得た。その自信で次のステップをめざした。十日町市が中学生対象に計画したカナダ留学に応募。内定していながら、コロナ禍の直撃を受け事業は中止。「悔しかったですね。陸上以外で初めて本気で頑張ろうと思ったことだったので、残念で、残念で。でも、外国への思いがより増しました」。

     参加したyoukeyプロジェクトの郊外探求プログラムに入った。活動先の大和・国際大学で南アフリカ出身の女性と出会う、インタビューした。女性は『貧富の差はあるけど、現地の人は彼らなりに幸せに暮らしている。貧しい国と思わず、南アフリカの良い所を伝えて欲しい』と母国への思いを話した。
     自分の先入観を思い直した。「支援というと物資や金銭を送ることだと思っていました。何が支援なのか、その意味が彼女の言葉から分かりました」。
     すぐに動いた。六日町高で独自のアンケートを取った。『アフリカに対するイメージは?』。やはり、だった。「多くがアフリカは貧困、というイメージが多かったです」。南アフリカを通じてアフリカへの理解を深めようと、国際大学やその女性の協力を得て『南アフリカの料理レシピ集』を独自に作成し、国際大学学園祭で配った。当然、会話は英語。「多くの外国の方々と関わって、英語力は格段にアップしたと思います。とにかく英単語を頭に叩き込みましたね」。
     国際大学での活動がさらに視野を広げ、国内の高校生や大学生が参加するサマーキャンプにも参加し、目の前の世界がさらに広がった。

     そして、大学受験。「友だちからは推薦で行けるのにって言われたけど、どうしても行きたい大学があって。その大学に絞り一般受験したんですが…」。難関大を受験したが…。「いま思うと、受験中、自分を追い込みすぎました。この春からバイトを始めています。でも、人と話すのって、本当に楽しくていいなぁと感じています」。
     そんな時にコンビニで出会ったのがギルさん。「美術館をつくる手伝いをしないかって言われ、すぐに行きました。大工さんに通訳をしたり一緒に家具を作ったり、まさか自分も関わるとは思いませんでしたが嬉しかったです。家にいる時間より、ここに居る時間の方が長いです。私のセカンドホームですね」。
     ギルさんとの出会いで、自分の中での変化を感じている。「ずっと外国っていいなって思っていましたが、ギルさんのコミュニティー作りへの思いや取り組みを間近で感じて、とっても素敵だなって。日本も良いなって思い始めています」。
     さらに、「でも、大学
    には行きたいです。視野を広げ人と人の繋がりを増やし、自分を創っていけるようになりたいです」。コミュニケーションの大切さ、人と話すことが自分のメンタルケアになる、そう実感する春日さん。「そうですね、英語は世界の人と思いを通じ合う大切な手段です、私にとっては」。

    ▼バトンタッチします
     福原久八郎さん

    2024年9月7日号

  • 光から音へ「感じるアート」

    ウォルフガング・ギルさん(1983年生まれ)

     生まれた街は、いつもアートで彩られていた。南米北部ベネズエラの首都カラカス生まれ。原体験の延長に今がある。光で空間をアート展開し、光から音へと進化し、「感じる」アートに取り組むウォルフガング・ギルさん(40)。
     先週の金曜23日、昨年8月から暮らす十日町市下条に『ホンク・ツイート美術館』と『カフェ』を開いた。『音楽彫刻家』と名刺にあるギルさん。ニューヨークから知人を頼り家族3人で移り住んだ。
     「自然とアートが共存している素晴らしい妻有に、すぐに恋に落ち、移住を決めた」。

     カラカスのメトロポリタン大学でシステム工学学士号を取得し、銀行に就職したが6ヵ月で退職。「エンジニアの業務や計算は好きだったが、オフィスの環境が合わなかった」。生まれ育った
    アート環境が、自分の中で動き出すのを感じた。
     光の直進性、その屈折や色の錯綜感に魅かれた。「数学的、理学的で光と色を計算し、アート表現しているカルロス・クルス=ディエスに魅かれ、自分と同じ価値観を感じた」。自宅ガレージで光によるアート実験を重ねながら、この道への思いを強くした。友人から「アーティストになるならニューヨークに行ったほうがいい」と勧められ、25歳で渡米。「家族には語学学校に行って戻ってくると言って、そのまま美術大学院に入ったんだ」。
     この語学学校で運命的な出会い。2008年、学生だった愛里さんと会う。「出会ってすぐ魅かれ合い、2週間後には学校の寮で一緒に暮らし、今に至ります」。「私はやりたいことが多くあり、愛里はいつも側で応援してくれている。愛里は家族であり、友人であり、パートナーであり、そして最大の協力者だよ」。
     ニューヨーク・ブルックリン大学院を卒業後、アートの関心は『音・サウンド』に向かう。「音はそもそも周波数で表され、周波数が高いほど高音に、低いほど低音になるなど数学と深く関わっている」。
     だが、「音は目に見えず、理解してくれる人は少なかった」。問題解決のため『音の形』を追い求め、視覚化に取り組んだ分野が音響彫刻。「音は目に見えなくても空間を満たし、彩を与えたり、分割したり、さまざまな姿を見せてくれるが、金属やガラス、プラスチックなど変容性のある素材を使って作った彫刻を振動させることで、さらに音の変化を楽しむことができ、場所や空間自体を作品にできる」。

     日本へ、妻有へ向かう転機は、愛里さんの妊娠だった。「仕事も安定してきたので、出産のため一緒に日本に一時帰国したんだ。その時、知人に大地の芸術祭を教えてもらって」。昨年2月、妻有初訪問。「ここ妻有の地に、すぐに恋に落ち、移住を決めたよ」。
     今月23日開設の『ホンク・ツイート美術館』。ホンクは車のクラクション、ツイートは鳥のさえずり音を意識し名付けた。「私はニューヨークのコーヒーも好きで、どうしてもそれが飲みたくて、オーストラリアからイタリア製のエスプレッソ・マシンを購入してきた。税関で止められた時はひやひやしたね。ここで、おいしいコーヒーを飲みながらアートや窓から見える自然を楽しんで欲しいね」。
     ギルさんの思いはさらに広がる。「美術館を拠点に、多くの人が集まる場になって欲しい。アー
    トを楽しむバーや音楽を楽しむクラブなどもしたい」、「何かを表現したい人の教育の場も作りたいし、山の中に倉庫を借りてアートスペースをもっと作りたい」と話す。
     さらに、「アートをめざしてきたが、エンジニア大学で学んだ方法論が今も生きている。方法論があるおかげで夢だけで終わらず、叶えるための行動や方向性を導き出している。すべて繋がっているよ。面白い」。

    ▼バトンタッチします。
     春日彩音さん
        
     『ホンク・ツイート美術館』=水曜~日曜午前8時~午後5時開館。十日町市下条4丁目489番地1。今後バー経営も検討している。インスタグラム@thehonktweetcafe

    2024年8月31日号

  • 「戻ってきて良かった。これが実感。家族のおかげ」

    綱 大介さん(1982年生まれ)

     暮らす地を転々と動き、たどり着いたのは生まれた地だった。十日町市下条・上新田の三代続く専業農家を継いだ綱大介さん(42)。結婚17年のパートナーで農業初心者ながら次々とアイデアを創出する優子さん(39)と「ツナファーム」を3年前に立上げ、家族営農で水田10㌶で魚沼産コシヒカリや新之助などを栽培し、20㌃でサツマイモを営農する。「いつかは…と思っていました。決断できたのは妻のおかげですね」。

     高校進学から地元を離れ柏崎市・新潟産業付属高校で学ぶ。卒業後、堀之内で土木業や小千谷市の山田鉄筋で業務をし、ひなの宿ちとせ旅館では仲居業など、多種多様な業務を経験。18年前、高校の友人紹介で柏崎市出身の優子さんと出会う。「出会った頃は突き放されていたので逆に燃えましたね」。大介さんの猛アタックで2007年10月に結婚。ふたりで話し、「ちょっと雪から離れた所で暮らしたい」と静岡・浜松市へ転居。この地で長女を授かり、2年間ほど暮らす。雪のない地での暮らしの中で、「なんとなくなんですが…十日町に帰った方がいいのかなぁ…と思ったんですが…」。次の転居先は十日町を通り越した新潟市だった。その地で電気関係業で働きながら4年ほど暮らす。
     それは、突然やって来た。
     「父の腰の具合が悪いって母から電話がありました。そろそろ帰るか…でしたね。6年間の長い新婚旅行でした」。2014年、生まれた地、下条上新田に帰った。いつかは…と考えていた農業と向き合う日々が始まる。
     やるからにはと、両親の元で農業を学び3年前夫婦で継ぎ「ツナファーム」と名付けた。水稲を主体に魚沼コシヒカリ、新之助などブランド米を手がけ、需要が多いこがねもちも生産。さらにサツマイモなど野菜栽培にも家族で取り組む。
     農業初心者の優子さんの農業への関心の高さが大介さんのやる気を倍増させている。「お米ってこんな風にできているんだと喜び、こんな美味しいお米を食べたのは初めて、と言ってくれて嬉しかったですね」。
     優子さんの新鮮な感度が営農にも大いに役立っている。ツナファームの農産物でネット販売に乗り出し、事業名刺も作成し、交友関係を広げている。「自分だけだったら、これまで通りの農業だったでしょうね。ネット販売など思いつかなかったし、ネット購入の消費者から生の声も聞けて、大きな励みになっています。新しい視点での農業になり、妻には本当に感謝です」。

     家族営農のツナファーム。小学、高校生の娘3人の存在が、新たな交友関係を広げている。「自分が小さい頃に参加していた子ども会キャンプなど、今度は自分が運営する側になって、なんだか不思議な感じですね。地域の大切なつながりになり、地域で子どもたちを育てるという、ありがたみを感じますね」。 下条小でサツマイモや米づくりなどを教え、市内で開設の子ども食堂にもいち早く関わり、米など地元食材を提供している。「子どもが喜んでくれる姿を見ると嬉しくなりますね」。

     雪を嫌って県外に転居したが、いまは雪の恵みを感じている。美味い米、野菜ができるのも雪のおかげと。冬期間はガーラ湯沢に勤務。「あんなに雪が嫌だと思っていたのに、我が子のスキー授業に合わせ、スノーボードを始めました。ボードも買っちゃって、いまでは家族で雪が待ち遠しいくらいです」。さらに「雪のおかげで、美味しいお米もでき、雪があるからこその農業だと感謝しています」。
     暮らす地を転々としながら見つけ出した『ふるさとの良さ』。「戻ってきて良かった、これが実感ですね。妻のおかげ、子どもたちのおかげ、それに家族同然の愛犬まめたのおかげですね」。

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     ウォルフガング・ギル さん

    2024年8月24日号

  • 「大好きなミシンで大好きな犬の服を」

    山田 由美子さん(1967年生まれ)

     「なにがしてやん? っ
    てよく周りから言われるんです」。笑いながら話す『だいにんぐ遊らく』の女将で、『刺しゅうミシン工房8.(エイト・ドット)』を営む山田由美子さん(57)。幼少期、祖母から編み物を教わり、「編み物や手芸は生活の一部。自然と好きになりました。だから高校も家政科のある小千谷西高校を選びました」。
     夏休みには、婦人服のサンプルや芸能人の衣装を外注制作している関東在住の叔父・叔母の元で生地の裁断からミシン縫製で洋服ができる過程を学んだ。「縫うっていいな。芸能人が着るような服を作りたい」と、縫製の道を選んだ。

     「縫製工場の仕事をしながら文化服装学院で洋服を学べる道を選びました。でも工場は流れ作業で面白くなかったんです。やっぱり一から洋服を縫い上げたかった」と退職。洋服サンプル縫製会社に入り、芸能人やファッションショーで着るような服のサンプルを作った。
     「当初は思い通り縫えず怒られてばかりでしたが、作ることが楽しくて、朝から晩までミシンと向き合っていました。アフターファイブなんてなかったです」。
     その頃、同じく十日町市出身で都内で働いていた中学の同級生、山田健一さんと再会し結婚。「子どもを授かった頃、料理人の主人も十日町からオファーがあって、帰りたくなかったけど、いつか東京に戻ってくるぞと思い、十日町に帰ってきました」。工業用ミシンやアイロンと共に帰省。勤めていた会社から外注を受け、「子どもはミシンの音をきいて眠っていましたね。お腹の中にいた時から聞いていたからかな」。しかし、ネット社会になり、外注で仕事をするのが難しく働きに出た。
     健一さんの独立に合わせ由美子さんと共に二人三脚の日々が始まった。「趣味でミシンは触っていましたがオープン当初は忙しくて、子育てややらなきゃいけないことがありすぎてミシンは一度『封印』しました」。
     ミシン『封印』を解いたのはコロナ禍の最中。「コロナで店が暇になり、昼間の時間帯に遊休時間が生まれ自分にできるミシンで何か仕事ができないか」と健一さんに話したが、ミシンで商売することになかなか首を縦に振ってくれなかった。「他ではあまりやってない刺繍を取り入れたらどうだろうって言ったら、縦に振ってくれましたね」。
     刺繡をバッグなどに縫い入れたり、刺繍アクセサリーを作り初めて長岡の大きなイベントに出店。「自信を持って行ったのに、初めての参加でもあって思ったほど手に取ってもらえませんでした。ただ、隣の人が私の作品を見て犬のイベントで出してみたら?って言ってくれたんです」。由美子さんは犬が好きで愛犬『太(うず)』、『雪(ゆき)』がいる。その日の作品にもバッグに犬の刺繍ワッペンなどを施していた。「心折れたけどいいアドバイスがもらえて収穫のある出店でした」。
     その後、犬のイベントに出店。「求めてくれる人が居てリピーターも今
    はできています。直接対面で大好きな犬に触れながら販売できるので嬉しいですね」。さらに「犬服やグッズをイベントで販売。オーダー希望のお客様には名前刺繍や、うちの子ワッペン、セミオーダー服などを受注制作しています」。
     由美子さんは『だいにんぐ遊らく』の女将も務めながら刺繡業やイベント、とおか市にも出店し日々忙しい。「ゆっくり好きな事をして暮らしたいと思っていたのに、逆に忙しくなってしまいました。常に動いていたいんでしょうね。やりたいことがありすぎて何がしてやんって言われます。大きな夢は十日町にないドッグラン&カフェ併設のミシン工房作りかな」。

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     綱大介さん

    2024年8月17日号

  • 「300㌔のトップスピードに魅かれ」

    早川 紅音さん(1999年生まれ)

     「自分でも、こんなにもはまっちゃうとは思いませんでした」。時速300㌔余で疾走するレーシングカー。
     先週4日、静岡・富士スピードウェイでレース観戦した。観戦だけではなく、そのスピード感た
    っぷりのレ
    ースをカメラ撮影する。「良い場所を取るため
    に前日深夜
    に出て、帰
    ったのは日曜深夜でした。あのスピード感と臨場感は、TVや動画で見ても、間近でレースを見ないと実感が湧かないでしょうね」。
     これほどモータースポーツに熱中するきっかけは、ちょっとした後輩との話だった。県立津南中等教育学校・吹奏楽部の後輩たちの演奏会を段十ろうへ聴きに訪れた時だ。「後輩からモータースポーツ観戦の話を聞き、その動画を見せられ、面白そうだと。そこからですね」。
     YouTubeなど視聴する
    なかで、ちょ
    っと気になる
    レーサーを見
    つける。20
    22年5月、その選手の出場レースを観戦するため富士スピードウェイへ。その選手・大湯都史樹(としき)レーサーは同世代の20代。「すごい、最高、このひと言でした。あの音、目の前をトップスピードで疾走する臨場感、もう、とりこになりましたね」。
     その翌年から始めたカメラ撮影。単に走るマシンを撮るだけではない。事前にコースを調べ、ベストショットを狙うためのポジショニングなど下調べは欠かせない。
     レース会場は広く、場所探しはひたすら歩くしかない。ベストスポットを足で探す。「先日の日曜のレースでは、歩いた距離は20㌔ほどになるでしょうか。多い時は40㌔ほど歩きます」。レース観戦とカメラ撮影は体力勝負でもある。だが、それを上回るレースの醍醐味がある。
     類は友を呼ぶの通り、レース好き、レーシングカー好きが集まる。会場やSNSで出会った仲間の同世代7人ほどで共有サイトを設け、撮った写真をSNSにアップ、批評し合っている。「この写真いいねぇ、なんて言ってもらえると嬉しいですね」。同じ場所で撮っても違うショットになる。その奥深さも魅力でまさに『一瞬の傑作』を狙う。 
     「自前のカメラですから、プロのような機材はないので、連射よりベストショットを狙って撮っています」。疾走感を出すためカメラを動かし背景を流す手法や、迫るマシンをアップで撮るなど様々なイメージで狙う。マシンの疾走を求め鈴鹿サーキットや栃木・モビリティリゾートもてぎ、などにも行く。

     激しいモータースポーツは非日常の世界。一方で本職は臨床検査技師。南魚沼市の齋藤記念病院に勤務。小学時代、手塚治虫作品「ブラックジャック」を全巻読み、小学時代に医療系への道を決め、そのまま県立津南中等、北里大学保健衛生専門学院に進み地元医療機関に就いた。「そうですね、仕事とモータースポーツ、このギャップが生活のメリハリ感を創り出しています」。小学4年から取り組む吹奏楽。津南中等でも吹奏楽部。いまは十日町市民吹奏楽団のメンバー。小学生から一貫してテナーサックスを奏でる。12月の市吹50周年記念演奏会に向け練習の日々が続く。

     「目で見て、音を感じ、五感で体感する、これがモータースポーツの醍醐味です。トップスピードで直線を疾走し、コーナリングや追い越しのテクニックなど、そのドライバーの性格が出ます。ここも面白いところですね。この非日常感がたまりませんね」。

    ▼バトンタッチします。
     山田由美子さん

    2024年8月10日号

  • 「音楽の力、助けられています」

    酒井 彩音さん(1996年生まれ)

     『社会に出て、孤独を感じたり、つまずいた時、近くの楽団に足を運んでみなさい。楽器があれば、どこにいても、つながることができるから』。 
    六日町高校3年の時、吹奏楽部の外部講師で指導してくれた魚沼吹奏楽団の指揮者の人が、卒業の時、送り出してくれた言葉だ。「いま、この言葉を実感しています」。

     吹奏楽との出会いは十日町中学入学の時。小学時代に音楽部でクラリネットを演奏していた友だちが、中学で同じ吹奏楽部に入り、「私もクラリネットを…」と同じ楽器を選んだ。当時の部員は50人ほどの大所帯。この年に赴任してきた指導の音楽教諭は厳しかった。
     「とにかく怖かったです。ですから余計なことなど考えず、私たちにとっては恐怖の対象ですから、みんなで団結して頑張ろうと、部活、部活の毎日でした」。そのチームワークが奏功し3年の時、十中は県大会を勝ち抜き、5年ぶりの西関東大会に出場。だが、この県大会では忘れられない思い出がある。
     練習では一度もしたことがないタイプのミスをした。「曲の最初の方でクラリネットパートだけの部分があり、私は音を外してしまいました。明らかに分かるミスです。でもその後、メンバーみんなが何もなかったかのように、普段通りの良い演奏をしてくれました。いまもその時のことは鮮明に覚えています」。練習を通じても初めての痛恨のミスだった。だが結果は西関東出場。「ほんとに忘れられない、あの日、あの時です」。

     高校進学。ここでも出会いが待っていた。進学先を考えていた中3の5月の連休。六日町高校吹奏楽部の定期演奏会があった。聴きに行くと、そこに十中時代の吹奏楽部の先輩の姿が。真っ白なブレザーに蝶ネクタイ姿で、ユーフォニュームを奏でていた。「なんて、かっこいいんだ」、進学先を決める大きな出会いだった。その年の秋には六高・吹奏楽部のクラリネットパートがアンサンブルコンテストで西関東大会出場を決め、「六高」に進学先を決めた。
     「六高に入って、山を越えるとなにかが違う、そんな雰囲気を感じる時もありました」。だが、あの先輩の姿を追いかけ、すぐに吹奏楽部に入る。新たな環境での高校生活は、学業と部活の両立を迫られた。 
     1年の時、練習のし過ぎで腕に炎症を起し、1ヵ月ほど休部。「やめようかとも思いましたが、仲間に救われました」。休部中に県大会があり親が聴きに連れて行ってくれた。その日の夜、部活の友だちから『明日の部活に来なよ』と一本のメール。翌日部活に行くと、いつものように迎え入れてくれ、その1ヵ月後には、西関東大会に仲間たちと出場した。
     転機はさらに来た。2年の冬。メンタル的に「もうやめよう」と思い詰めた時、自分の中で声が聞こえた。『仲間や顧問が悲しむだろうな。辞めたらきっと後悔するだろうなぁ』。いや、人のためにしているんじゃない、自分はどうなんだ? もう一人の自分の声が。『好きでいいんだ、やっぱり好きなんだ』。クラリネットへの自分の素直な気持ちに気がついた。

     20歳の時、十日町市民吹奏楽団に正式入団。高校3年の時から市吹から声がかかり演奏会には参加していた。当時クラリネットは1人、いまでは9人まで増えている。「クラリネットは木管ですから、あったかい、丸い音です。音域が広く、伴奏もメロディーもできます。曲によっていろいろな役割を見せる楽器で、とても奥深いです。自分はクラリネットが好きなんだと、改めて最近感じています」。
     六高の外部講師の言葉が、最近、実感としてよみがえる。「本当にそうだなぁと思います。音楽の力でしょうか、助けられています」。

    ▼バトンタッチします。
     早川紅音さん

    2024年8月3日号

  • 「吹奏楽、生活のメリハリに」

    黒島 有彩さん(2002年生まれ)

     続けていることで、感性が増し、気づきと学びがある。小学4年の時、「なんとなく…なんです」、十日町小の吹奏楽部に入る。この『なんとなく』の出会いが、いま仕事以外の生活時間で、大部分を占めている音楽活動、吹奏楽につながっている。十日町高校3年で入った「十日町市
    民吹奏楽団」、早や7年目に入っている。「今年、創立50周年なんです。12月に記念の定期演奏会があります」。

     小学時代は打楽器・パーカッションを担当したが、中学からトロンボ
    ーンに。「体験で吹いたら音が出たんです。よしっ、これをやろうと、すぐに決めまし
    た」。進んだ十日町高校でも迷わず吹奏
    楽部に入り、部活動優先の高校生活。「そうですね、お正月とお盆くらいしか休まず、高校時代は部活、部活でした。
    3年で部活引退後、市吹に入り、そのままずっと続けています」。
     十日町市民吹奏楽団は1974年、十高吹奏楽部卒業生など有志12人で設立。翌年、十日町市消防音楽隊と合流。以降、同校吹奏楽部卒業生や市外から移住の吹奏楽経験者などが入り、今年50周年を向かえている。12月1日には創立50周年記念定期演奏会をホームグラウンドでもある越後妻有文化ホール・段十ろうで開く。
     その50周年を記念し、プロの作曲家・清水大輔氏に「十日町市民吹奏楽団のテーマ曲」を作曲依頼し、12月の記念定期演奏会で初演する計画だ。
     「6月のサマーコンサートの時、清水先生が来られて私たちの演奏を聞き、お話しなどして、市吹のイメージを感じていただきました。どんな曲になるか、いまから楽しみです」。秋には完成し、12月の記念演奏会に向けて練習を重ねる。
     9月には南魚沼市「さわらびホール」で、首都圏のプロ集団「オフトボーン・カルテット」と一緒に演奏する。市吹トロンボーン奏者7人が共演する。「昨年からご一緒させていただいています。プロの方との演奏はとても刺激になります。音の出し方や演奏スタイル、楽曲の感じ方など、技術も感性も参考になりますし、とても良い刺激になります」。同カルテットの知人が妻有地域の中学音楽教師で、その人の仲介などで実現している共演だ。

     川西と松之山の国保診療所の医療事務が日々の業務。ローテーションで両診療所に勤務する。診療所運営を支える医療事務は細部に渡る業務。市吹の活動は仕事とのリセットにもなっている。「そうですね、全く違う
    分野ですから生活のリセットと共に気分転換にもなっています」。市吹は毎週2回のほか各パート練習を積んでいる。
     「私は高校3年から市吹に入りましたが、親子や兄弟、姉妹、祖父と孫など、高校生から70代まで幅広いメンバーですから、面白く、雰囲気ある吹奏楽になっています。私も姉がクラリネットで入っています」。

     先ずは9月22日、さわらびホールでの「オフトボーン・カルテット」との共演。さらに12月1日の創立50周年定期演奏会。「メンバーの人たちとの練習は楽しいです。目標があると気持ちも入りますし、自分の生活のメリハリにもなっていますね」。

    ▼バトンタッチします。
     酒井彩音さん

    2024年7月27日号

  • 「自分だったらと、患者の立場に立ち」

    山本 陽向子さん(2001年生まれ)

     小さい頃、『かんごしさんになりたいです』と願い事を七夕の短冊に書き、毎年竹に飾っていた。その思いをずっと抱き続け、いまその職にある。 厚生連・柏崎総合医療センターの内科病棟の看護師として日々、病と向き合う患者に寄り添っている。「まだまだ知識、経験、技術が足りていません」。
    看護師として医療現場に立って3年、率直な思いだが、常に前を向いている。
     看護師で助産師も務めた母の姿を、幼少期に「かっこいい」と見つめ、そのまま憧れの対象となり、小学・中学と具体的な目標になり、高校では「この道しかない」と看護学校への進学を早くから決めていた。
     「夜勤の時には母は夜いませんでしたし、大晦日でも仕事に出かけ、災害など発生するとすぐに駆けつけました。そんな日々の母の姿がかっこよかったんです。私がケガをしてもすぐに手当してくれ、かっこよさと共に頼もしく感じました」。
     さらに4歳違いの姉も看護師。自分が進む道の先を、母と姉が前を歩んでおり、その姿が明確な目標として常にあった。いま勤務する医療機関はそれぞれ違うが、共通の看護師として、母と娘という固い絆以上の連帯感でつながっている。
     「母と姉、私の3人だけで旅行に行ったりします。父と兄は留守番です。旅先では仕事の話ばかりです。職場ではなかなか話せない事も、母と姉には気軽に話せて、私のリセットにもなっています」。現在の内科病棟では消化器内科・腎臓内科・血液内科の入院患者を担当。夜勤を含め、1ヵ月単位の勤務ローテーションが組まれている。 
     「自分だったら、自分の家族だったらと思って、いつも患者さんと向き合っています。どうしてほしいのか、退院後、家で過ごす時の事なども考えて、いつも接しています」。
     
     辛い経験も多くしている。「人が亡くなる場面に初めて立ち会った時や、長い入院の中で亡くなってしまった時など、考えてしまうこともあります。先輩や母や姉と話すことで切り替えています。いまは仕事と家に帰った時などオン・オフのスイッチを切り替えています」。
     病で困っている人の一番身近に居る存在でもある看護師。感謝の言葉は大きなエネルギー源になっている。「ありがとうという言葉を頂くと、看護師をしていて良かったと思います。入退院を繰り返す方が『今度も山本さんで良かった』と言っていただくと嬉しくなります。退院される時は、良かったと思うと同時に、家で大丈夫だろうかなどと心配な面もあります。もっともっと経験を積んでいきたいです」。
     この先も見ている。いまの病棟の看護師婦長はガン医療の専門看護師でもあり、見習いたい先輩看護師でもある。さらに各種医療機器を扱う臨床工学技士への道も視野に入れている。「日々の経験を通じて、自分がさらに関心を持て、興味が深まるものを、医療看護の経験を積みながら見つけていきたいです」。

     命と向き合う日々。「ためない」ようにしている。海を見ながら、「ボーとするのが好きなんです」。海が近い柏崎、時々海を見に行く。
     
    ▼バトンタッチします。
     黒島有彩さん

    2024年7月20日号

  • 「多様性という時代を、どう考えるか」

    栁 拓玖さん(2001年生まれ)

     「この先、どうなっていくのか」。自分の中にある率直な心情だ。それは、少子化が進み高齢化がますます進む地に暮らす今であり、人口減少がさらに進むであろう現実であり、人と人が殺し合う世界の動きであり、沸騰していると表現される最近の地球環境である。
     「そんなに大きいことを言っているわけではありませんが、正直、この先、どうなっていくんだという思いです」。

     2000年世代は、社会との関係性で一番刺激を受ける時期にコロナ禍が重なり、将来を見据えた行先の進路変更を余儀なくされたり、対面授業ができず画面越しのオンラインになり、生身の人間同士の付き合いが希薄になった時間を過ごし、いまも影響を受け続けている世代でもある。
     「多様性の時代は、なんでもありの時代でもあり、そうではない時代でもあると思います。あれもこれも多様性という言葉に組み込まれているようにも感じます」。
     その端的な事例が「結婚」という形のあり方への疑問。「家族のあり方そのものが変わってきている気がします。将来は子どもの世話になるから我が子が必要という考えは世代によって違うし、自分たちの世代はそういう考えにはなっていないでしょう。だから結婚という形ではなく、パートナーについても形にこだわらない、いろいろな形があって良いと考えています。それも多様性ということなんでしょうね」。
     さらに大きな要因もある。それは経済的なこと。「結婚は1プラス1は2ですが、その先に子どもが加わると、それが5にも6にでもなります。それほど経済的な面が大きくなっているのが、今ではないでしょうか」。所得格差は、その先の格差を生み出し、まさに「この先、どうなっていくのか」の疑問符はさらに膨らむことになる。

     中学3年間、吹奏楽部でバスクラリネットを担当したが、「女子の強さを思い知ったので、高校では女子がいないサッカーをやりました」。
    世代間というより性差ギャップを思い知った思春期だった。専門学校で調理師資格を取得したが、別の道に進む。いま社会人として働きながら「AI分野への関心が高まっています。もっと専門的なスキルを身に付けていきたい。これからどんな時代になるか、そのためにもAI分野は必要になると思っています」。
     休日は長岡のバッティングセンターなどが入る長岡ドームに友だちと行く。「ストレス発散になりますね」。仲間たちとの時間を大切にする。
     いよいよ大地の芸術祭が13日開幕。「受け入れ側という感覚です。外国からの人たちが増えてきているようですね」。その外国の在り様にも目が向く。「混沌としている世の中で、これからどういう方向に向かっていくのか、誰にも分からない不安があります。それは戦争ばかりではなく、平均気温がどんどん高くなっているなか、まさにこの先、どうなるのか、ですね」。
     さらに「特に人口減少は深刻ですね。結婚の必要性が薄くなり、子どもが生まれない世になれば、ますます人口が減少します。ほんと、この先、どうーなっていくの、ですね」。

    ▼バトンタッチします。
     山本陽向子さん

    2024年7月13日号

  • 「24時間、命と向き合う」

    伊藤 隆汰さん(2000年生まれ)

     勢いを増し燃え盛る火、初めての火災現場で初めての放水…。消防官になり初体験した現場は、想像を超える過酷さだった。「迫る火の勢いと熱さ、これが現場かと、ちょっと恐怖さえ感じました」。あれから5年、十日町地域消防本部消防官として事故や災害、病気など「命」と向き合う現場に出動し救急活動にあたっている。

     「小さい頃から消防自動車や消防官へのあこがれがあり、十日町地域消防が毎年開く『消防ひろば』には必ず行っていました。はしご車にも乗せてもらいました」。そのあこがれが、さらに具体化したのが映画『252生存者あり』。大災害に見舞われた東京を舞台に「生還」と「救出」の消防レスキュー活動を描いた人間ドラマ。「あれを見て、レスキュー隊員になろうと決めました。あとはその目標に向かってまっしぐらでした」。
     保育園時代に乗せてもらった消防はしご車。入署して3年目、消火訓練で消防はしご車バケットに入り高さ25㍍まで上がり、高所訓練を経験。「実は高い所がちょっと苦手でしたので、高いなぁーと感じながらの訓練でした」。だが、いまは経験を積み、高さへの恐怖心はなく、どんな現場にもひるむことなく臨んでいる。
     地域の高齢化、独り暮らし世帯増加などから救急救命の出動が増加するなか、5年の現場経験から「救急救命士」の重要性を感じている。救急車乗車は「救急資格」を取得しなければ乗れない。入署2年目で資格取得した。救急救命士は乗車資格取得後、さらに5年間の救急経験、あるいは2千時間の救急業務経験など一定条件をクリアしないと資格試験に挑戦できない厳しい国家資格だ。それをめざしている。
     「まだ救急業務の経験年数が足りていないので受験できませんが、必ず目標の救急救命士を取得します」。
     十日町地域消防本部では年間3500件余、1日平均10件余の出動があり、年々増加傾向にある。消防官は24時間勤務後、非番(緊急時は出動)、休日という3日間サイクルが勤務体系。まさに体力と気力、精神力が求められる。一方で風邪の発熱、指先を切ったなど全国的に問題視される「不適切利用」も増加要因になっているといわれる。
     体力づくりはランニングだ。非番や休日で走り込む時は30㌔ほど走る。十日町の国道117号を本町からスタート、小千谷境で折返し、そのまま土市・姿まで行き、本町に引き返すルート。30㌔を超える距離を2時間弱で走る。
     2022年10月には初のフルマラソンに挑戦。「金沢マラソンです。大会3ヵ月ほど前に先輩から、俺が出られなくなったので出てみないかと誘われ、やってみるかと出場を決めました」。初出場ながら2時間50分台で走り切った。いまも1日10㌔ほど走っている。高校時代の陸上部活動がいまに通じる。800㍍、1500㍍に取り組み、3年の時は駅伝で県大会入賞を果たしている。

     今年2月、佐渡出身の萌さんと入籍。今春の新潟ハーフマラソンに一緒に出場。「結構、走るんですよ。今度は2人でフルマラソン出場をめざします」。今秋10月、結婚式を挙げる。「そうですね、来年4月の『佐渡ときマラソン』に2人で出場する予定です」。良きパートナーとの出会いは、目標とする「救急救命士」取得へのモチベーションを高めている。
     数々の現場を体験し、命と向き合う日
    々。悲惨な現場、目の前で命が途絶えていく現場、言葉に表せない数々の惨状。消防官、救急隊員の心身の負荷は計り知れない。
     「すぐには切り替えられない場面もありますが、先輩などと話をして貯めないようにしています。私の場合、ランニングがリセットの場になっています。今後、さらに私たちの出動数は増えていくと思いますが、それが私たちの使命ですから」。

    ▼バトンタッチします。
     栁拓玖さん

    2024年7月6日号