これまでの人生の歩みの節目、節目に人との出会いがあり、声掛けがあり、事態が良い方向に流れた。20代の時。特に信仰心が強かったわけではなかったが、友人に誘われて行ったある宗教の集会。
2025年1月18日号
昆布巻き、煮豆…伝統の郷土食を受け継いでいる。「お料理するお母さんの横で、見て味わって習ってきました。私の得意分野も取り入れ、品揃えが増えています」。義母・ヨキさんは1931生まれながら、手作り品を次々と生み出し、お店に並べ、次代につないでいる。「クリスマスには自家製タレに漬け、ローストしたチキンを毎年40本ほど用意し、お客様に喜んでもらっています」。
東京世田谷生まれ。手細工が好きな子だった。「バック作りとかお料理とか、何かしら手を動かして作るのが好きでした」。世田谷・東横学園卒後、服飾関連の『エス モードジャポン東京校』に進学。「父方の母、祖母は和装助士でした。その影響が大きいかもしれません」。
服飾のパターンやデザインを総合的に学び、日々の課題に取り組む。「スタイル画やデザインを描き、縫物は持ち帰り、気が付くとスズメが鳴き始めて朝だっーって。大変だ
ったけど楽しかったですね」。
卒業後はアパレルメーカー・NICOLEに専門職・パタンナーアシスタントで入社、21歳だった。「1枚の布に服の型紙をパズルみたいにはめて印刷していく仕事で、ペアでの業務でしたが次第に息があって楽しかったですよ」。印刷の生地を裁断しボディーにピンを止め洋服に仕立てるよう調整していく。「生地を合わせるために多くのピンを使うので、ボディーの下はピンだらけで、後の片付けが大変でした」と笑う。
上司のパタンナーの紹介でスタイリスト・アシスタントに転職。その頃、専門学校時代から付き合っていた十日町市出身の亨さんと結婚、25歳。「アシスタントは体力勝負でしたね、ショップにプレス用の洋服を取りに行って、また返して、コレクション前は泊まりで仕事して、まるで合宿みたいで楽しかったなぁ」。
33歳の時、長女出産。「娘が7ヵ月の時でした。自然の中で子育てしたいと夫が話し、私もそう思い、十日町に来ました」。
時々来訪していた十日町、「移り住んだのは11月でした。雪が降る前で、雪国生活は初めてでしたが、子どもと雪遊びしながら冬を乗り越えましたね」。
春を迎え、出会いがあった。「娘と散歩していたら、同じくらいの子を抱っこしている方と会い、話すと同じ11月に長岡から引っ越してきた方で、近所に住んでいると知りました」。ママ友同士、話題には事欠かない。「もう子どもたちは成人しましたが、その方とは今も仲良くしてもらっています」。
長男出産後、夫の実家の商店の手伝いを始める。お客さん対応では方言に困ったことも。「お母さんや地域の人が教えてくれました。着物も十日町に住まなかったら着る機会はなかったかも、ですね」。娘の入学式に着物をと相談すると、多くの人が世話してくれた。「着付は出会ったママ友のお母さんでしたが、本当に地域の皆さんが優しくて、支えて頂きながらここまで来ています」。
服飾の経験から洋服直し『GOOD REPAIRS(グッド リペアーズ)』を始め、口コミで広がっている。「直し技術をもっと深めたいです。主人やお客様が色々なアイディアを出してくれるので、意見を参考にしながら取り組んでいます。人と人のつながりが幸せを運んでくれていると感じ、本当にありがたいです」。
▼バトンタッチします
太田留美さん
2024年12月21日号
芸は身を助く、それを実感する日々だ。観光ツアーの添乗員歴33年。全都道府県、25ヵ国の国を飛び回り、バス旅行ではツアー参加者の年代に合った歌を車中で披露し、旅行の雰囲気を盛り上げる。「人を楽しませたい」、その思いを込め、今日も旅先まで添乗している。
父は民謡大会に出場、母は台所で家事をしながら演歌を口ずさむ姿を、幼い頃からいつも見てきた。「唄好きの血が私にも流れているのかなぁと思います」。中学は剣道、高校では野球に取り組む。一方で井上陽水のモノマネなど歌の上手さが評判を呼んだ。野球部では「先輩のフォームのモノマネすると、みんなが大笑いしました。でも、マネはうまいのに何で野球はうまくならねぇーんだ、なんて言われていましたね」。
野球に打ち込んだ高校時代、卒業後の進路で親とぶつかった。「どうしても東京へ行きたかった」自分。長男を置いておきたい両親は猛反対。最後は「好きにしろっと言われ、学費を自分で稼ぐため新聞奨学生となり、都内の旅行専門学校へ進みました」。
初めての東京はカルチャーショックの連続。一方で新聞販売所の寮生活は想像以上にハードだった。「朝2時に起きて新聞配達。朝食後、学校へ。寮に帰り夕食後は夜9時まで新聞勧誘という毎日。年間9日くらいしか休みが無かったですね」。このハードの生活を野球部で培った根性で立ち向かい、学校の勉強にも集中。まさに螢雪の功だった。「頑張った分、学校の成績は良かったですよ」。この新聞販売所で1年間、頑張った。
翌年には別の新聞販売所へ転職。再び寮生活。週休2日、読者勧誘はなく自分の時間ができた。「自分の甘さが出ましたね。学校の成績がガタ落ち、時間が無いは言い訳だなと実感しました。今も教訓にしています」。専門学校卒業後はアメリカ行きを思ったが、専門学校の同級生の誘いで都内の旅行会社に就職。会社勤務の疲れをいやす居酒屋で、伴侶「ひろみ」さんと出会い結婚。20歳の時だった。
国内外の添乗員経験を5年積み、国家資格を取得。しかし、さらに自分への課題を課した。「もっと自分を成長させたい」と転職。夜の飲食店、さらに体を動かしたいと佐川急便なども。だが、わが子の誕生で人生観を見直した。28歳の時。「様々な仕事を経験し、我が子は自然の中で育てたいと、生まれたふるさとに帰りました」。今は5人の子の父であり、9人の孫のおじいちゃんである。
再び旅行添乗員の業務に戻り、越後交通で13年ほど働く。業務経験を積むと業務管理のポストに。「お客さんの喜ぶ顔を間近で見たい」と南魚沼市・昭和観光へ転職。バス旅行で添乗すると評判を知っている方々から歌のリクエストがある。楽曲は年代に合わせるためレパートリーを増やしている。「三橋美智也さんの曲などお客さんに喜んでもらうことが、私も嬉しいですね」。企業の社員旅行では若い年代のリズム感ある楽曲も披露する。
そんな時、声が掛かった。十日町市でNHKのど自慢大会の開催が決まり、出てみればと。「話のタネになるかなぁーと思って」、さっそく応募。会場は中里アリーナ。7百人の応募から書類選考で250人に絞り、本選出場は20人、その中に選ばれた。「ゲストは細川たかしさんでした。難しい『望郷じょんがら』を歌ってアピールし、チャンピオン授賞でした」。
出場後、各地の祭りやイベントへの出場依頼が舞い込んだ。だが、「人前で歌う自分の歌声を録音して聞いてみたら、自分はまだまだだなって」。ここからさらに自分を磨いた。「毎日の車での通勤時間や一人カラオケで7時間くらい練習。まだまだ納得できる歌になっていませんよ。お客さんが喜んでくれる顔を、いつも思い描いて練習しています」。
今日も旅に添乗している。「リクエストがあれば、歌います。あくまでも楽しい旅のお手伝いですから。お客様の笑顔が第一です」。
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岡村さやかさん
2024年12月14日号
恩師との出会いが、その後の生き方に大きく影響している。松之山小4年生の時、担任だった当時20歳代の合志淳教諭と出会った。「それまでは、学校って勉強して、いい点とって…っていう場所だと思っていたんですが…」、合志先生の言葉は違った。 『頭で覚える勉強も大事だが、楽しく、心で覚えることを学べ』。その場面はいまもはっきり憶えている。「その時からです、なんでも楽しく、辛いことでも、何事も前向きに考えるようになっていきました」。
いつも子どもたちと一緒に動き、一緒に考える恩師だった。「合志先生は、初雪が降ったら、外行くぞーって1限目から雪遊びに出て、そのまま授業時間が終わったりと。でも、いけないことをしたら凄く叱られましたが、いたずら程度では怒られたことはなかったです。人間味にあふれ、熱くて、皆が先生のことが大好きでした」。
生まれは東京・府中市。1987年、幼稚園年長の時、父の実家がある松之山に家族で移り住んだ。「あまり覚えていないんですが、保育園入ったばかりの時、『声かけたのに、こっち来るなって叩かれた』って、同級生に今でも言われます」と笑う。そこは子ども同士、すぐに地域にも仲間にも溶け込み、小中は陸上やアルペンスキーに取り組む。「練習はきつかったんですが、まぁ何とかなるか、でした。それに友だちや先輩たちが居たから続けられましたね」。さらに「教室でものまね大会を開いたりと、毎日が楽しかったです。調子に乗りすぎちゃうこともあるんですが、仲間たちがよく助けてくれてますね」。
松代高校へ進む。「進路に迷った時、友だちが持っていた進路パンフにビビビっときたんです」。4歳下の妹、8歳下の従弟の面倒を見ていたことから、「子どもが好きだなって思って」。長岡・北陸学園保育科に進学。「当時、保育士をめざす男子は少なく、女性80人に男性15人位でした。その分、男たちの団結力はすごかったですよ。いまでも仲良しです」。学園祭でのライブで影響を受け、「同級生でバンド作るかって。私はエレキギターを選び、毎日皆で練習、週5日は飲み会してました。楽しかったなぁー」。
保育士初任地は十日町市の私立保育園。学園時、出会いがあり結婚、4人の子たちのパパだ。「園でも家でも、子どもたちに遊んでもらってました。子どもの発想って本当に面白いですね」。ちょっと先を考え16年前、松之山・不老閣に転職。「保育士から介護の仕事、最初は戸惑いもありましたが、入所者さんから『いい男だ、いい男だー』なんて、おだてられて、毎日楽しく業務しています」。
学生時代からのバンド活動も続け、松之山出身の後輩と2人組デュオ『二つ星』を結成し、作詞作曲にも挑戦。十日町雪まつりや各所のイベントなどに出演した。バンドやデュオ解散後も歌への情熱は変らなかった。その時、『NHKのど自慢大会』出場のチャンスをつかんだ。「会場は中里アリーナでした。多くの皆さんの前で歌えたこと、最高の経験でした。結婚10周年だったので、妻への感謝を込め吉田山田の『日々』を歌いました」。
のど自慢出場で感じたのは、「出場された方々の歌のうまいこと。うまい人って、こういう人たちのことなんだって感じたんです」、感情の込め方、歌に強弱をつけるなど意識し練習している。のど自慢出場者との交流がいまも続く。「みんなで定期的に集まりカラオケで練習したり、良い刺激になっています。私にとって歌はなくてはならないものです」。
小学4年で出会った恩師、合志先生は今年3月、定年退職を迎えた。「同級生で、合志先生を囲む会を開き、皆で集まろうかって話しています。伝えたいことがいっぱいあるし、話したいことがいっぱいありますから」。
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小宮山英樹さん
2024年12月7日号
没頭すると寝食を忘れてのめり込む。「30代の初めまでは音楽に没頭していました。集中すると止まらなくなるので、家族ができてから、音楽は封印しています」。
31歳の時、同じ職場が縁で出会った里花さんと結婚。「娘が1歳にな
った時、自然の中で子育てをしたいという妻の希望で、松代に引っ越しました」。2015年、加茂市から家族3人で移住。妻の両親と二世代で暮らす。
生まれも育ちも加茂市。「加茂小、加茂中、加茂高、でしたねー」。8歳上の兄、6歳上に姉がいる。「兄がバンド活動でエレキギターをやっていて、触らせてもったのがきっかけです」。
兄への憧れからエレキギターを初め、独自でテクニックを研究、のめり込んだ。「末っ子だったので、兄や姉の後を追う引っ付き虫でしたね。だから引っ込み思案だった。でもギターは、やりたいと自分で始めたものです」。
高校時代は授業が終わると家へ直行。同級生4人と毎日ギター練習。「兄がボーカル担当でライブハウスで演奏もしました。あの頃はグレイが流行っていて、毎日練習し18曲くらいを2時間通して演奏してましたね。今思うと、よく怒られなかったなぁーと思います」。
県内大学へ進学、新潟市内就職後も大学時代のバンド仲間とライブハウスで定期的に演奏し、ソロ活動では作詞作曲にも挑戦。さらに音楽を深めていった。「仕事が終わって、家に帰ってすぐ音楽制作。朝まで寝ないで没頭し、そのまま仕事へ行くとか、夢中でしたね」。
ギターテクニックを磨きたいと様々な音楽動画など見て学んだ。腕を見込まれ、「県内ソロシンガーのバックでギターを弾いたこともあります」。ソロ活動でCDを出したことも。「今でも楽曲の1つがカラオケに登録されています」。
新潟市で働いていた頃、職場で出会いがあり結婚を決意。「音楽はスパッと辞めました。家族に全集中です。いま思うと、あの頃は音楽に没頭しすぎていて、何歳の時に何してたっけ?って、時系列がぐちゃぐちゃです」。
小学3年、5年の娘と年少の息子の3人の父。「加茂市と違って雪は多いですが、地域の皆さんはとっても優しいですね」。松之山・松涛園に勤務。「介護職は大変なイメージもあり、初めは実家の親にも反対されたんです。でも、仕事をしなくてはいけないし、そんなことも言ってられなかったですね」。
4年余の実務を経て介護福祉士資格を取得。9年目に知人の紹介で不老閣へ転職。「タイミングでした。大変なことも楽しいことも勿論あります。ただ、関わったお年寄りの方がリハビリで機能向上すると嬉しく思いますね。どうしたら機能が上がるかを考え、突き詰めるのが好きなんでしょうか」。
音楽は封印しているが、新しく手にしたものがある。「家族。それと、家族の歴史を記録するカメラですね」。義母がキャノンを持っていた。シャッターを押すといい音が響く。「あの感触、カメラっていいなって。家族貢献にもなりますし」。
現在の愛器はニコンD780。「今までいろいろなカメラを更新してきましたが、D780はフルサイズだから室内に強く、子どもたちの何気ないしぐさやイベントに役立ちます。カメラの趣味をさせてもらって感謝です」。撮影した写真は家では勿論、子どもや愛猫の写真は職場にも飾られ入所者に喜ばれている。
「我が子が生まれ、人生がガラッと変わりました。音楽にのめり込んだことは、自分の糧でもありますし、音楽があったから自分の自信にもなっています。日々成長する子どもたち、その姿をカメラで撮る、楽しいですねぇ」。
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田邉孝一さん
2024年11月30日号
静かな佇(たたず)まい、だが秘める思いは熱い。マイクを握ると心のスイッチが入り、思いの丈が熱唱になる。「いやぁー、小っちゃい頃から口下手で」。ふたりの姉に抑えられていた。「7つ上と5つ上の姉ふたりです。いたずらすると『なおゆきー』って叱られていたので、だんだん無口になっていきましたね」。
松代中時代、野球部と駅伝部を兼任、自分と向き合い、自分を鍛えた。「でも、高校では帰宅部で、バイクを乗り回して、よくドライブして楽しんでいました」。卒業後の進路に悩んだ。「親元から一度は離れてみたくて、神奈川県内で就職を決め、上京しました」。
社員寮がある電気工事会社へ就職。「朝早く5時に出て、帰りは夜10時。体力的にも精神的にもしんどかったですね」。休日はひたすら寝て休むだけ。子ども時代怖かった次姉が良き相談相手に。「姉が都内に住んでいたので、遊びに行っていました」。姉弟の絆は固い。
淡々と時間が過ぎる毎日に疑問を抱く。1年半頑張ったが退職。都内の古本屋でアルバイト生活。その時だった。「バイト先の先輩から、バンド組むから一緒にやらない? って声を掛けてもらったんです」。バイト仲間とよく行ったカラオケ店。結成バンドでは声の良さをかわれ、ボーカル担当に。「男に魂って書いて、メンソールという屋号でした」。
都内のスタジオを借り、週1回の練習。「楽曲はギター担当の方の自作です。先輩はグリーン・デイが好きなので、そのような曲調ですね」。3ヵ月に一度ライブハウスで演奏。「観客は皆知り合いばかりでしたが、人前で歌うのは最高に気持ち良いです。口下手で人前で話すのは苦手ですが、歌だと気持ちを乗せ歌えるんです」。
4年余り活動し、それぞれ思い思いの進路があり解散。電気店で2年余り勤務したが、「やりたいことも無いし、帰ろうかなぁ思い、地元に戻りました」。26歳の時。そんな時、またまた声が掛かった。「松代の地元バンドづくりに誘われたんです」。同級生4人バンド『CANBALL8』を結成。ボーカルを担当。松代観音祭、松代町商工会関係イベントなどで演奏。「やっぱりライブで歌うのは、本当に気持ちがいいですね」。
職探しでも出会いが。「人と関わる仕事が良いなと思って」、松之山の介護施設・介護助手で働き始める。「全く初めての仕事で、覚えるまで大変でしたが先輩方に優しく指導していただきました」。勤めて3年目で介護福祉士の資格を取得。さらに声が掛かった。30歳で地元介護施設に転職。「来ないか? って声掛けを頂き、地元貢献できると思い転職しました。介護職は大変ですが、おじいちゃん、おばあちゃんの話を聞くのは楽しいですね」。
円(まどか)さんとは友だちの紹介で出会った。29歳で結婚。小学4、3年と4歳、3人娘に囲まれる。「パパ、パパって呼んでくれるのが嬉しいし、可愛くて仕方ないですね。でも歌の練習をしていると、うるさーいって言われるので、車を走らせながら発声練習していますよ」。
声量と声質を保つには日々の発声が大切。その練習方法も自分で編み出している。
最近、自作の曲、詞にも挑戦。「家族への想いです。妻や子へ思いを込め、作っています」。
ベイビー ありがとう
ありったけの愛をくれて ベイビー 感謝してる
私のすべてなんだ
最近の作詞の一節だ。
「楽しいことは何歳になっても共有できるので、仲間と音楽に関わり続けたいですね。各地のバンドとも仲間の輪を広げ、地域を盛り上げたいです。一緒にやりませんか?」。
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深井裕司さん
2024年11月23日号
音楽、物作り、自分の手から生み出す感覚が心地いい。「音楽は、なんだかんだずっと続けられていて、不思議です」。父の部屋にあったフォークギター。いつも何気なく見ていただけだった。松代
中学2年生の時、「なんとなーく、フォ
ークギターに触れてみたら音が出て。そこからです」。
弦を弾くと音が出る。その魅力にどんどん引き込まれていった。「今までそんなにやりたいことも無かったんですが、音楽には強く興味を持ちましたね」。そんな姿を父も見ていた。「エレキギターの初心者セットを買ってくれたんです。本当はフォークギターが良かったんですが…おすすめされました」。
家に居る時はエレキと向き合う時間がはじまった。毎日弾いても飽きることなくのめり込んでいき楽しさを感じた。「その頃、友だちも音楽に目覚めて、ふたりでずっと練習していましたね」。松代高に進み、さらに自己研鑽に励んだ。「中学校の頃はグレイ、高校の頃はハイスタンダードの曲にはまって、全曲弾けるようになりました」。
高校卒業を目前にして進路に悩んだ。「父からは一度は東京に出て一人暮らししてみろ、とアドバイスをもらって進学を考えました」。三者面談、進路選択案内でESPミュージカルアカデミーのギタークラフト科が目に留まった。「これだ!行くならココだって思いました」。都内へ進学。
「モノづくりも好きなので、好きな事に夢中になれる時間が楽しかったです」。2年間の学びを経て、さらに1年、研究科にも進んだ。しかし…、「就職先がなかなか無くて、狭き門でもあったのですが。自然豊かな地元に帰りました」。
生まれ育った松代に戻った。21歳の時。エレキギターを作っていた腕を活かし、もの作りがしたいと市内木工店に勤務。家具や建具など細かい細工などの専門分野だ。障子や襖(ふすま)など木を削り作り上げる。「木には様々な種類があり、木の香りや感触など様々です。木の温もりを感じながら作っています」。モノ作りは家でも発揮。「木で作った子ども用棚やスキーブーツ乾燥の用具などを作り、家族に喜ばれています」。2019年、妻・真由美さんと結婚、2人の子どもに恵まれた。
音楽活動は続けている。松代に戻り同級生と
バンド結成。『CANBAL
L8』に改称し本格的に活動。ボーカル、ギター、
ドラム、ベース、4人の同級生メンバーで松代の観音祭をメインに演奏活動。楽曲も年を重ねるごとに変わってきている。「メッセージ性のある曲を演奏するようになりましたね」。ジー・フリーク・ファクトリーなど自分で作ったエレキギターを使用し演奏する。
2年前、さいたま市大宮演奏した。「松代町商工会の依頼で一緒に行きました。緊張したけど、祭りと変わらず皆さんに聞いてもらえて楽しかった」。今後は観音祭だけではなく市内各所にも進出したいとする。
「皆さんの前で演奏し、音楽を聴いてのってくれる姿は力になりますね。あまり何かが続くタイプではなかったのですが、音楽は自分の世界に入れる魅力があります。今後も時間の許す限り、メンバーと音楽活動をつづけていきたいです」。
最近は十日町大太鼓『雪花会』に入り、幅広い音楽の魅力を追及。「奴奈川小学校時代に太鼓をしていたので活かせるかなと思って。様々な音やモノを自分の手で作り上げたいですね」。
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高橋直幸さん
2024年11月16日号
小さな頃から身近に家づくり職人がいて、その技を間近で見ていた。「いつか自分も大工になりたい、ずっと思っていました」。十日町市八箇に生まれ、祖父は大工職人。鋸(のこぎり)や鉋(かんな)
鑿(のみ)で
木を切り、
木を刻む姿を、憧れの眼差しで見ていた。「おじいちゃんのような職人になりたいと、その道に進みました」。
八海高校体育科を卒業後、迷いなく大工の道へ。津南町の工務店に勤務。「まさに職人気質の現場でした。憧れと現実は違いました」。3年間頑張って働き転職。建築や土木関連の塗装会社へ。「手に職をつけたいし、何かを創り上げる仕事に携わりたかったんです」。十日町市の新装へ。
塗装は見た目と共に保護や保存効果が高い。屋根や壁など住宅全般から野外の公共物など幅広い。「形も大きさも色も全て違います。それだけに奥が深く技術的な難しさもあり、日々学びでした。特に色の配合は、求められた色がぴったり合った時は本当に嬉しいですね」。
どんな職も、その道のプロからは学ぶことが多く、人としてのあり方も学んだ。「厳しく、優しく教えていただき、それが今の自分につながっています」。19年間、地道に実績を積んだ。先輩から「そろそろ自分の力を試してみたらどうだ」と進言を受け、40歳で独立を決意。『雲野塗装』を立ち上げた。妻・美恵さんの後押しも大きかった。
「事務を妻が担当してくれ、新装さんからのご支援も受けやっています」。誠実な仕事ぶりが人から人へとつながりを生み、市内外から声がかかる。「やりがいと不安の両方がありますが、いい仕事がしたい、これだけです。お客さんが喜んでくれる顔が私のやりがいです」。
祖父の職人ぶりを間近で見て育ったが、それに通じる地域の伝統活動、『八箇太鼓』に八箇小学校時代、6年間みっちり取り組んだ。卒業後、ご無沙汰していたが26歳の時、母校の閉校を聞く。同時に「小学校が無くなると地域との関わりが途絶えてしまう。なんとか八箇太鼓を復活させてくれないか、と頼まれたんです」。
すぐに当時の仲間たちと動き、2007年にメンバー10人余で『八箇太鼓』を復活。その年、世界で活躍する太鼓集団『鼓童』公演を見て、さらに刺激を受けた。
「よしっ、やろうぜ、やろう…だったんですが…」、始めると「温度差を感じたんです」。3年が過ぎた時、「十日町大太鼓の『雪花会』から、生誕地祭りの助っ人に来ないか、と声を掛けられました」。3㍍の大太鼓。本町メインストリートを叩きながら練り歩く生誕地祭りの大太鼓だ。これまでにない高揚感を体感、魅了された。
コロナ禍で活動自粛が続き、昨年4年半ぶりに再開。「私からそろそろ始めませんかって声を掛けたんです。そしたら、そのまま代表になってしまいました」。『雪花会』代表として活動する。メンバーの異動もあったが、いま子どもたちも含め16人で活動している。
先輩から受け継いだ伝統を次代へ伝える責務を感じている。「曲、動き、一つ一つ細かい所の習得には苦労しますが、太鼓の音が合い、仲間との思いが一つになった時は最高ですし、演奏への声援や拍手は最高の励みですね。これまで頂いたご恩に、今度は我々が恩返しです。太鼓で地域を元気に盛り上げたいですね」。
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佐藤弘祐さん
2024年11月9日号
これまでの人生の歩みの節目、節目に人との出会いがあり、声掛けがあり、事態が良い方向に流れた。20代の時。特に信仰心が強かったわけではなかったが、友人に誘われて行ったある宗教の集会。
2025年1月18日号
昆布巻き、煮豆…伝統の郷土食を受け継いでいる。「お料理するお母さんの横で、見て味わって習ってきました。私の得意分野も取り入れ、品揃えが増えています」。義母・ヨキさんは1931生まれながら、手作り品を次々と生み出し、お店に並べ、次代につないでいる。「クリスマスには自家製タレに漬け、ローストしたチキンを毎年40本ほど用意し、お客様に喜んでもらっています」。
東京世田谷生まれ。手細工が好きな子だった。「バック作りとかお料理とか、何かしら手を動かして作るのが好きでした」。世田谷・東横学園卒後、服飾関連の『エス モードジャポン東京校』に進学。「父方の母、祖母は和装助士でした。その影響が大きいかもしれません」。
服飾のパターンやデザインを総合的に学び、日々の課題に取り組む。「スタイル画やデザインを描き、縫物は持ち帰り、気が付くとスズメが鳴き始めて朝だっーって。大変だ
ったけど楽しかったですね」。
卒業後はアパレルメーカー・NICOLEに専門職・パタンナーアシスタントで入社、21歳だった。「1枚の布に服の型紙をパズルみたいにはめて印刷していく仕事で、ペアでの業務でしたが次第に息があって楽しかったですよ」。印刷の生地を裁断しボディーにピンを止め洋服に仕立てるよう調整していく。「生地を合わせるために多くのピンを使うので、ボディーの下はピンだらけで、後の片付けが大変でした」と笑う。
上司のパタンナーの紹介でスタイリスト・アシスタントに転職。その頃、専門学校時代から付き合っていた十日町市出身の亨さんと結婚、25歳。「アシスタントは体力勝負でしたね、ショップにプレス用の洋服を取りに行って、また返して、コレクション前は泊まりで仕事して、まるで合宿みたいで楽しかったなぁ」。
33歳の時、長女出産。「娘が7ヵ月の時でした。自然の中で子育てしたいと夫が話し、私もそう思い、十日町に来ました」。
時々来訪していた十日町、「移り住んだのは11月でした。雪が降る前で、雪国生活は初めてでしたが、子どもと雪遊びしながら冬を乗り越えましたね」。
春を迎え、出会いがあった。「娘と散歩していたら、同じくらいの子を抱っこしている方と会い、話すと同じ11月に長岡から引っ越してきた方で、近所に住んでいると知りました」。ママ友同士、話題には事欠かない。「もう子どもたちは成人しましたが、その方とは今も仲良くしてもらっています」。
長男出産後、夫の実家の商店の手伝いを始める。お客さん対応では方言に困ったことも。「お母さんや地域の人が教えてくれました。着物も十日町に住まなかったら着る機会はなかったかも、ですね」。娘の入学式に着物をと相談すると、多くの人が世話してくれた。「着付は出会ったママ友のお母さんでしたが、本当に地域の皆さんが優しくて、支えて頂きながらここまで来ています」。
服飾の経験から洋服直し『GOOD REPAIRS(グッド リペアーズ)』を始め、口コミで広がっている。「直し技術をもっと深めたいです。主人やお客様が色々なアイディアを出してくれるので、意見を参考にしながら取り組んでいます。人と人のつながりが幸せを運んでくれていると感じ、本当にありがたいです」。
▼バトンタッチします
太田留美さん
2024年12月21日号
芸は身を助く、それを実感する日々だ。観光ツアーの添乗員歴33年。全都道府県、25ヵ国の国を飛び回り、バス旅行ではツアー参加者の年代に合った歌を車中で披露し、旅行の雰囲気を盛り上げる。「人を楽しませたい」、その思いを込め、今日も旅先まで添乗している。
父は民謡大会に出場、母は台所で家事をしながら演歌を口ずさむ姿を、幼い頃からいつも見てきた。「唄好きの血が私にも流れているのかなぁと思います」。中学は剣道、高校では野球に取り組む。一方で井上陽水のモノマネなど歌の上手さが評判を呼んだ。野球部では「先輩のフォームのモノマネすると、みんなが大笑いしました。でも、マネはうまいのに何で野球はうまくならねぇーんだ、なんて言われていましたね」。
野球に打ち込んだ高校時代、卒業後の進路で親とぶつかった。「どうしても東京へ行きたかった」自分。長男を置いておきたい両親は猛反対。最後は「好きにしろっと言われ、学費を自分で稼ぐため新聞奨学生となり、都内の旅行専門学校へ進みました」。
初めての東京はカルチャーショックの連続。一方で新聞販売所の寮生活は想像以上にハードだった。「朝2時に起きて新聞配達。朝食後、学校へ。寮に帰り夕食後は夜9時まで新聞勧誘という毎日。年間9日くらいしか休みが無かったですね」。このハードの生活を野球部で培った根性で立ち向かい、学校の勉強にも集中。まさに螢雪の功だった。「頑張った分、学校の成績は良かったですよ」。この新聞販売所で1年間、頑張った。
翌年には別の新聞販売所へ転職。再び寮生活。週休2日、読者勧誘はなく自分の時間ができた。「自分の甘さが出ましたね。学校の成績がガタ落ち、時間が無いは言い訳だなと実感しました。今も教訓にしています」。専門学校卒業後はアメリカ行きを思ったが、専門学校の同級生の誘いで都内の旅行会社に就職。会社勤務の疲れをいやす居酒屋で、伴侶「ひろみ」さんと出会い結婚。20歳の時だった。
国内外の添乗員経験を5年積み、国家資格を取得。しかし、さらに自分への課題を課した。「もっと自分を成長させたい」と転職。夜の飲食店、さらに体を動かしたいと佐川急便なども。だが、わが子の誕生で人生観を見直した。28歳の時。「様々な仕事を経験し、我が子は自然の中で育てたいと、生まれたふるさとに帰りました」。今は5人の子の父であり、9人の孫のおじいちゃんである。
再び旅行添乗員の業務に戻り、越後交通で13年ほど働く。業務経験を積むと業務管理のポストに。「お客さんの喜ぶ顔を間近で見たい」と南魚沼市・昭和観光へ転職。バス旅行で添乗すると評判を知っている方々から歌のリクエストがある。楽曲は年代に合わせるためレパートリーを増やしている。「三橋美智也さんの曲などお客さんに喜んでもらうことが、私も嬉しいですね」。企業の社員旅行では若い年代のリズム感ある楽曲も披露する。
そんな時、声が掛かった。十日町市でNHKのど自慢大会の開催が決まり、出てみればと。「話のタネになるかなぁーと思って」、さっそく応募。会場は中里アリーナ。7百人の応募から書類選考で250人に絞り、本選出場は20人、その中に選ばれた。「ゲストは細川たかしさんでした。難しい『望郷じょんがら』を歌ってアピールし、チャンピオン授賞でした」。
出場後、各地の祭りやイベントへの出場依頼が舞い込んだ。だが、「人前で歌う自分の歌声を録音して聞いてみたら、自分はまだまだだなって」。ここからさらに自分を磨いた。「毎日の車での通勤時間や一人カラオケで7時間くらい練習。まだまだ納得できる歌になっていませんよ。お客さんが喜んでくれる顔を、いつも思い描いて練習しています」。
今日も旅に添乗している。「リクエストがあれば、歌います。あくまでも楽しい旅のお手伝いですから。お客様の笑顔が第一です」。
▼バトンタッチします
岡村さやかさん
2024年12月14日号
恩師との出会いが、その後の生き方に大きく影響している。松之山小4年生の時、担任だった当時20歳代の合志淳教諭と出会った。「それまでは、学校って勉強して、いい点とって…っていう場所だと思っていたんですが…」、合志先生の言葉は違った。 『頭で覚える勉強も大事だが、楽しく、心で覚えることを学べ』。その場面はいまもはっきり憶えている。「その時からです、なんでも楽しく、辛いことでも、何事も前向きに考えるようになっていきました」。
いつも子どもたちと一緒に動き、一緒に考える恩師だった。「合志先生は、初雪が降ったら、外行くぞーって1限目から雪遊びに出て、そのまま授業時間が終わったりと。でも、いけないことをしたら凄く叱られましたが、いたずら程度では怒られたことはなかったです。人間味にあふれ、熱くて、皆が先生のことが大好きでした」。
生まれは東京・府中市。1987年、幼稚園年長の時、父の実家がある松之山に家族で移り住んだ。「あまり覚えていないんですが、保育園入ったばかりの時、『声かけたのに、こっち来るなって叩かれた』って、同級生に今でも言われます」と笑う。そこは子ども同士、すぐに地域にも仲間にも溶け込み、小中は陸上やアルペンスキーに取り組む。「練習はきつかったんですが、まぁ何とかなるか、でした。それに友だちや先輩たちが居たから続けられましたね」。さらに「教室でものまね大会を開いたりと、毎日が楽しかったです。調子に乗りすぎちゃうこともあるんですが、仲間たちがよく助けてくれてますね」。
松代高校へ進む。「進路に迷った時、友だちが持っていた進路パンフにビビビっときたんです」。4歳下の妹、8歳下の従弟の面倒を見ていたことから、「子どもが好きだなって思って」。長岡・北陸学園保育科に進学。「当時、保育士をめざす男子は少なく、女性80人に男性15人位でした。その分、男たちの団結力はすごかったですよ。いまでも仲良しです」。学園祭でのライブで影響を受け、「同級生でバンド作るかって。私はエレキギターを選び、毎日皆で練習、週5日は飲み会してました。楽しかったなぁー」。
保育士初任地は十日町市の私立保育園。学園時、出会いがあり結婚、4人の子たちのパパだ。「園でも家でも、子どもたちに遊んでもらってました。子どもの発想って本当に面白いですね」。ちょっと先を考え16年前、松之山・不老閣に転職。「保育士から介護の仕事、最初は戸惑いもありましたが、入所者さんから『いい男だ、いい男だー』なんて、おだてられて、毎日楽しく業務しています」。
学生時代からのバンド活動も続け、松之山出身の後輩と2人組デュオ『二つ星』を結成し、作詞作曲にも挑戦。十日町雪まつりや各所のイベントなどに出演した。バンドやデュオ解散後も歌への情熱は変らなかった。その時、『NHKのど自慢大会』出場のチャンスをつかんだ。「会場は中里アリーナでした。多くの皆さんの前で歌えたこと、最高の経験でした。結婚10周年だったので、妻への感謝を込め吉田山田の『日々』を歌いました」。
のど自慢出場で感じたのは、「出場された方々の歌のうまいこと。うまい人って、こういう人たちのことなんだって感じたんです」、感情の込め方、歌に強弱をつけるなど意識し練習している。のど自慢出場者との交流がいまも続く。「みんなで定期的に集まりカラオケで練習したり、良い刺激になっています。私にとって歌はなくてはならないものです」。
小学4年で出会った恩師、合志先生は今年3月、定年退職を迎えた。「同級生で、合志先生を囲む会を開き、皆で集まろうかって話しています。伝えたいことがいっぱいあるし、話したいことがいっぱいありますから」。
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小宮山英樹さん
2024年12月7日号
没頭すると寝食を忘れてのめり込む。「30代の初めまでは音楽に没頭していました。集中すると止まらなくなるので、家族ができてから、音楽は封印しています」。
31歳の時、同じ職場が縁で出会った里花さんと結婚。「娘が1歳にな
った時、自然の中で子育てをしたいという妻の希望で、松代に引っ越しました」。2015年、加茂市から家族3人で移住。妻の両親と二世代で暮らす。
生まれも育ちも加茂市。「加茂小、加茂中、加茂高、でしたねー」。8歳上の兄、6歳上に姉がいる。「兄がバンド活動でエレキギターをやっていて、触らせてもったのがきっかけです」。
兄への憧れからエレキギターを初め、独自でテクニックを研究、のめり込んだ。「末っ子だったので、兄や姉の後を追う引っ付き虫でしたね。だから引っ込み思案だった。でもギターは、やりたいと自分で始めたものです」。
高校時代は授業が終わると家へ直行。同級生4人と毎日ギター練習。「兄がボーカル担当でライブハウスで演奏もしました。あの頃はグレイが流行っていて、毎日練習し18曲くらいを2時間通して演奏してましたね。今思うと、よく怒られなかったなぁーと思います」。
県内大学へ進学、新潟市内就職後も大学時代のバンド仲間とライブハウスで定期的に演奏し、ソロ活動では作詞作曲にも挑戦。さらに音楽を深めていった。「仕事が終わって、家に帰ってすぐ音楽制作。朝まで寝ないで没頭し、そのまま仕事へ行くとか、夢中でしたね」。
ギターテクニックを磨きたいと様々な音楽動画など見て学んだ。腕を見込まれ、「県内ソロシンガーのバックでギターを弾いたこともあります」。ソロ活動でCDを出したことも。「今でも楽曲の1つがカラオケに登録されています」。
新潟市で働いていた頃、職場で出会いがあり結婚を決意。「音楽はスパッと辞めました。家族に全集中です。いま思うと、あの頃は音楽に没頭しすぎていて、何歳の時に何してたっけ?って、時系列がぐちゃぐちゃです」。
小学3年、5年の娘と年少の息子の3人の父。「加茂市と違って雪は多いですが、地域の皆さんはとっても優しいですね」。松之山・松涛園に勤務。「介護職は大変なイメージもあり、初めは実家の親にも反対されたんです。でも、仕事をしなくてはいけないし、そんなことも言ってられなかったですね」。
4年余の実務を経て介護福祉士資格を取得。9年目に知人の紹介で不老閣へ転職。「タイミングでした。大変なことも楽しいことも勿論あります。ただ、関わったお年寄りの方がリハビリで機能向上すると嬉しく思いますね。どうしたら機能が上がるかを考え、突き詰めるのが好きなんでしょうか」。
音楽は封印しているが、新しく手にしたものがある。「家族。それと、家族の歴史を記録するカメラですね」。義母がキャノンを持っていた。シャッターを押すといい音が響く。「あの感触、カメラっていいなって。家族貢献にもなりますし」。
現在の愛器はニコンD780。「今までいろいろなカメラを更新してきましたが、D780はフルサイズだから室内に強く、子どもたちの何気ないしぐさやイベントに役立ちます。カメラの趣味をさせてもらって感謝です」。撮影した写真は家では勿論、子どもや愛猫の写真は職場にも飾られ入所者に喜ばれている。
「我が子が生まれ、人生がガラッと変わりました。音楽にのめり込んだことは、自分の糧でもありますし、音楽があったから自分の自信にもなっています。日々成長する子どもたち、その姿をカメラで撮る、楽しいですねぇ」。
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田邉孝一さん
2024年11月30日号
静かな佇(たたず)まい、だが秘める思いは熱い。マイクを握ると心のスイッチが入り、思いの丈が熱唱になる。「いやぁー、小っちゃい頃から口下手で」。ふたりの姉に抑えられていた。「7つ上と5つ上の姉ふたりです。いたずらすると『なおゆきー』って叱られていたので、だんだん無口になっていきましたね」。
松代中時代、野球部と駅伝部を兼任、自分と向き合い、自分を鍛えた。「でも、高校では帰宅部で、バイクを乗り回して、よくドライブして楽しんでいました」。卒業後の進路に悩んだ。「親元から一度は離れてみたくて、神奈川県内で就職を決め、上京しました」。
社員寮がある電気工事会社へ就職。「朝早く5時に出て、帰りは夜10時。体力的にも精神的にもしんどかったですね」。休日はひたすら寝て休むだけ。子ども時代怖かった次姉が良き相談相手に。「姉が都内に住んでいたので、遊びに行っていました」。姉弟の絆は固い。
淡々と時間が過ぎる毎日に疑問を抱く。1年半頑張ったが退職。都内の古本屋でアルバイト生活。その時だった。「バイト先の先輩から、バンド組むから一緒にやらない? って声を掛けてもらったんです」。バイト仲間とよく行ったカラオケ店。結成バンドでは声の良さをかわれ、ボーカル担当に。「男に魂って書いて、メンソールという屋号でした」。
都内のスタジオを借り、週1回の練習。「楽曲はギター担当の方の自作です。先輩はグリーン・デイが好きなので、そのような曲調ですね」。3ヵ月に一度ライブハウスで演奏。「観客は皆知り合いばかりでしたが、人前で歌うのは最高に気持ち良いです。口下手で人前で話すのは苦手ですが、歌だと気持ちを乗せ歌えるんです」。
4年余り活動し、それぞれ思い思いの進路があり解散。電気店で2年余り勤務したが、「やりたいことも無いし、帰ろうかなぁ思い、地元に戻りました」。26歳の時。そんな時、またまた声が掛かった。「松代の地元バンドづくりに誘われたんです」。同級生4人バンド『CANBALL8』を結成。ボーカルを担当。松代観音祭、松代町商工会関係イベントなどで演奏。「やっぱりライブで歌うのは、本当に気持ちがいいですね」。
職探しでも出会いが。「人と関わる仕事が良いなと思って」、松之山の介護施設・介護助手で働き始める。「全く初めての仕事で、覚えるまで大変でしたが先輩方に優しく指導していただきました」。勤めて3年目で介護福祉士の資格を取得。さらに声が掛かった。30歳で地元介護施設に転職。「来ないか? って声掛けを頂き、地元貢献できると思い転職しました。介護職は大変ですが、おじいちゃん、おばあちゃんの話を聞くのは楽しいですね」。
円(まどか)さんとは友だちの紹介で出会った。29歳で結婚。小学4、3年と4歳、3人娘に囲まれる。「パパ、パパって呼んでくれるのが嬉しいし、可愛くて仕方ないですね。でも歌の練習をしていると、うるさーいって言われるので、車を走らせながら発声練習していますよ」。
声量と声質を保つには日々の発声が大切。その練習方法も自分で編み出している。
最近、自作の曲、詞にも挑戦。「家族への想いです。妻や子へ思いを込め、作っています」。
ベイビー ありがとう
ありったけの愛をくれて ベイビー 感謝してる
私のすべてなんだ
最近の作詞の一節だ。
「楽しいことは何歳になっても共有できるので、仲間と音楽に関わり続けたいですね。各地のバンドとも仲間の輪を広げ、地域を盛り上げたいです。一緒にやりませんか?」。
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深井裕司さん
2024年11月23日号
音楽、物作り、自分の手から生み出す感覚が心地いい。「音楽は、なんだかんだずっと続けられていて、不思議です」。父の部屋にあったフォークギター。いつも何気なく見ていただけだった。松代
中学2年生の時、「なんとなーく、フォ
ークギターに触れてみたら音が出て。そこからです」。
弦を弾くと音が出る。その魅力にどんどん引き込まれていった。「今までそんなにやりたいことも無かったんですが、音楽には強く興味を持ちましたね」。そんな姿を父も見ていた。「エレキギターの初心者セットを買ってくれたんです。本当はフォークギターが良かったんですが…おすすめされました」。
家に居る時はエレキと向き合う時間がはじまった。毎日弾いても飽きることなくのめり込んでいき楽しさを感じた。「その頃、友だちも音楽に目覚めて、ふたりでずっと練習していましたね」。松代高に進み、さらに自己研鑽に励んだ。「中学校の頃はグレイ、高校の頃はハイスタンダードの曲にはまって、全曲弾けるようになりました」。
高校卒業を目前にして進路に悩んだ。「父からは一度は東京に出て一人暮らししてみろ、とアドバイスをもらって進学を考えました」。三者面談、進路選択案内でESPミュージカルアカデミーのギタークラフト科が目に留まった。「これだ!行くならココだって思いました」。都内へ進学。
「モノづくりも好きなので、好きな事に夢中になれる時間が楽しかったです」。2年間の学びを経て、さらに1年、研究科にも進んだ。しかし…、「就職先がなかなか無くて、狭き門でもあったのですが。自然豊かな地元に帰りました」。
生まれ育った松代に戻った。21歳の時。エレキギターを作っていた腕を活かし、もの作りがしたいと市内木工店に勤務。家具や建具など細かい細工などの専門分野だ。障子や襖(ふすま)など木を削り作り上げる。「木には様々な種類があり、木の香りや感触など様々です。木の温もりを感じながら作っています」。モノ作りは家でも発揮。「木で作った子ども用棚やスキーブーツ乾燥の用具などを作り、家族に喜ばれています」。2019年、妻・真由美さんと結婚、2人の子どもに恵まれた。
音楽活動は続けている。松代に戻り同級生と
バンド結成。『CANBAL
L8』に改称し本格的に活動。ボーカル、ギター、
ドラム、ベース、4人の同級生メンバーで松代の観音祭をメインに演奏活動。楽曲も年を重ねるごとに変わってきている。「メッセージ性のある曲を演奏するようになりましたね」。ジー・フリーク・ファクトリーなど自分で作ったエレキギターを使用し演奏する。
2年前、さいたま市大宮演奏した。「松代町商工会の依頼で一緒に行きました。緊張したけど、祭りと変わらず皆さんに聞いてもらえて楽しかった」。今後は観音祭だけではなく市内各所にも進出したいとする。
「皆さんの前で演奏し、音楽を聴いてのってくれる姿は力になりますね。あまり何かが続くタイプではなかったのですが、音楽は自分の世界に入れる魅力があります。今後も時間の許す限り、メンバーと音楽活動をつづけていきたいです」。
最近は十日町大太鼓『雪花会』に入り、幅広い音楽の魅力を追及。「奴奈川小学校時代に太鼓をしていたので活かせるかなと思って。様々な音やモノを自分の手で作り上げたいですね」。
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高橋直幸さん
2024年11月16日号
小さな頃から身近に家づくり職人がいて、その技を間近で見ていた。「いつか自分も大工になりたい、ずっと思っていました」。十日町市八箇に生まれ、祖父は大工職人。鋸(のこぎり)や鉋(かんな)
鑿(のみ)で
木を切り、
木を刻む姿を、憧れの眼差しで見ていた。「おじいちゃんのような職人になりたいと、その道に進みました」。
八海高校体育科を卒業後、迷いなく大工の道へ。津南町の工務店に勤務。「まさに職人気質の現場でした。憧れと現実は違いました」。3年間頑張って働き転職。建築や土木関連の塗装会社へ。「手に職をつけたいし、何かを創り上げる仕事に携わりたかったんです」。十日町市の新装へ。
塗装は見た目と共に保護や保存効果が高い。屋根や壁など住宅全般から野外の公共物など幅広い。「形も大きさも色も全て違います。それだけに奥が深く技術的な難しさもあり、日々学びでした。特に色の配合は、求められた色がぴったり合った時は本当に嬉しいですね」。
どんな職も、その道のプロからは学ぶことが多く、人としてのあり方も学んだ。「厳しく、優しく教えていただき、それが今の自分につながっています」。19年間、地道に実績を積んだ。先輩から「そろそろ自分の力を試してみたらどうだ」と進言を受け、40歳で独立を決意。『雲野塗装』を立ち上げた。妻・美恵さんの後押しも大きかった。
「事務を妻が担当してくれ、新装さんからのご支援も受けやっています」。誠実な仕事ぶりが人から人へとつながりを生み、市内外から声がかかる。「やりがいと不安の両方がありますが、いい仕事がしたい、これだけです。お客さんが喜んでくれる顔が私のやりがいです」。
祖父の職人ぶりを間近で見て育ったが、それに通じる地域の伝統活動、『八箇太鼓』に八箇小学校時代、6年間みっちり取り組んだ。卒業後、ご無沙汰していたが26歳の時、母校の閉校を聞く。同時に「小学校が無くなると地域との関わりが途絶えてしまう。なんとか八箇太鼓を復活させてくれないか、と頼まれたんです」。
すぐに当時の仲間たちと動き、2007年にメンバー10人余で『八箇太鼓』を復活。その年、世界で活躍する太鼓集団『鼓童』公演を見て、さらに刺激を受けた。
「よしっ、やろうぜ、やろう…だったんですが…」、始めると「温度差を感じたんです」。3年が過ぎた時、「十日町大太鼓の『雪花会』から、生誕地祭りの助っ人に来ないか、と声を掛けられました」。3㍍の大太鼓。本町メインストリートを叩きながら練り歩く生誕地祭りの大太鼓だ。これまでにない高揚感を体感、魅了された。
コロナ禍で活動自粛が続き、昨年4年半ぶりに再開。「私からそろそろ始めませんかって声を掛けたんです。そしたら、そのまま代表になってしまいました」。『雪花会』代表として活動する。メンバーの異動もあったが、いま子どもたちも含め16人で活動している。
先輩から受け継いだ伝統を次代へ伝える責務を感じている。「曲、動き、一つ一つ細かい所の習得には苦労しますが、太鼓の音が合い、仲間との思いが一つになった時は最高ですし、演奏への声援や拍手は最高の励みですね。これまで頂いたご恩に、今度は我々が恩返しです。太鼓で地域を元気に盛り上げたいですね」。
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佐藤弘祐さん
2024年11月9日号