小さい頃、『かんごしさんになりたいです』と願い事を七夕の短冊に書き、毎年竹に飾っていた。その思いをずっと抱き続け、いまその職にある。 厚生連・柏崎総合医療センターの内科病棟の看護師として日々、病と向き合う患者に寄り添っている。「まだまだ知識、経験、技術が足りていません」。
看護師として医療現場に立って3年、率直な思いだが、常に前を向いている。
看護師で助産師も務めた母の姿を、幼少期に「かっこいい」と見つめ、そのまま憧れの対象となり、小学・中学と具体的な目標になり、高校では「この道しかない」と看護学校への進学を早くから決めていた。
「夜勤の時には母は夜いませんでしたし、大晦日でも仕事に出かけ、災害など発生するとすぐに駆けつけました。そんな日々の母の姿がかっこよかったんです。私がケガをしてもすぐに手当してくれ、かっこよさと共に頼もしく感じました」。
さらに4歳違いの姉も看護師。自分が進む道の先を、母と姉が前を歩んでおり、その姿が明確な目標として常にあった。いま勤務する医療機関はそれぞれ違うが、共通の看護師として、母と娘という固い絆以上の連帯感でつながっている。
「母と姉、私の3人だけで旅行に行ったりします。父と兄は留守番です。旅先では仕事の話ばかりです。職場ではなかなか話せない事も、母と姉には気軽に話せて、私のリセットにもなっています」。現在の内科病棟では消化器内科・腎臓内科・血液内科の入院患者を担当。夜勤を含め、1ヵ月単位の勤務ローテーションが組まれている。
「自分だったら、自分の家族だったらと思って、いつも患者さんと向き合っています。どうしてほしいのか、退院後、家で過ごす時の事なども考えて、いつも接しています」。
辛い経験も多くしている。「人が亡くなる場面に初めて立ち会った時や、長い入院の中で亡くなってしまった時など、考えてしまうこともあります。先輩や母や姉と話すことで切り替えています。いまは仕事と家に帰った時などオン・オフのスイッチを切り替えています」。
病で困っている人の一番身近に居る存在でもある看護師。感謝の言葉は大きなエネルギー源になっている。「ありがとうという言葉を頂くと、看護師をしていて良かったと思います。入退院を繰り返す方が『今度も山本さんで良かった』と言っていただくと嬉しくなります。退院される時は、良かったと思うと同時に、家で大丈夫だろうかなどと心配な面もあります。もっともっと経験を積んでいきたいです」。
この先も見ている。いまの病棟の看護師婦長はガン医療の専門看護師でもあり、見習いたい先輩看護師でもある。さらに各種医療機器を扱う臨床工学技士への道も視野に入れている。「日々の経験を通じて、自分がさらに関心を持て、興味が深まるものを、医療看護の経験を積みながら見つけていきたいです」。
命と向き合う日々。「ためない」ようにしている。海を見ながら、「ボーとするのが好きなんです」。海が近い柏崎、時々海を見に行く。
▼バトンタッチします。
黒島有彩さん
2024年7月20日号
「この先、どうなっていくのか」。自分の中にある率直な心情だ。それは、少子化が進み高齢化がますます進む地に暮らす今であり、人口減少がさらに進むであろう現実であり、人と人が殺し合う世界の動きであり、沸騰していると表現される最近の地球環境である。
「そんなに大きいことを言っているわけではありませんが、正直、この先、どうなっていくんだという思いです」。
2000年世代は、社会との関係性で一番刺激を受ける時期にコロナ禍が重なり、将来を見据えた行先の進路変更を余儀なくされたり、対面授業ができず画面越しのオンラインになり、生身の人間同士の付き合いが希薄になった時間を過ごし、いまも影響を受け続けている世代でもある。
「多様性の時代は、なんでもありの時代でもあり、そうではない時代でもあると思います。あれもこれも多様性という言葉に組み込まれているようにも感じます」。
その端的な事例が「結婚」という形のあり方への疑問。「家族のあり方そのものが変わってきている気がします。将来は子どもの世話になるから我が子が必要という考えは世代によって違うし、自分たちの世代はそういう考えにはなっていないでしょう。だから結婚という形ではなく、パートナーについても形にこだわらない、いろいろな形があって良いと考えています。それも多様性ということなんでしょうね」。
さらに大きな要因もある。それは経済的なこと。「結婚は1プラス1は2ですが、その先に子どもが加わると、それが5にも6にでもなります。それほど経済的な面が大きくなっているのが、今ではないでしょうか」。所得格差は、その先の格差を生み出し、まさに「この先、どうなっていくのか」の疑問符はさらに膨らむことになる。
中学3年間、吹奏楽部でバスクラリネットを担当したが、「女子の強さを思い知ったので、高校では女子がいないサッカーをやりました」。
世代間というより性差ギャップを思い知った思春期だった。専門学校で調理師資格を取得したが、別の道に進む。いま社会人として働きながら「AI分野への関心が高まっています。もっと専門的なスキルを身に付けていきたい。これからどんな時代になるか、そのためにもAI分野は必要になると思っています」。
休日は長岡のバッティングセンターなどが入る長岡ドームに友だちと行く。「ストレス発散になりますね」。仲間たちとの時間を大切にする。
いよいよ大地の芸術祭が13日開幕。「受け入れ側という感覚です。外国からの人たちが増えてきているようですね」。その外国の在り様にも目が向く。「混沌としている世の中で、これからどういう方向に向かっていくのか、誰にも分からない不安があります。それは戦争ばかりではなく、平均気温がどんどん高くなっているなか、まさにこの先、どうなるのか、ですね」。
さらに「特に人口減少は深刻ですね。結婚の必要性が薄くなり、子どもが生まれない世になれば、ますます人口が減少します。ほんと、この先、どうーなっていくの、ですね」。
▼バトンタッチします。
山本陽向子さん
2024年7月13日号
勢いを増し燃え盛る火、初めての火災現場で初めての放水…。消防官になり初体験した現場は、想像を超える過酷さだった。「迫る火の勢いと熱さ、これが現場かと、ちょっと恐怖さえ感じました」。あれから5年、十日町地域消防本部消防官として事故や災害、病気など「命」と向き合う現場に出動し救急活動にあたっている。
「小さい頃から消防自動車や消防官へのあこがれがあり、十日町地域消防が毎年開く『消防ひろば』には必ず行っていました。はしご車にも乗せてもらいました」。そのあこがれが、さらに具体化したのが映画『252生存者あり』。大災害に見舞われた東京を舞台に「生還」と「救出」の消防レスキュー活動を描いた人間ドラマ。「あれを見て、レスキュー隊員になろうと決めました。あとはその目標に向かってまっしぐらでした」。
保育園時代に乗せてもらった消防はしご車。入署して3年目、消火訓練で消防はしご車バケットに入り高さ25㍍まで上がり、高所訓練を経験。「実は高い所がちょっと苦手でしたので、高いなぁーと感じながらの訓練でした」。だが、いまは経験を積み、高さへの恐怖心はなく、どんな現場にもひるむことなく臨んでいる。
地域の高齢化、独り暮らし世帯増加などから救急救命の出動が増加するなか、5年の現場経験から「救急救命士」の重要性を感じている。救急車乗車は「救急資格」を取得しなければ乗れない。入署2年目で資格取得した。救急救命士は乗車資格取得後、さらに5年間の救急経験、あるいは2千時間の救急業務経験など一定条件をクリアしないと資格試験に挑戦できない厳しい国家資格だ。それをめざしている。
「まだ救急業務の経験年数が足りていないので受験できませんが、必ず目標の救急救命士を取得します」。
十日町地域消防本部では年間3500件余、1日平均10件余の出動があり、年々増加傾向にある。消防官は24時間勤務後、非番(緊急時は出動)、休日という3日間サイクルが勤務体系。まさに体力と気力、精神力が求められる。一方で風邪の発熱、指先を切ったなど全国的に問題視される「不適切利用」も増加要因になっているといわれる。
体力づくりはランニングだ。非番や休日で走り込む時は30㌔ほど走る。十日町の国道117号を本町からスタート、小千谷境で折返し、そのまま土市・姿まで行き、本町に引き返すルート。30㌔を超える距離を2時間弱で走る。
2022年10月には初のフルマラソンに挑戦。「金沢マラソンです。大会3ヵ月ほど前に先輩から、俺が出られなくなったので出てみないかと誘われ、やってみるかと出場を決めました」。初出場ながら2時間50分台で走り切った。いまも1日10㌔ほど走っている。高校時代の陸上部活動がいまに通じる。800㍍、1500㍍に取り組み、3年の時は駅伝で県大会入賞を果たしている。
今年2月、佐渡出身の萌さんと入籍。今春の新潟ハーフマラソンに一緒に出場。「結構、走るんですよ。今度は2人でフルマラソン出場をめざします」。今秋10月、結婚式を挙げる。「そうですね、来年4月の『佐渡ときマラソン』に2人で出場する予定です」。良きパートナーとの出会いは、目標とする「救急救命士」取得へのモチベーションを高めている。
数々の現場を体験し、命と向き合う日
々。悲惨な現場、目の前で命が途絶えていく現場、言葉に表せない数々の惨状。消防官、救急隊員の心身の負荷は計り知れない。
「すぐには切り替えられない場面もありますが、先輩などと話をして貯めないようにしています。私の場合、ランニングがリセットの場になっています。今後、さらに私たちの出動数は増えていくと思いますが、それが私たちの使命ですから」。
▼バトンタッチします。
栁拓玖さん
2024年7月6日号
運命は、どう動くか分からない。長野・松本市で大学生活を送るが、コロナ禍でオンライン授業が多くなり、そんな時、「なにか違う」と感じた。佐渡にある実家が営む旅館を手伝うなかで、父がSNSで懐石料理店の人材募集を見つけ「こんなのがあるよ」と見せられ、行こうと即決。その地が十日町市。
あれから2年、この地で運命の出会い。今年2月、地元の消防士と結婚。それも「初めての地でしたから、飲み友だちがほしい…」と、妻有地域限定のマッチングアプリに登録、そこで出会ったのが消防士。とんとんと、結婚にまで至った。
佐渡・真野湾に面した地で両親が営む『伊藤屋旅館』。父で6代目の老舗宿だ。「小さい頃から海に潜っていました。仕入れに行く父や、山野に行く母にいつもついて行き、海も山も好きになり、特に食べることが大好きで、それは今も変わっていません」。
幼少期から「女将」として動き回る母の姿を見て育ち、「かっこいい。私も女将になりたい」と小学生の頃から口に出し始めた。その思いは、中学、高校、そして大学に至るなかで、次第に「将来的な予感」となり、料理の世界に入り、それは「確信」に変わった。その決定打が十日町市での出会いだった。
飲み友だちを求めた結果が、人生のパートナーに至った。「私は条件を出しました。食で好き嫌いが全く無い人、一緒にコーヒーとお酒を飲んでくれる人」。でも、「実は私は結婚できないんじゃないかと思っていました。我が強いので。私の意見を受け入れてくれ、どんな時も支えになると約束してくれました。それに誠実さでしょうか」。これこそ運命の導きか。
「食」への探求心は人一倍強い。「美味しいものが好き過ぎて、食材への関心がいまも高まっています」。特に「きのこ」。佐渡には松林があり「高校時代、よく松茸を採っていましたし、世界三大きのこのトリュフ、ポルチーニなども佐渡では採れます」。当然きのこ料理にも関心深い。昨年12月の誕生日祝いには、結婚前の彼に分厚い『きのこ図鑑』をリクエスト、念願の大図鑑を手に入れた。きのこは今の仕事にも通じる。十日町から八箇峠越えで六日町の雪国まいたけに通勤している。
「佐渡は食材が豊かです。海のもの、山のもの、さらにフルーツも豊富で、りんご・みかん・ぶどう・さくらんぼなど、いろいろ採れます」。父は旅館と併設の「レストランこさど」のシェフでありパティシエとしてスイーツも担当する。「十日町も山菜など豊富ですね。この時期もきのこが出ますよ。ウスヒラタケなど。休日には山へよく行きます」。植物知識は母との山野遊びからだ。
この行動力の原動力は「思い立ったらすぐに動きます」。大学在学中、「やりたいことは出来ました」。それは外国への留学。コロナ直前の2019年8月、夏休みを使い1ヵ月間、オーストラリアのニューカッスル大学に短期留学、ホームスティしながら外国体験。この留学でも食への関心が増した。「様々な料理方法の食材を食べました。勉強になりました」。
振り返ると体験のすべてが「女将」への道につながる。小学時代は水泳に取り組み、中学ではバレーボールと陸上・駅伝。高校では一転、書道と茶道、吹奏楽部ではクラリネットを。「茶道は15年ほど続けました。美味しいお菓子が食べられるから、と始めましたが、もともと抹茶が好きでしたから」。
いまも水泳は毎週1時間ほど泳ぎ、スポーツジムで筋トレやランニングをする。先月の新潟市ハーフマラソンに出場。体力づくり、体形づくり、さらに健康維持と、これもすべて「女将」につながっている。
「そうですね、30歳までには佐渡に戻ります。彼が佐渡の消防士に入るための準備期間も必要ですから」。経営を引き継ぐと7代目になる。「食にはこだわりたいです。佐渡でしか食べられないものを提供したい。まだまだ知らないことが多く、皆さんから教えて頂いています」。
何年か後、佐渡の伊藤屋旅館で「萌女将」に会えるだろう。
▼バトンタッチします。
伊藤隆汰さん
2024年6月29日号
水品家の「農業カレンダー」は2月下旬から始まる。電熱線を地中に回した苗床ハウスでの播種からスタート。外はまだ雪の山。「ナスとピーマンは発芽まで時間がかかるんです。5月の苗販売までに間に合わせるには、この時期からなんですよ」。 春耕というにはちょっと早いが、
水品家の営農は雪の中から動き出す。
2024年6月22日号
それは、『じろばた』開店後、5年ほど経った頃だった。「そばの消費拡大をしたいんだが…」、農協の担当者から言われた。開店準備の時のように仲間たちと談義を重ねた。「その時、大先輩の富井トヨさんが言ったんです。『祖母だったか曾祖母だったか、昔はいなりの中に蕎麦を入れていたと聞いたことがある』。
この富井さんのひと言
から始まっ
たんです」。ヒット商品『そばいなり』誕生の秘話である。
2024年6月15日号
生徒に鏡を渡す。課題は自画像。「紙を丸くくり抜き、出た鼻から描きます」。渡された画用紙を前に生徒たちは鏡で自分の鼻を見ながら、鼻の頭から左右の小鼻、鼻筋、鼻の下、鼻の溝を描き、『次は口。上唇、下唇、筋があるね。よく見て、よーく見て』。
さらに顎を描き、目の周りを、左右の頬を描くと顔らしくなってきた。額、さらに首と続き、次に耳。『いよいよ目玉を入れるよ。さらに眉毛。次に髪の毛、左右の髪は違うよ、よく見てね…』。授業を再現するとこんな感じだった。その結果、個性たっぷりの自画像が出来上がった。
「生徒たちは、でき上がった自分の作品を見て、驚くと共に感動しますよ。この描き方は、私に絵の楽しさを教えてくれた松本キミ子先生です。昨年亡くなりましたが『人はリアリズムに描いたものには感動する』の言葉通りですね」。
2024年6月8日号
ここ2週間、ぎっくり腰でした。もともとぎっくり腰になりやすい話を以前させていただいたと思うのですが、年齢とともに押し寄せる胸椎(胸の背骨)と股関節の硬さのケアをきちんとしていないと、腰が胸椎と股関節の動きをカバーしようとして無理がかかり、「あ~…今やりました」ということになってしまうのです。そして、もう一つぎっくり腰の原因としてあるのは「反り腰」です。
女性で「反り腰」と言われたことのある方は結構いるのではないかと思います。つま先を軽く開いて、かかと・お尻・肩甲骨・後ろ頭を壁につけて立った時に、腰と壁の間に手のひらが2枚以上入る方は「反り腰」です。
もっと簡単にいえば、前屈をして床に手がつかない人、料理や洗い物をする際、キッチンのシンクにお腹をくっつけて立っていて、服がびしょびしょになっている方は「反り腰」の可能性が高いです。
実はこの反り腰、骨盤が正しい位置より前側に傾いてしまうため骨盤底筋が働きにくく、お腹の力が抜けてしまっているために、腰痛だけでなくポッコリお腹、口角が下がる、二重アゴ、ストレートネック、巻き肩・肩こり、ネガティブ思考などにもつながっていくといいます。また、女性特有の症状として反り腰は子宮下垂や子宮脱、月経不順、尿もれなどを引き起こします。
反り腰による不調に悩まされないために、まずは鏡を見ながら耳の穴、肩の中央(肩の骨の出っ張ったところ)、くるぶしが一直線になるように立ってみてください。自然と下腹に力が入りお尻の穴をギュッとすぼめているのではないでしょうか。この本来の私たちの正しい姿勢を維持しながら5分間深呼吸をするだけでかなりきついので、是非やってみてください。
そして、1回わずか3分で効果が出る、骨盤のゆがみを正し股関節をゆるめる「おさんぽ整体」をやってみましょう。できるだけ歩幅を大きくとって前へ足を踏み出すことがポイントです。
まず、両手を軽くお尻に当てお尻の筋肉が動いていることを感じながら1分間歩きます。次に上体を起こし、お腹の肉を前から軽く押さえて正しい姿勢を意識しながら1分歩きます。最後に足と腕をリズムよく振りながら脱力して、できるだけリラックスして1分歩きます。たったこれだけです。
ぎっくり腰になった直後はいつも、次はならないぞ! と張り切って色々するのですが、結局続かないからこそまた繰り返しているわけですが。
今年の春は少しお高い良いスニーカーを手に入れたので、晴れの日の爽やかな風の吹く中を小鳥のさえずりや、木々の優しい葉擦れの音などを堪能しながら、おさんぽ整体に出たいと思います。土市、新宮方面の方、時々ウロウロしています。よろしくお願いいたします。
足を怪我してしまっていたり、膝が痛くて歩けない、なかなか運動は習慣にならない、という方は是非70~80代の方が続々と杖無しで歩けるようになっているたかき医院の座るだけで骨盤底筋および体幹を鍛える器械に会いに来てくださいね!! (たかき医院・仲栄美子院長)
2024年6月8日号
毎朝、15分ほどひたすら『あ』を書く。梵字。アジアをルーツの古代インド・サンスクリット語に由来を持つという。書ではあるが「書く」というより「描く」世界観から、仏教国以外でもその形状の妙で、外国でも関心を集める「書」だ。
梵字『あ』
は、これ。書
くことで自分の体調や精神のありようが分かる。「時間がない時は自分の手のひらに書き、その時の自分が分かります。体調が悪い時は、思うように書けないし、何か気になることがある時も、やはり出来は良くないです」。20年前から自宅で梵字教室を開き、昨年9月には小千谷市街地でも教室を開く。「初めの頃は数人でした。いまは20人を超える方々が梵字と向き合っています。写経に通じるものがありますが、梵字には独特の世界観と精神性があります」。
小学時代から書道が好きだった。書の面白さと奥深さに取りつかれ、30代の時、十日町市展で市展賞を取った。だが、「なんと言えばいいのでしょうか、市展賞を取ったことへの妬みでしょうか、そんな声が回りから聞こえ、嫌な感じを受けました。競うコンテストはもう止めようと、自分の世界を求めていこうと、そんな思いの時、梵字に出会いました」。
書は続けた。川西なかまの家での書道指導は20年余り続け、いまも子どもたち向け書道教室を川西・野口の自宅で開く。 一方で梵字は、自分の思いが放たれたように、繋
がりの世界を広げている。 すべてのモノの始まりの「あ(阿)」、すべてのモノの終わりの「うん(吽)」から、神羅万象の世界観を求め、梵字工房 「阿吽(あうん)」を主宰。号は『田邊奝武(ちょうぶ)』。国際梵字佛協会講師、梵字佛書道家であり書家である。
今春3月25日から4月24日まで、インド南北3000㌔を旅した。インド洋・アラビア海・ベンガル湾の三つの海が交わるインド最南端「コモリン岬」から最北地カシミールまで梵字奉納の旅。インドの大学留学経験を持つ研究者と同行。南部はヒンドゥー教、いまも紛争地になっている北部カシミールはイスラム教の地。インドの国情の複雑さを肌で感じた。
カシミールで14歳の少年、というより大人の雰囲気を持つ学生と出会った。「自分たちの言葉を含め英語など3ヵ国語を話します。彼らは生きるために言葉を覚えます。私たちを迎えてくれた人は英語はじめ地元の言葉など10ヵ国語を話します。話せなければ商売も取引もできない。生きるために言葉を身につける、日本との違いは大きいですね」。
インド旅の道中、持参した自書の梵字『あ』と意味を英訳した資料を、出会う人たちに手渡した。その形が少しアラビア語に似ているためか関心を示した。14歳の少年は、アラビア語で書かれた「コーラン」のハンドブックを譲ってくれた。「私たちの前で、コーランを詠んでくれました。独特の抑揚の声と言葉でした。イスラム教の精神性を感じました」。
2022年にはネパールへ梵字奉納で訪れた。「長野の小児科医の先生が、現地の乾燥地に100万本の木を植える活動を長年続け、先生が高齢で行けないため、代わりに活動支援する方と一緒に現地を訪ねました。乾燥の荒廃地が緑に変わっていて、子どもたちの病気も少なくなっていると聞きました。100万本の木運動で緑の土地に変わっていました」。
梵字がつなぐ不思議な縁は、日本でも出会いを生み出している。2011東日本大震災地の地、福島・会津若松で震災供養を込め梵字展を開いた。そのギャラリー・オーナーが宇宙開発機構JAXA勤務退職の人で、ロケット開発者で奝円流梵字を広めた三井奝円氏の導きを感じている。
一昨年は奈良・大神(おおみや)神社や三条市で梵字展を開き、今年も今月4日から21日まで大神神社で日本画などと展示会を開き、9月14日から22日までは十日町情報館で梵字展を開く。
「梵字を学ぶ人が増えていることは、自分と向き合う時間を求める人が増えている証しでもあります。筆を動かし、和紙に書く、その所作の中に高い精神性があります。特に梵字はその形ひとつ一つに意味がありますから」。
梵字奉納の国内巡りを続けている。「そうですね、まだ20都府県ちょっとでしょうか。全国を回るつもりです」。
◆バトンタッチします。
「北村フミ子さん」
2024年6月1日号
高校2年の夏。
「自転車で友だちと大阪万博へ行っていいか」
『だめだ』
「校長がいいと言えば、行ってもいいか」
時は1970年、大阪万博開催。父にダメ出しされたが、すぐに動いた。県立十日町高校、当時の校長は歴代に名を残す名物校長の深田虎雄校長。万博行きを直接聞いた。「いましか出来ないことだ、行ってこい」、それは明快だった。
高校2年の夏休み。友と2人で自転車にテント、自炊道具、食糧など積み、早朝出発。野宿をしながら長野から木曽路、岐阜、滋賀を通り大阪へ。「行きに6日かかった。友だちの親戚が大阪に居るというので、そこに泊まるつもりで行ったが、なんと引っ越していた。不動産屋に頼み込んで、その空き家に泊めてもらったが、電気はストップ、水風呂に入った」。夏休み後半の高校の北海道修学旅行に間に合わなくなり、「仕方なく、列車で帰ってきた」。
十高生徒会役員の時、校則廃止を求め直談判へ。その時の問答。
「喫茶店に行ったことがあるか」
『はい、行きました』
「校則違反だな。今日か
ら3日間停学だ」
その日は金曜日。この日午後から停学となり、金曜、土曜、日曜の3日間の停学。これが後世に伝わる『深田裁定』。十高時代の出会いが、その後の人生観に影響している。当時の倫理社会の教諭・髙橋竹雄先生(現勝又)の影響で「倫社の高校教諭」をめざす。
進学先は國學院大哲学科。学内を歩いていると少林寺拳法部の勧誘を受け入部。「そこは、あの漫画『花の応援団』そのままでした。オスッの毎日。理不尽、不条理、そんな世界だったが、自分が上になるようになり、そんな体質は変えた」。
大学4年、新潟県教員試験を受けるが採用ならず。そんな時「父から連絡が来て、駐在さんが誘いにきたぞと、試験だけでも受けてみろと言われ、受験した」。当初、学生運動に対する機動隊に良いイメージはなかったが新卒で入る。そこで良い同期、尊敬できる教官と出会い不安は払拭した。
警察官37年間、刑事畑を歩む。警察学校の指導巡査、関東管区機動隊なども勤務。「年間百体くらいの検死をした。先輩から『身内と思え』と繰り返し言われた」。事件はもちろん病死、溺死、事故死などあらゆる現場を経験。「退職したら遍路に行こうと決めていた」。それは現職時代に抱え背負った荷、まとわりついた『情念』を置いて来たかったから。
10年前に退職。すぐに四国八十八霊場・遍路の旅に出た。退職の春、4月中旬から6月上旬まで、すべてを歩き通した。高野山での出会いは忘れがたい。「御朱印を推す職員の方だったが『高野山から歩き始め、再び高野山まで歩き通す遍路はほとんどいない。本当にやる気か』と親身になって教えてくれた。この人との出会いがなければ、歩き通せなかったかもしれない」。今もこの人とは交友が続いている。
出会いは続く。現職もあと5年ほどになった頃。小出署勤務時代に通った英会話教室で活動を知る。浦佐・国際大学のベトナム留学生の「日本語チューター」(補佐指導者)活動をボランティアで務め、いまも続ける。
ある日、自宅に女子留学生3人を招く。ベトナム料理を作ってくれ食卓を囲む。「私の母は恥ずかしがって食卓に来なかった。すると『なぜおばあさんはここに来ないのですか』と」。呼びに行き食卓に一緒に着くと「母に次々と言葉を掛け、すっかり打ち解けた。あ~こういう事かと分かりましたね」。年配者を大切にする、その気持ちを強く感じた。その後、結婚式に招待され、二度もベトナムへ行った。日本語チューターはもう15年目になる。
さらに縁を感じる出会いは続く。地元川西・千手神社の奉賛会役員の誘いを受けた。県神社庁中魚沼支部の総代会副会長を務める。「でも、これ以上いろいろな役は引き受けない方がいいと家族に言われ、その日の朝、入会を断った。その日の昼、大学時代の友人で東京日野市の八坂神社の神主をしている友だちから本が贈られてきた。家族はそれを見て『これは何かの印、お告げかも』と言い、奉賛会役員を受けたんです。不思議な巡り合わせがあるもんですね。それにしても出会いは、おもしろい」。
◆バトンタッチします。「田邊武さん」
2024年5月25日号
小さい頃、『かんごしさんになりたいです』と願い事を七夕の短冊に書き、毎年竹に飾っていた。その思いをずっと抱き続け、いまその職にある。 厚生連・柏崎総合医療センターの内科病棟の看護師として日々、病と向き合う患者に寄り添っている。「まだまだ知識、経験、技術が足りていません」。
看護師として医療現場に立って3年、率直な思いだが、常に前を向いている。
看護師で助産師も務めた母の姿を、幼少期に「かっこいい」と見つめ、そのまま憧れの対象となり、小学・中学と具体的な目標になり、高校では「この道しかない」と看護学校への進学を早くから決めていた。
「夜勤の時には母は夜いませんでしたし、大晦日でも仕事に出かけ、災害など発生するとすぐに駆けつけました。そんな日々の母の姿がかっこよかったんです。私がケガをしてもすぐに手当してくれ、かっこよさと共に頼もしく感じました」。
さらに4歳違いの姉も看護師。自分が進む道の先を、母と姉が前を歩んでおり、その姿が明確な目標として常にあった。いま勤務する医療機関はそれぞれ違うが、共通の看護師として、母と娘という固い絆以上の連帯感でつながっている。
「母と姉、私の3人だけで旅行に行ったりします。父と兄は留守番です。旅先では仕事の話ばかりです。職場ではなかなか話せない事も、母と姉には気軽に話せて、私のリセットにもなっています」。現在の内科病棟では消化器内科・腎臓内科・血液内科の入院患者を担当。夜勤を含め、1ヵ月単位の勤務ローテーションが組まれている。
「自分だったら、自分の家族だったらと思って、いつも患者さんと向き合っています。どうしてほしいのか、退院後、家で過ごす時の事なども考えて、いつも接しています」。
辛い経験も多くしている。「人が亡くなる場面に初めて立ち会った時や、長い入院の中で亡くなってしまった時など、考えてしまうこともあります。先輩や母や姉と話すことで切り替えています。いまは仕事と家に帰った時などオン・オフのスイッチを切り替えています」。
病で困っている人の一番身近に居る存在でもある看護師。感謝の言葉は大きなエネルギー源になっている。「ありがとうという言葉を頂くと、看護師をしていて良かったと思います。入退院を繰り返す方が『今度も山本さんで良かった』と言っていただくと嬉しくなります。退院される時は、良かったと思うと同時に、家で大丈夫だろうかなどと心配な面もあります。もっともっと経験を積んでいきたいです」。
この先も見ている。いまの病棟の看護師婦長はガン医療の専門看護師でもあり、見習いたい先輩看護師でもある。さらに各種医療機器を扱う臨床工学技士への道も視野に入れている。「日々の経験を通じて、自分がさらに関心を持て、興味が深まるものを、医療看護の経験を積みながら見つけていきたいです」。
命と向き合う日々。「ためない」ようにしている。海を見ながら、「ボーとするのが好きなんです」。海が近い柏崎、時々海を見に行く。
▼バトンタッチします。
黒島有彩さん
2024年7月20日号
「この先、どうなっていくのか」。自分の中にある率直な心情だ。それは、少子化が進み高齢化がますます進む地に暮らす今であり、人口減少がさらに進むであろう現実であり、人と人が殺し合う世界の動きであり、沸騰していると表現される最近の地球環境である。
「そんなに大きいことを言っているわけではありませんが、正直、この先、どうなっていくんだという思いです」。
2000年世代は、社会との関係性で一番刺激を受ける時期にコロナ禍が重なり、将来を見据えた行先の進路変更を余儀なくされたり、対面授業ができず画面越しのオンラインになり、生身の人間同士の付き合いが希薄になった時間を過ごし、いまも影響を受け続けている世代でもある。
「多様性の時代は、なんでもありの時代でもあり、そうではない時代でもあると思います。あれもこれも多様性という言葉に組み込まれているようにも感じます」。
その端的な事例が「結婚」という形のあり方への疑問。「家族のあり方そのものが変わってきている気がします。将来は子どもの世話になるから我が子が必要という考えは世代によって違うし、自分たちの世代はそういう考えにはなっていないでしょう。だから結婚という形ではなく、パートナーについても形にこだわらない、いろいろな形があって良いと考えています。それも多様性ということなんでしょうね」。
さらに大きな要因もある。それは経済的なこと。「結婚は1プラス1は2ですが、その先に子どもが加わると、それが5にも6にでもなります。それほど経済的な面が大きくなっているのが、今ではないでしょうか」。所得格差は、その先の格差を生み出し、まさに「この先、どうなっていくのか」の疑問符はさらに膨らむことになる。
中学3年間、吹奏楽部でバスクラリネットを担当したが、「女子の強さを思い知ったので、高校では女子がいないサッカーをやりました」。
世代間というより性差ギャップを思い知った思春期だった。専門学校で調理師資格を取得したが、別の道に進む。いま社会人として働きながら「AI分野への関心が高まっています。もっと専門的なスキルを身に付けていきたい。これからどんな時代になるか、そのためにもAI分野は必要になると思っています」。
休日は長岡のバッティングセンターなどが入る長岡ドームに友だちと行く。「ストレス発散になりますね」。仲間たちとの時間を大切にする。
いよいよ大地の芸術祭が13日開幕。「受け入れ側という感覚です。外国からの人たちが増えてきているようですね」。その外国の在り様にも目が向く。「混沌としている世の中で、これからどういう方向に向かっていくのか、誰にも分からない不安があります。それは戦争ばかりではなく、平均気温がどんどん高くなっているなか、まさにこの先、どうなるのか、ですね」。
さらに「特に人口減少は深刻ですね。結婚の必要性が薄くなり、子どもが生まれない世になれば、ますます人口が減少します。ほんと、この先、どうーなっていくの、ですね」。
▼バトンタッチします。
山本陽向子さん
2024年7月13日号
勢いを増し燃え盛る火、初めての火災現場で初めての放水…。消防官になり初体験した現場は、想像を超える過酷さだった。「迫る火の勢いと熱さ、これが現場かと、ちょっと恐怖さえ感じました」。あれから5年、十日町地域消防本部消防官として事故や災害、病気など「命」と向き合う現場に出動し救急活動にあたっている。
「小さい頃から消防自動車や消防官へのあこがれがあり、十日町地域消防が毎年開く『消防ひろば』には必ず行っていました。はしご車にも乗せてもらいました」。そのあこがれが、さらに具体化したのが映画『252生存者あり』。大災害に見舞われた東京を舞台に「生還」と「救出」の消防レスキュー活動を描いた人間ドラマ。「あれを見て、レスキュー隊員になろうと決めました。あとはその目標に向かってまっしぐらでした」。
保育園時代に乗せてもらった消防はしご車。入署して3年目、消火訓練で消防はしご車バケットに入り高さ25㍍まで上がり、高所訓練を経験。「実は高い所がちょっと苦手でしたので、高いなぁーと感じながらの訓練でした」。だが、いまは経験を積み、高さへの恐怖心はなく、どんな現場にもひるむことなく臨んでいる。
地域の高齢化、独り暮らし世帯増加などから救急救命の出動が増加するなか、5年の現場経験から「救急救命士」の重要性を感じている。救急車乗車は「救急資格」を取得しなければ乗れない。入署2年目で資格取得した。救急救命士は乗車資格取得後、さらに5年間の救急経験、あるいは2千時間の救急業務経験など一定条件をクリアしないと資格試験に挑戦できない厳しい国家資格だ。それをめざしている。
「まだ救急業務の経験年数が足りていないので受験できませんが、必ず目標の救急救命士を取得します」。
十日町地域消防本部では年間3500件余、1日平均10件余の出動があり、年々増加傾向にある。消防官は24時間勤務後、非番(緊急時は出動)、休日という3日間サイクルが勤務体系。まさに体力と気力、精神力が求められる。一方で風邪の発熱、指先を切ったなど全国的に問題視される「不適切利用」も増加要因になっているといわれる。
体力づくりはランニングだ。非番や休日で走り込む時は30㌔ほど走る。十日町の国道117号を本町からスタート、小千谷境で折返し、そのまま土市・姿まで行き、本町に引き返すルート。30㌔を超える距離を2時間弱で走る。
2022年10月には初のフルマラソンに挑戦。「金沢マラソンです。大会3ヵ月ほど前に先輩から、俺が出られなくなったので出てみないかと誘われ、やってみるかと出場を決めました」。初出場ながら2時間50分台で走り切った。いまも1日10㌔ほど走っている。高校時代の陸上部活動がいまに通じる。800㍍、1500㍍に取り組み、3年の時は駅伝で県大会入賞を果たしている。
今年2月、佐渡出身の萌さんと入籍。今春の新潟ハーフマラソンに一緒に出場。「結構、走るんですよ。今度は2人でフルマラソン出場をめざします」。今秋10月、結婚式を挙げる。「そうですね、来年4月の『佐渡ときマラソン』に2人で出場する予定です」。良きパートナーとの出会いは、目標とする「救急救命士」取得へのモチベーションを高めている。
数々の現場を体験し、命と向き合う日
々。悲惨な現場、目の前で命が途絶えていく現場、言葉に表せない数々の惨状。消防官、救急隊員の心身の負荷は計り知れない。
「すぐには切り替えられない場面もありますが、先輩などと話をして貯めないようにしています。私の場合、ランニングがリセットの場になっています。今後、さらに私たちの出動数は増えていくと思いますが、それが私たちの使命ですから」。
▼バトンタッチします。
栁拓玖さん
2024年7月6日号
運命は、どう動くか分からない。長野・松本市で大学生活を送るが、コロナ禍でオンライン授業が多くなり、そんな時、「なにか違う」と感じた。佐渡にある実家が営む旅館を手伝うなかで、父がSNSで懐石料理店の人材募集を見つけ「こんなのがあるよ」と見せられ、行こうと即決。その地が十日町市。
あれから2年、この地で運命の出会い。今年2月、地元の消防士と結婚。それも「初めての地でしたから、飲み友だちがほしい…」と、妻有地域限定のマッチングアプリに登録、そこで出会ったのが消防士。とんとんと、結婚にまで至った。
佐渡・真野湾に面した地で両親が営む『伊藤屋旅館』。父で6代目の老舗宿だ。「小さい頃から海に潜っていました。仕入れに行く父や、山野に行く母にいつもついて行き、海も山も好きになり、特に食べることが大好きで、それは今も変わっていません」。
幼少期から「女将」として動き回る母の姿を見て育ち、「かっこいい。私も女将になりたい」と小学生の頃から口に出し始めた。その思いは、中学、高校、そして大学に至るなかで、次第に「将来的な予感」となり、料理の世界に入り、それは「確信」に変わった。その決定打が十日町市での出会いだった。
飲み友だちを求めた結果が、人生のパートナーに至った。「私は条件を出しました。食で好き嫌いが全く無い人、一緒にコーヒーとお酒を飲んでくれる人」。でも、「実は私は結婚できないんじゃないかと思っていました。我が強いので。私の意見を受け入れてくれ、どんな時も支えになると約束してくれました。それに誠実さでしょうか」。これこそ運命の導きか。
「食」への探求心は人一倍強い。「美味しいものが好き過ぎて、食材への関心がいまも高まっています」。特に「きのこ」。佐渡には松林があり「高校時代、よく松茸を採っていましたし、世界三大きのこのトリュフ、ポルチーニなども佐渡では採れます」。当然きのこ料理にも関心深い。昨年12月の誕生日祝いには、結婚前の彼に分厚い『きのこ図鑑』をリクエスト、念願の大図鑑を手に入れた。きのこは今の仕事にも通じる。十日町から八箇峠越えで六日町の雪国まいたけに通勤している。
「佐渡は食材が豊かです。海のもの、山のもの、さらにフルーツも豊富で、りんご・みかん・ぶどう・さくらんぼなど、いろいろ採れます」。父は旅館と併設の「レストランこさど」のシェフでありパティシエとしてスイーツも担当する。「十日町も山菜など豊富ですね。この時期もきのこが出ますよ。ウスヒラタケなど。休日には山へよく行きます」。植物知識は母との山野遊びからだ。
この行動力の原動力は「思い立ったらすぐに動きます」。大学在学中、「やりたいことは出来ました」。それは外国への留学。コロナ直前の2019年8月、夏休みを使い1ヵ月間、オーストラリアのニューカッスル大学に短期留学、ホームスティしながら外国体験。この留学でも食への関心が増した。「様々な料理方法の食材を食べました。勉強になりました」。
振り返ると体験のすべてが「女将」への道につながる。小学時代は水泳に取り組み、中学ではバレーボールと陸上・駅伝。高校では一転、書道と茶道、吹奏楽部ではクラリネットを。「茶道は15年ほど続けました。美味しいお菓子が食べられるから、と始めましたが、もともと抹茶が好きでしたから」。
いまも水泳は毎週1時間ほど泳ぎ、スポーツジムで筋トレやランニングをする。先月の新潟市ハーフマラソンに出場。体力づくり、体形づくり、さらに健康維持と、これもすべて「女将」につながっている。
「そうですね、30歳までには佐渡に戻ります。彼が佐渡の消防士に入るための準備期間も必要ですから」。経営を引き継ぐと7代目になる。「食にはこだわりたいです。佐渡でしか食べられないものを提供したい。まだまだ知らないことが多く、皆さんから教えて頂いています」。
何年か後、佐渡の伊藤屋旅館で「萌女将」に会えるだろう。
▼バトンタッチします。
伊藤隆汰さん
2024年6月29日号
水品家の「農業カレンダー」は2月下旬から始まる。電熱線を地中に回した苗床ハウスでの播種からスタート。外はまだ雪の山。「ナスとピーマンは発芽まで時間がかかるんです。5月の苗販売までに間に合わせるには、この時期からなんですよ」。 春耕というにはちょっと早いが、
水品家の営農は雪の中から動き出す。
2024年6月22日号
それは、『じろばた』開店後、5年ほど経った頃だった。「そばの消費拡大をしたいんだが…」、農協の担当者から言われた。開店準備の時のように仲間たちと談義を重ねた。「その時、大先輩の富井トヨさんが言ったんです。『祖母だったか曾祖母だったか、昔はいなりの中に蕎麦を入れていたと聞いたことがある』。
この富井さんのひと言
から始まっ
たんです」。ヒット商品『そばいなり』誕生の秘話である。
2024年6月15日号
生徒に鏡を渡す。課題は自画像。「紙を丸くくり抜き、出た鼻から描きます」。渡された画用紙を前に生徒たちは鏡で自分の鼻を見ながら、鼻の頭から左右の小鼻、鼻筋、鼻の下、鼻の溝を描き、『次は口。上唇、下唇、筋があるね。よく見て、よーく見て』。
さらに顎を描き、目の周りを、左右の頬を描くと顔らしくなってきた。額、さらに首と続き、次に耳。『いよいよ目玉を入れるよ。さらに眉毛。次に髪の毛、左右の髪は違うよ、よく見てね…』。授業を再現するとこんな感じだった。その結果、個性たっぷりの自画像が出来上がった。
「生徒たちは、でき上がった自分の作品を見て、驚くと共に感動しますよ。この描き方は、私に絵の楽しさを教えてくれた松本キミ子先生です。昨年亡くなりましたが『人はリアリズムに描いたものには感動する』の言葉通りですね」。
2024年6月8日号
ここ2週間、ぎっくり腰でした。もともとぎっくり腰になりやすい話を以前させていただいたと思うのですが、年齢とともに押し寄せる胸椎(胸の背骨)と股関節の硬さのケアをきちんとしていないと、腰が胸椎と股関節の動きをカバーしようとして無理がかかり、「あ~…今やりました」ということになってしまうのです。そして、もう一つぎっくり腰の原因としてあるのは「反り腰」です。
女性で「反り腰」と言われたことのある方は結構いるのではないかと思います。つま先を軽く開いて、かかと・お尻・肩甲骨・後ろ頭を壁につけて立った時に、腰と壁の間に手のひらが2枚以上入る方は「反り腰」です。
もっと簡単にいえば、前屈をして床に手がつかない人、料理や洗い物をする際、キッチンのシンクにお腹をくっつけて立っていて、服がびしょびしょになっている方は「反り腰」の可能性が高いです。
実はこの反り腰、骨盤が正しい位置より前側に傾いてしまうため骨盤底筋が働きにくく、お腹の力が抜けてしまっているために、腰痛だけでなくポッコリお腹、口角が下がる、二重アゴ、ストレートネック、巻き肩・肩こり、ネガティブ思考などにもつながっていくといいます。また、女性特有の症状として反り腰は子宮下垂や子宮脱、月経不順、尿もれなどを引き起こします。
反り腰による不調に悩まされないために、まずは鏡を見ながら耳の穴、肩の中央(肩の骨の出っ張ったところ)、くるぶしが一直線になるように立ってみてください。自然と下腹に力が入りお尻の穴をギュッとすぼめているのではないでしょうか。この本来の私たちの正しい姿勢を維持しながら5分間深呼吸をするだけでかなりきついので、是非やってみてください。
そして、1回わずか3分で効果が出る、骨盤のゆがみを正し股関節をゆるめる「おさんぽ整体」をやってみましょう。できるだけ歩幅を大きくとって前へ足を踏み出すことがポイントです。
まず、両手を軽くお尻に当てお尻の筋肉が動いていることを感じながら1分間歩きます。次に上体を起こし、お腹の肉を前から軽く押さえて正しい姿勢を意識しながら1分歩きます。最後に足と腕をリズムよく振りながら脱力して、できるだけリラックスして1分歩きます。たったこれだけです。
ぎっくり腰になった直後はいつも、次はならないぞ! と張り切って色々するのですが、結局続かないからこそまた繰り返しているわけですが。
今年の春は少しお高い良いスニーカーを手に入れたので、晴れの日の爽やかな風の吹く中を小鳥のさえずりや、木々の優しい葉擦れの音などを堪能しながら、おさんぽ整体に出たいと思います。土市、新宮方面の方、時々ウロウロしています。よろしくお願いいたします。
足を怪我してしまっていたり、膝が痛くて歩けない、なかなか運動は習慣にならない、という方は是非70~80代の方が続々と杖無しで歩けるようになっているたかき医院の座るだけで骨盤底筋および体幹を鍛える器械に会いに来てくださいね!! (たかき医院・仲栄美子院長)
2024年6月8日号
毎朝、15分ほどひたすら『あ』を書く。梵字。アジアをルーツの古代インド・サンスクリット語に由来を持つという。書ではあるが「書く」というより「描く」世界観から、仏教国以外でもその形状の妙で、外国でも関心を集める「書」だ。
梵字『あ』
は、これ。書
くことで自分の体調や精神のありようが分かる。「時間がない時は自分の手のひらに書き、その時の自分が分かります。体調が悪い時は、思うように書けないし、何か気になることがある時も、やはり出来は良くないです」。20年前から自宅で梵字教室を開き、昨年9月には小千谷市街地でも教室を開く。「初めの頃は数人でした。いまは20人を超える方々が梵字と向き合っています。写経に通じるものがありますが、梵字には独特の世界観と精神性があります」。
小学時代から書道が好きだった。書の面白さと奥深さに取りつかれ、30代の時、十日町市展で市展賞を取った。だが、「なんと言えばいいのでしょうか、市展賞を取ったことへの妬みでしょうか、そんな声が回りから聞こえ、嫌な感じを受けました。競うコンテストはもう止めようと、自分の世界を求めていこうと、そんな思いの時、梵字に出会いました」。
書は続けた。川西なかまの家での書道指導は20年余り続け、いまも子どもたち向け書道教室を川西・野口の自宅で開く。 一方で梵字は、自分の思いが放たれたように、繋
がりの世界を広げている。 すべてのモノの始まりの「あ(阿)」、すべてのモノの終わりの「うん(吽)」から、神羅万象の世界観を求め、梵字工房 「阿吽(あうん)」を主宰。号は『田邊奝武(ちょうぶ)』。国際梵字佛協会講師、梵字佛書道家であり書家である。
今春3月25日から4月24日まで、インド南北3000㌔を旅した。インド洋・アラビア海・ベンガル湾の三つの海が交わるインド最南端「コモリン岬」から最北地カシミールまで梵字奉納の旅。インドの大学留学経験を持つ研究者と同行。南部はヒンドゥー教、いまも紛争地になっている北部カシミールはイスラム教の地。インドの国情の複雑さを肌で感じた。
カシミールで14歳の少年、というより大人の雰囲気を持つ学生と出会った。「自分たちの言葉を含め英語など3ヵ国語を話します。彼らは生きるために言葉を覚えます。私たちを迎えてくれた人は英語はじめ地元の言葉など10ヵ国語を話します。話せなければ商売も取引もできない。生きるために言葉を身につける、日本との違いは大きいですね」。
インド旅の道中、持参した自書の梵字『あ』と意味を英訳した資料を、出会う人たちに手渡した。その形が少しアラビア語に似ているためか関心を示した。14歳の少年は、アラビア語で書かれた「コーラン」のハンドブックを譲ってくれた。「私たちの前で、コーランを詠んでくれました。独特の抑揚の声と言葉でした。イスラム教の精神性を感じました」。
2022年にはネパールへ梵字奉納で訪れた。「長野の小児科医の先生が、現地の乾燥地に100万本の木を植える活動を長年続け、先生が高齢で行けないため、代わりに活動支援する方と一緒に現地を訪ねました。乾燥の荒廃地が緑に変わっていて、子どもたちの病気も少なくなっていると聞きました。100万本の木運動で緑の土地に変わっていました」。
梵字がつなぐ不思議な縁は、日本でも出会いを生み出している。2011東日本大震災地の地、福島・会津若松で震災供養を込め梵字展を開いた。そのギャラリー・オーナーが宇宙開発機構JAXA勤務退職の人で、ロケット開発者で奝円流梵字を広めた三井奝円氏の導きを感じている。
一昨年は奈良・大神(おおみや)神社や三条市で梵字展を開き、今年も今月4日から21日まで大神神社で日本画などと展示会を開き、9月14日から22日までは十日町情報館で梵字展を開く。
「梵字を学ぶ人が増えていることは、自分と向き合う時間を求める人が増えている証しでもあります。筆を動かし、和紙に書く、その所作の中に高い精神性があります。特に梵字はその形ひとつ一つに意味がありますから」。
梵字奉納の国内巡りを続けている。「そうですね、まだ20都府県ちょっとでしょうか。全国を回るつもりです」。
◆バトンタッチします。
「北村フミ子さん」
2024年6月1日号
高校2年の夏。
「自転車で友だちと大阪万博へ行っていいか」
『だめだ』
「校長がいいと言えば、行ってもいいか」
時は1970年、大阪万博開催。父にダメ出しされたが、すぐに動いた。県立十日町高校、当時の校長は歴代に名を残す名物校長の深田虎雄校長。万博行きを直接聞いた。「いましか出来ないことだ、行ってこい」、それは明快だった。
高校2年の夏休み。友と2人で自転車にテント、自炊道具、食糧など積み、早朝出発。野宿をしながら長野から木曽路、岐阜、滋賀を通り大阪へ。「行きに6日かかった。友だちの親戚が大阪に居るというので、そこに泊まるつもりで行ったが、なんと引っ越していた。不動産屋に頼み込んで、その空き家に泊めてもらったが、電気はストップ、水風呂に入った」。夏休み後半の高校の北海道修学旅行に間に合わなくなり、「仕方なく、列車で帰ってきた」。
十高生徒会役員の時、校則廃止を求め直談判へ。その時の問答。
「喫茶店に行ったことがあるか」
『はい、行きました』
「校則違反だな。今日か
ら3日間停学だ」
その日は金曜日。この日午後から停学となり、金曜、土曜、日曜の3日間の停学。これが後世に伝わる『深田裁定』。十高時代の出会いが、その後の人生観に影響している。当時の倫理社会の教諭・髙橋竹雄先生(現勝又)の影響で「倫社の高校教諭」をめざす。
進学先は國學院大哲学科。学内を歩いていると少林寺拳法部の勧誘を受け入部。「そこは、あの漫画『花の応援団』そのままでした。オスッの毎日。理不尽、不条理、そんな世界だったが、自分が上になるようになり、そんな体質は変えた」。
大学4年、新潟県教員試験を受けるが採用ならず。そんな時「父から連絡が来て、駐在さんが誘いにきたぞと、試験だけでも受けてみろと言われ、受験した」。当初、学生運動に対する機動隊に良いイメージはなかったが新卒で入る。そこで良い同期、尊敬できる教官と出会い不安は払拭した。
警察官37年間、刑事畑を歩む。警察学校の指導巡査、関東管区機動隊なども勤務。「年間百体くらいの検死をした。先輩から『身内と思え』と繰り返し言われた」。事件はもちろん病死、溺死、事故死などあらゆる現場を経験。「退職したら遍路に行こうと決めていた」。それは現職時代に抱え背負った荷、まとわりついた『情念』を置いて来たかったから。
10年前に退職。すぐに四国八十八霊場・遍路の旅に出た。退職の春、4月中旬から6月上旬まで、すべてを歩き通した。高野山での出会いは忘れがたい。「御朱印を推す職員の方だったが『高野山から歩き始め、再び高野山まで歩き通す遍路はほとんどいない。本当にやる気か』と親身になって教えてくれた。この人との出会いがなければ、歩き通せなかったかもしれない」。今もこの人とは交友が続いている。
出会いは続く。現職もあと5年ほどになった頃。小出署勤務時代に通った英会話教室で活動を知る。浦佐・国際大学のベトナム留学生の「日本語チューター」(補佐指導者)活動をボランティアで務め、いまも続ける。
ある日、自宅に女子留学生3人を招く。ベトナム料理を作ってくれ食卓を囲む。「私の母は恥ずかしがって食卓に来なかった。すると『なぜおばあさんはここに来ないのですか』と」。呼びに行き食卓に一緒に着くと「母に次々と言葉を掛け、すっかり打ち解けた。あ~こういう事かと分かりましたね」。年配者を大切にする、その気持ちを強く感じた。その後、結婚式に招待され、二度もベトナムへ行った。日本語チューターはもう15年目になる。
さらに縁を感じる出会いは続く。地元川西・千手神社の奉賛会役員の誘いを受けた。県神社庁中魚沼支部の総代会副会長を務める。「でも、これ以上いろいろな役は引き受けない方がいいと家族に言われ、その日の朝、入会を断った。その日の昼、大学時代の友人で東京日野市の八坂神社の神主をしている友だちから本が贈られてきた。家族はそれを見て『これは何かの印、お告げかも』と言い、奉賛会役員を受けたんです。不思議な巡り合わせがあるもんですね。それにしても出会いは、おもしろい」。
◆バトンタッチします。「田邊武さん」
2024年5月25日号