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ひとから人からヒトへ一覧

  • 『女将への道、高まる食への関心』

    伊藤 萌さん(2000年生まれ)

     運命は、どう動くか分からない。長野・松本市で大学生活を送るが、コロナ禍でオンライン授業が多くなり、そんな時、「なにか違う」と感じた。佐渡にある実家が営む旅館を手伝うなかで、父がSNSで懐石料理店の人材募集を見つけ「こんなのがあるよ」と見せられ、行こうと即決。その地が十日町市。
     あれから2年、この地で運命の出会い。今年2月、地元の消防士と結婚。それも「初めての地でしたから、飲み友だちがほしい…」と、妻有地域限定のマッチングアプリに登録、そこで出会ったのが消防士。とんとんと、結婚にまで至った。

     佐渡・真野湾に面した地で両親が営む『伊藤屋旅館』。父で6代目の老舗宿だ。「小さい頃から海に潜っていました。仕入れに行く父や、山野に行く母にいつもついて行き、海も山も好きになり、特に食べることが大好きで、それは今も変わっていません」。
     幼少期から「女将」として動き回る母の姿を見て育ち、「かっこいい。私も女将になりたい」と小学生の頃から口に出し始めた。その思いは、中学、高校、そして大学に至るなかで、次第に「将来的な予感」となり、料理の世界に入り、それは「確信」に変わった。その決定打が十日町市での出会いだった。
     飲み友だちを求めた結果が、人生のパートナーに至った。「私は条件を出しました。食で好き嫌いが全く無い人、一緒にコーヒーとお酒を飲んでくれる人」。でも、「実は私は結婚できないんじゃないかと思っていました。我が強いので。私の意見を受け入れてくれ、どんな時も支えになると約束してくれました。それに誠実さでしょうか」。これこそ運命の導きか。

     「食」への探求心は人一倍強い。「美味しいものが好き過ぎて、食材への関心がいまも高まっています」。特に「きのこ」。佐渡には松林があり「高校時代、よく松茸を採っていましたし、世界三大きのこのトリュフ、ポルチーニなども佐渡では採れます」。当然きのこ料理にも関心深い。昨年12月の誕生日祝いには、結婚前の彼に分厚い『きのこ図鑑』をリクエスト、念願の大図鑑を手に入れた。きのこは今の仕事にも通じる。十日町から八箇峠越えで六日町の雪国まいたけに通勤している。
     「佐渡は食材が豊かです。海のもの、山のもの、さらにフルーツも豊富で、りんご・みかん・ぶどう・さくらんぼなど、いろいろ採れます」。父は旅館と併設の「レストランこさど」のシェフでありパティシエとしてスイーツも担当する。「十日町も山菜など豊富ですね。この時期もきのこが出ますよ。ウスヒラタケなど。休日には山へよく行きます」。植物知識は母との山野遊びからだ。

     この行動力の原動力は「思い立ったらすぐに動きます」。大学在学中、「やりたいことは出来ました」。それは外国への留学。コロナ直前の2019年8月、夏休みを使い1ヵ月間、オーストラリアのニューカッスル大学に短期留学、ホームスティしながら外国体験。この留学でも食への関心が増した。「様々な料理方法の食材を食べました。勉強になりました」。

     振り返ると体験のすべてが「女将」への道につながる。小学時代は水泳に取り組み、中学ではバレーボールと陸上・駅伝。高校では一転、書道と茶道、吹奏楽部ではクラリネットを。「茶道は15年ほど続けました。美味しいお菓子が食べられるから、と始めましたが、もともと抹茶が好きでしたから」。
     いまも水泳は毎週1時間ほど泳ぎ、スポーツジムで筋トレやランニングをする。先月の新潟市ハーフマラソンに出場。体力づくり、体形づくり、さらに健康維持と、これもすべて「女将」につながっている。
     「そうですね、30歳までには佐渡に戻ります。彼が佐渡の消防士に入るための準備期間も必要ですから」。経営を引き継ぐと7代目になる。「食にはこだわりたいです。佐渡でしか食べられないものを提供したい。まだまだ知らないことが多く、皆さんから教えて頂いています」。
     何年か後、佐渡の伊藤屋旅館で「萌女将」に会えるだろう。

    ▼バトンタッチします。
    伊藤隆汰さん

    2024年6月29日号

  • 『みんな違います。だから面白いんです』

    水品 直子さん(1955年生まれ)

     水品家の「農業カレンダー」は2月下旬から始まる。電熱線を地中に回した苗床ハウスでの播種からスタート。外はまだ雪の山。「ナスとピーマンは発芽まで時間がかかるんです。5月の苗販売までに間に合わせるには、この時期からなんですよ」。 春耕というにはちょっと早いが、
    水品家の営農は雪の中から動き出す。

    2024年6月22日号

  • ヒット商品「そばいなり」、おんなしょパワーで

    平野八重子さん(1949年生まれ)

     それは、『じろばた』開店後、5年ほど経った頃だった。「そばの消費拡大をしたいんだが…」、農協の担当者から言われた。開店準備の時のように仲間たちと談義を重ねた。「その時、大先輩の富井トヨさんが言ったんです。『祖母だったか曾祖母だったか、昔はいなりの中に蕎麦を入れていたと聞いたことがある』。
    この富井さんのひと言
    から始まっ
    たんです」。ヒット商品『そばいなり』誕生の秘話である。

    2024年6月15日号

  • 『ボクにはボクの夢がある、 キミにはキミの夢がある』

    北村フミ子さん(1949年生まれ)

     生徒に鏡を渡す。課題は自画像。「紙を丸くくり抜き、出た鼻から描きます」。渡された画用紙を前に生徒たちは鏡で自分の鼻を見ながら、鼻の頭から左右の小鼻、鼻筋、鼻の下、鼻の溝を描き、『次は口。上唇、下唇、筋があるね。よく見て、よーく見て』。
    さらに顎を描き、目の周りを、左右の頬を描くと顔らしくなってきた。額、さらに首と続き、次に耳。『いよいよ目玉を入れるよ。さらに眉毛。次に髪の毛、左右の髪は違うよ、よく見てね…』。授業を再現するとこんな感じだった。その結果、個性たっぷりの自画像が出来上がった。
     「生徒たちは、でき上がった自分の作品を見て、驚くと共に感動しますよ。この描き方は、私に絵の楽しさを教えてくれた松本キミ子先生です。昨年亡くなりましたが『人はリアリズムに描いたものには感動する』の言葉通りですね」。

    2024年6月8日号

  • ぎっくり腰、その原因は「反り腰」

    1回わずか3分、「おさんぽ整体」を

    Vol 99

     ここ2週間、ぎっくり腰でした。もともとぎっくり腰になりやすい話を以前させていただいたと思うのですが、年齢とともに押し寄せる胸椎(胸の背骨)と股関節の硬さのケアをきちんとしていないと、腰が胸椎と股関節の動きをカバーしようとして無理がかかり、「あ~…今やりました」ということになってしまうのです。そして、もう一つぎっくり腰の原因としてあるのは「反り腰」です。
     女性で「反り腰」と言われたことのある方は結構いるのではないかと思います。つま先を軽く開いて、かかと・お尻・肩甲骨・後ろ頭を壁につけて立った時に、腰と壁の間に手のひらが2枚以上入る方は「反り腰」です。
     もっと簡単にいえば、前屈をして床に手がつかない人、料理や洗い物をする際、キッチンのシンクにお腹をくっつけて立っていて、服がびしょびしょになっている方は「反り腰」の可能性が高いです。
     実はこの反り腰、骨盤が正しい位置より前側に傾いてしまうため骨盤底筋が働きにくく、お腹の力が抜けてしまっているために、腰痛だけでなくポッコリお腹、口角が下がる、二重アゴ、ストレートネック、巻き肩・肩こり、ネガティブ思考などにもつながっていくといいます。また、女性特有の症状として反り腰は子宮下垂や子宮脱、月経不順、尿もれなどを引き起こします。
     反り腰による不調に悩まされないために、まずは鏡を見ながら耳の穴、肩の中央(肩の骨の出っ張ったところ)、くるぶしが一直線になるように立ってみてください。自然と下腹に力が入りお尻の穴をギュッとすぼめているのではないでしょうか。この本来の私たちの正しい姿勢を維持しながら5分間深呼吸をするだけでかなりきついので、是非やってみてください。
     そして、1回わずか3分で効果が出る、骨盤のゆがみを正し股関節をゆるめる「おさんぽ整体」をやってみましょう。できるだけ歩幅を大きくとって前へ足を踏み出すことがポイントです。
     まず、両手を軽くお尻に当てお尻の筋肉が動いていることを感じながら1分間歩きます。次に上体を起こし、お腹の肉を前から軽く押さえて正しい姿勢を意識しながら1分歩きます。最後に足と腕をリズムよく振りながら脱力して、できるだけリラックスして1分歩きます。たったこれだけです。
     ぎっくり腰になった直後はいつも、次はならないぞ! と張り切って色々するのですが、結局続かないからこそまた繰り返しているわけですが。
    今年の春は少しお高い良いスニーカーを手に入れたので、晴れの日の爽やかな風の吹く中を小鳥のさえずりや、木々の優しい葉擦れの音などを堪能しながら、おさんぽ整体に出たいと思います。土市、新宮方面の方、時々ウロウロしています。よろしくお願いいたします。
     足を怪我してしまっていたり、膝が痛くて歩けない、なかなか運動は習慣にならない、という方は是非70~80代の方が続々と杖無しで歩けるようになっているたかき医院の座るだけで骨盤底筋および体幹を鍛える器械に会いに来てくださいね!! (たかき医院・仲栄美子院長)

    2024年6月8日号

  • 『毎朝書く「あ」、その日の始まり』

    田邊 武さん(1960年生まれ)

     毎朝、15分ほどひたすら『あ』を書く。梵字。アジアをルーツの古代インド・サンスクリット語に由来を持つという。書ではあるが「書く」というより「描く」世界観から、仏教国以外でもその形状の妙で、外国でも関心を集める「書」だ。
     梵字『あ』
    は、これ。書
    くことで自分の体調や精神のありようが分かる。「時間がない時は自分の手のひらに書き、その時の自分が分かります。体調が悪い時は、思うように書けないし、何か気になることがある時も、やはり出来は良くないです」。20年前から自宅で梵字教室を開き、昨年9月には小千谷市街地でも教室を開く。「初めの頃は数人でした。いまは20人を超える方々が梵字と向き合っています。写経に通じるものがありますが、梵字には独特の世界観と精神性があります」。

     小学時代から書道が好きだった。書の面白さと奥深さに取りつかれ、30代の時、十日町市展で市展賞を取った。だが、「なんと言えばいいのでしょうか、市展賞を取ったことへの妬みでしょうか、そんな声が回りから聞こえ、嫌な感じを受けました。競うコンテストはもう止めようと、自分の世界を求めていこうと、そんな思いの時、梵字に出会いました」。
     書は続けた。川西なかまの家での書道指導は20年余り続け、いまも子どもたち向け書道教室を川西・野口の自宅で開く。 一方で梵字は、自分の思いが放たれたように、繋
    がりの世界を広げている。 すべてのモノの始まりの「あ(阿)」、すべてのモノの終わりの「うん(吽)」から、神羅万象の世界観を求め、梵字工房 「阿吽(あうん)」を主宰。号は『田邊奝武(ちょうぶ)』。国際梵字佛協会講師、梵字佛書道家であり書家である。

     今春3月25日から4月24日まで、インド南北3000㌔を旅した。インド洋・アラビア海・ベンガル湾の三つの海が交わるインド最南端「コモリン岬」から最北地カシミールまで梵字奉納の旅。インドの大学留学経験を持つ研究者と同行。南部はヒンドゥー教、いまも紛争地になっている北部カシミールはイスラム教の地。インドの国情の複雑さを肌で感じた。
     カシミールで14歳の少年、というより大人の雰囲気を持つ学生と出会った。「自分たちの言葉を含め英語など3ヵ国語を話します。彼らは生きるために言葉を覚えます。私たちを迎えてくれた人は英語はじめ地元の言葉など10ヵ国語を話します。話せなければ商売も取引もできない。生きるために言葉を身につける、日本との違いは大きいですね」。
     インド旅の道中、持参した自書の梵字『あ』と意味を英訳した資料を、出会う人たちに手渡した。その形が少しアラビア語に似ているためか関心を示した。14歳の少年は、アラビア語で書かれた「コーラン」のハンドブックを譲ってくれた。「私たちの前で、コーランを詠んでくれました。独特の抑揚の声と言葉でした。イスラム教の精神性を感じました」。
     2022年にはネパールへ梵字奉納で訪れた。「長野の小児科医の先生が、現地の乾燥地に100万本の木を植える活動を長年続け、先生が高齢で行けないため、代わりに活動支援する方と一緒に現地を訪ねました。乾燥の荒廃地が緑に変わっていて、子どもたちの病気も少なくなっていると聞きました。100万本の木運動で緑の土地に変わっていました」。
     
     梵字がつなぐ不思議な縁は、日本でも出会いを生み出している。2011東日本大震災地の地、福島・会津若松で震災供養を込め梵字展を開いた。そのギャラリー・オーナーが宇宙開発機構JAXA勤務退職の人で、ロケット開発者で奝円流梵字を広めた三井奝円氏の導きを感じている。
     一昨年は奈良・大神(おおみや)神社や三条市で梵字展を開き、今年も今月4日から21日まで大神神社で日本画などと展示会を開き、9月14日から22日までは十日町情報館で梵字展を開く。
     
     「梵字を学ぶ人が増えていることは、自分と向き合う時間を求める人が増えている証しでもあります。筆を動かし、和紙に書く、その所作の中に高い精神性があります。特に梵字はその形ひとつ一つに意味がありますから」。
     梵字奉納の国内巡りを続けている。「そうですね、まだ20都府県ちょっとでしょうか。全国を回るつもりです」。
      
    ◆バトンタッチします。
     「北村フミ子さん」

    2024年6月1日号

  • 『四国八十八霊場、お遍路で「荷」を置く』

    高橋 勇さん(1953年生まれ)

     高校2年の夏。
    「自転車で友だちと大阪万博へ行っていいか」
    『だめだ』
    「校長がいいと言えば、行ってもいいか」

     時は1970年、大阪万博開催。父にダメ出しされたが、すぐに動いた。県立十日町高校、当時の校長は歴代に名を残す名物校長の深田虎雄校長。万博行きを直接聞いた。「いましか出来ないことだ、行ってこい」、それは明快だった。
     高校2年の夏休み。友と2人で自転車にテント、自炊道具、食糧など積み、早朝出発。野宿をしながら長野から木曽路、岐阜、滋賀を通り大阪へ。「行きに6日かかった。友だちの親戚が大阪に居るというので、そこに泊まるつもりで行ったが、なんと引っ越していた。不動産屋に頼み込んで、その空き家に泊めてもらったが、電気はストップ、水風呂に入った」。夏休み後半の高校の北海道修学旅行に間に合わなくなり、「仕方なく、列車で帰ってきた」。
     十高生徒会役員の時、校則廃止を求め直談判へ。その時の問答。
    「喫茶店に行ったことがあるか」
    『はい、行きました』
    「校則違反だな。今日か
    ら3日間停学だ」
     その日は金曜日。この日午後から停学となり、金曜、土曜、日曜の3日間の停学。これが後世に伝わる『深田裁定』。十高時代の出会いが、その後の人生観に影響している。当時の倫理社会の教諭・髙橋竹雄先生(現勝又)の影響で「倫社の高校教諭」をめざす。
     進学先は國學院大哲学科。学内を歩いていると少林寺拳法部の勧誘を受け入部。「そこは、あの漫画『花の応援団』そのままでした。オスッの毎日。理不尽、不条理、そんな世界だったが、自分が上になるようになり、そんな体質は変えた」。
     大学4年、新潟県教員試験を受けるが採用ならず。そんな時「父から連絡が来て、駐在さんが誘いにきたぞと、試験だけでも受けてみろと言われ、受験した」。当初、学生運動に対する機動隊に良いイメージはなかったが新卒で入る。そこで良い同期、尊敬できる教官と出会い不安は払拭した。

     警察官37年間、刑事畑を歩む。警察学校の指導巡査、関東管区機動隊なども勤務。「年間百体くらいの検死をした。先輩から『身内と思え』と繰り返し言われた」。事件はもちろん病死、溺死、事故死などあらゆる現場を経験。「退職したら遍路に行こうと決めていた」。それは現職時代に抱え背負った荷、まとわりついた『情念』を置いて来たかったから。
     10年前に退職。すぐに四国八十八霊場・遍路の旅に出た。退職の春、4月中旬から6月上旬まで、すべてを歩き通した。高野山での出会いは忘れがたい。「御朱印を推す職員の方だったが『高野山から歩き始め、再び高野山まで歩き通す遍路はほとんどいない。本当にやる気か』と親身になって教えてくれた。この人との出会いがなければ、歩き通せなかったかもしれない」。今もこの人とは交友が続いている。
     
     出会いは続く。現職もあと5年ほどになった頃。小出署勤務時代に通った英会話教室で活動を知る。浦佐・国際大学のベトナム留学生の「日本語チューター」(補佐指導者)活動をボランティアで務め、いまも続ける。
    ある日、自宅に女子留学生3人を招く。ベトナム料理を作ってくれ食卓を囲む。「私の母は恥ずかしがって食卓に来なかった。すると『なぜおばあさんはここに来ないのですか』と」。呼びに行き食卓に一緒に着くと「母に次々と言葉を掛け、すっかり打ち解けた。あ~こういう事かと分かりましたね」。年配者を大切にする、その気持ちを強く感じた。その後、結婚式に招待され、二度もベトナムへ行った。日本語チューターはもう15年目になる。
     さらに縁を感じる出会いは続く。地元川西・千手神社の奉賛会役員の誘いを受けた。県神社庁中魚沼支部の総代会副会長を務める。「でも、これ以上いろいろな役は引き受けない方がいいと家族に言われ、その日の朝、入会を断った。その日の昼、大学時代の友人で東京日野市の八坂神社の神主をしている友だちから本が贈られてきた。家族はそれを見て『これは何かの印、お告げかも』と言い、奉賛会役員を受けたんです。不思議な巡り合わせがあるもんですね。それにしても出会いは、おもしろい」。

    ◆バトンタッチします。「田邊武さん」

    2024年5月25日号

  • 『夫が作ったこの家、思いがいっぱいです』

    北野一美さん(1941年生まれ)

     これは「我が一代記」だ。生まれ育った山梨から新潟・川西へ。親戚、友だちが一人もいない地での生活は、まさに「無我夢中」の人生だった。

     役場にも
    農協にも、
    商工会にも
    断られたと劇団制作の女性が訪ねて来た。ミュージカル劇団公演の思いを聞き、
    「よし、やってみよう」
    と決めた『ふ
    るさときゃらばん』川西町公演は、28年前の1995年。親戚も友だちも、誰一人知らない地に来た時の、当時の自分と重なった。
     公演費用260万円、千人の観客が必要。合併前の川西町人口は8千人余。「あの時、商工会女性部長でした。会員に川西町のイメージカラーをアンケートで聞いたんですが、灰色、黒など暗いイメージばかり」。
     そこで、「元気が出ることをやろうと声を掛け、それが劇団公演。1人1万円出資を広げ、その輪が広がって1枚3千円のチケットが千2百枚売れたんです」。劇団公演に取り組んだメンバーの『熱』を次につなげようと、旗揚げした町民劇団「かわにし夢きゃらばん」は今も続く。

    2024年5月18日号

  • 『サッカーに、農業に、芸術祭に』

    小林舞さん(1990年生まれ)

     真っ青な空に真っ赤な『鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館』が映える。大地の芸術祭の人気拠点の十日町市鉢には、芸術祭開催年ではない年もたくさんの人が訪れる。運営スタッフのひとり。横浜から移り住み5年目の春を迎えた。小林さんにはもう一つの顔がある。「動く大地の芸術祭作品」である女子サッカー『FC越後妻有』
    のゴールキーパーだ。今日11日、松本市でリーグ3戦目を松本山雅レディースと対戦。これまで負けていないが「どのチームもレベルを上げています。アウェイですが、妻有の皆さんの応援を受け、勝ちにいきます」。

     妻有の地に至るプロセスを振り返ると「引き寄せられる」繋がりを感じる。横浜の進学高時代、172㌢余の長身を生かしハンドボールのキーパーで活躍。クラスメイトの多くは「有名難関大学をめざすなか、私は部活に集中でしたから、志望大学には残念ながら…でした」。
     幼少期から小学、中学時代、両親とミュージカルや映画などによく行った。母は中学時代、ミュージカル劇団に所属しており、我が娘も生の舞台の鑑賞に連れて行った。「そうした下地があったんでしょうか。志望大学に入れず浪人時代、『自分が本当にやりたいことは?』と疑問を抱き、その時、母から日藝(日本大学藝術学部)のことを聞き、方向転換しました」。そのアドバイスを受け、日大藝術学部映画学科監督コースに入った。
     小さな頃から見て来た舞台や映画、その分野への関心は大学進学と共にさらに増し、在学中は様々な映像製作や美術系に取り組む。越後妻有で開く大地の芸術祭を知り「こへび隊に入りたい、とずっと思っていましたが、なかなか実現できませんでした」。
     日藝の卒業作品は、自分のオリジナル脚本『坊ダンス』。お寺の息子と教会の娘の恋バナ。ロミオとジュリエットをベースに、30分のミュージカル作品を仕上げた。子どもから大人までキャスト30人ほど。卒業後、東京の映画制作会社に入り美術スタッフで働く。
     「4年ほど在職し、その後フリーランスになったんですが、その時、芸術祭のこへび隊に入り初めて妻有を訪れました。人が良く、この空気感が最高で、いい所だなぁ、が実感でした」。
     
     事はそこからとんとん拍子で進んだ。こへび隊で、まつだい農舞台で働く時、女子サッカーのFC越後妻有選手募集のチラシを見た。「地元スタッフの樋口さんに話すと、俺が監督に話してやるとなり、すぐに監督から連絡が来て、ハンドボールをしていたんですが…と話したんですが、やってみようよ、とすぐにメンバー入り、なにかに引っ張られるようでした」。
     その練習拠点、奴奈川キャンパスで、大地の芸術祭に作品出展している日藝の鞍掛純一教授と出会う。「学生時代、芸術祭に関わっておられることは知っていましたが、お会いしたことはなかったです」。これも巡りあわせか。

     FC越後妻有は、小林さん入団時には6人、いまは12人の選手に。FC越後妻有は、存在そのものが大地の芸術祭作品であり、その活動は「まつだい棚田バンク」など地元農業を手伝いながら、芸術祭スタッフとして拠点作品の運営に関わり、さらにサッカーのリーグ戦に参戦するという文字通りオールラウンドプレイの「女子サッカーチーム」。一昨年は2部リーグ初優勝、昨年は北信越女子サッカーリーグ3位と、上位の常連チームになっている。毎週4日、それぞれの仕事を終え、練習に集まる。ホームグラウンドは奴奈川キャンパスのグラウンド。試合では地元応援団オリジナルの応援旗がなびき、これもオリジナルな応援歌がグラウンドに響く。

     サッカーも初めて、農業も初めて、妻有も初めて。「でも、初めては面白いです。年に一度くらい横浜に帰りますが、ここに来ると落ち着きますね。友だちも両親も来てくれます。こちらでは知り合いがどんどん広がっていき、こちらがホームになりつつあります」。

    ◆バトンタッチします。
     「北野一美さん」

    2024年5月11日号

  • 『居心地の良さ、住み続けたい』

    原 拓矢さん(1994年生まれ)

     「なにか、しっくりこない」。こんな風に感じる日々は誰にもある。その時、どう動くかで、その後の時間は大きく変わる。立教大で社会学を学び就職した会社は「全農パールライス」。米を扱う国内大手で輸出分野でも大きなシェアを持つ。2年ほど在職し、さらに数社で働くなかで「しっくりこない」と感じ始めた。そこで自分を動かしたのは「農業がしたい」という内なる声だった。だが、移住となると二の足を踏んだ。そこでさらに内なる声が聞こえた。「やりたいことをやらなきゃ、後悔する」。
     地域おこし協力隊制度を知り、リサーチを始めると福島や山梨、新潟で農業分野の協力隊を募集していた。「各地へ行き、いろいろ見ましたが、十日町の鉢や中手に来た時、直感的ですが、ピンときました。ここだと」。
     2022年1月、真冬のお試し体験に入った。「全くの初めての私を、いつも会っているように歓迎していただき、地元の皆さんの人の良さが決め手でした」。

     その年の4月、吉田地区の鉢・中手を担当する地域おこし協力隊で赴任。吉田地区には協力隊の先輩、山口洋樹さんが地域支援員として活動している。「中手集落は5世帯6人です。でも水田を耕作する人は3人、70代、80代の方です。この先を考えると担い手不足は明らかで、自分に何ができるのか、すこしでも力になりたい、という思いと農業がしたい、その結果の吉田地区でしょうか」。 いまは鉢集落に住み、来年3月の任期満了後も暮らし続け、中手の田んぼを受けて米づくりをするつもりだ。いまは40㌃ほどを手伝い耕作する。
     なぜ農業、米づくりなのか。全農パールライス時代に感じたのは、「自分で作ったものではなく、営業していてもしっくりこなかったんです。自分で作った米を、自信を持って提供していきたい、その思いが強くなっていきました」。時々、両親が暮らす埼玉・川越に帰るが、「どうも人がいっぱいいる所が苦手なんです。生まれ育った川越には友だちもいて、近所付き合いもありますが、ここで2年間暮らし、感じているのは『いざという時の強さ』でしょうか。災害など起こった時も、こちらでは生きていける強さがあります。これは生きる安心感にもつながります。それに居心地の良さですね」。

     今夏は第9回大地の芸術祭。暮らす鉢集落には絵本作家・田島征三氏の『絵本と木の実の美術館』がある。芸術祭で人気トップ級の拠点だ。「田島さんには何度もお会いしていますが、あの飾らない、いつも自然体の人柄はいいですね」。
     昨年初めて自作の米を自炊で食べた。「美味しかったですね。中手は山からの水でコメ作りをしていますから、標高も400㍍余りで良いコメができるようです。もうご飯だけでも充分です」。
     自炊生活も3年目、レトルトや冷凍品などからは遠ざかり、「近所の方が玄関先に野菜を置いていってくれたり、ありがたいです」。身長188㌢は、高い所の用事など何かと声もかかる。
     「毎日が仕事で、毎日がプライベートの時間、そんな毎日ですが、居心地の良さは、なにものにも代えがたいですね」。
    ◆バトンタッチします。
     「小林舞さん」

    2024年4月27日号

  • 『女将への道、高まる食への関心』

    伊藤 萌さん(2000年生まれ)

     運命は、どう動くか分からない。長野・松本市で大学生活を送るが、コロナ禍でオンライン授業が多くなり、そんな時、「なにか違う」と感じた。佐渡にある実家が営む旅館を手伝うなかで、父がSNSで懐石料理店の人材募集を見つけ「こんなのがあるよ」と見せられ、行こうと即決。その地が十日町市。
     あれから2年、この地で運命の出会い。今年2月、地元の消防士と結婚。それも「初めての地でしたから、飲み友だちがほしい…」と、妻有地域限定のマッチングアプリに登録、そこで出会ったのが消防士。とんとんと、結婚にまで至った。

     佐渡・真野湾に面した地で両親が営む『伊藤屋旅館』。父で6代目の老舗宿だ。「小さい頃から海に潜っていました。仕入れに行く父や、山野に行く母にいつもついて行き、海も山も好きになり、特に食べることが大好きで、それは今も変わっていません」。
     幼少期から「女将」として動き回る母の姿を見て育ち、「かっこいい。私も女将になりたい」と小学生の頃から口に出し始めた。その思いは、中学、高校、そして大学に至るなかで、次第に「将来的な予感」となり、料理の世界に入り、それは「確信」に変わった。その決定打が十日町市での出会いだった。
     飲み友だちを求めた結果が、人生のパートナーに至った。「私は条件を出しました。食で好き嫌いが全く無い人、一緒にコーヒーとお酒を飲んでくれる人」。でも、「実は私は結婚できないんじゃないかと思っていました。我が強いので。私の意見を受け入れてくれ、どんな時も支えになると約束してくれました。それに誠実さでしょうか」。これこそ運命の導きか。

     「食」への探求心は人一倍強い。「美味しいものが好き過ぎて、食材への関心がいまも高まっています」。特に「きのこ」。佐渡には松林があり「高校時代、よく松茸を採っていましたし、世界三大きのこのトリュフ、ポルチーニなども佐渡では採れます」。当然きのこ料理にも関心深い。昨年12月の誕生日祝いには、結婚前の彼に分厚い『きのこ図鑑』をリクエスト、念願の大図鑑を手に入れた。きのこは今の仕事にも通じる。十日町から八箇峠越えで六日町の雪国まいたけに通勤している。
     「佐渡は食材が豊かです。海のもの、山のもの、さらにフルーツも豊富で、りんご・みかん・ぶどう・さくらんぼなど、いろいろ採れます」。父は旅館と併設の「レストランこさど」のシェフでありパティシエとしてスイーツも担当する。「十日町も山菜など豊富ですね。この時期もきのこが出ますよ。ウスヒラタケなど。休日には山へよく行きます」。植物知識は母との山野遊びからだ。

     この行動力の原動力は「思い立ったらすぐに動きます」。大学在学中、「やりたいことは出来ました」。それは外国への留学。コロナ直前の2019年8月、夏休みを使い1ヵ月間、オーストラリアのニューカッスル大学に短期留学、ホームスティしながら外国体験。この留学でも食への関心が増した。「様々な料理方法の食材を食べました。勉強になりました」。

     振り返ると体験のすべてが「女将」への道につながる。小学時代は水泳に取り組み、中学ではバレーボールと陸上・駅伝。高校では一転、書道と茶道、吹奏楽部ではクラリネットを。「茶道は15年ほど続けました。美味しいお菓子が食べられるから、と始めましたが、もともと抹茶が好きでしたから」。
     いまも水泳は毎週1時間ほど泳ぎ、スポーツジムで筋トレやランニングをする。先月の新潟市ハーフマラソンに出場。体力づくり、体形づくり、さらに健康維持と、これもすべて「女将」につながっている。
     「そうですね、30歳までには佐渡に戻ります。彼が佐渡の消防士に入るための準備期間も必要ですから」。経営を引き継ぐと7代目になる。「食にはこだわりたいです。佐渡でしか食べられないものを提供したい。まだまだ知らないことが多く、皆さんから教えて頂いています」。
     何年か後、佐渡の伊藤屋旅館で「萌女将」に会えるだろう。

    ▼バトンタッチします。
    伊藤隆汰さん

    2024年6月29日号

  • 『みんな違います。だから面白いんです』

    水品 直子さん(1955年生まれ)

     水品家の「農業カレンダー」は2月下旬から始まる。電熱線を地中に回した苗床ハウスでの播種からスタート。外はまだ雪の山。「ナスとピーマンは発芽まで時間がかかるんです。5月の苗販売までに間に合わせるには、この時期からなんですよ」。 春耕というにはちょっと早いが、
    水品家の営農は雪の中から動き出す。

    2024年6月22日号

  • ヒット商品「そばいなり」、おんなしょパワーで

    平野八重子さん(1949年生まれ)

     それは、『じろばた』開店後、5年ほど経った頃だった。「そばの消費拡大をしたいんだが…」、農協の担当者から言われた。開店準備の時のように仲間たちと談義を重ねた。「その時、大先輩の富井トヨさんが言ったんです。『祖母だったか曾祖母だったか、昔はいなりの中に蕎麦を入れていたと聞いたことがある』。
    この富井さんのひと言
    から始まっ
    たんです」。ヒット商品『そばいなり』誕生の秘話である。

    2024年6月15日号

  • 『ボクにはボクの夢がある、 キミにはキミの夢がある』

    北村フミ子さん(1949年生まれ)

     生徒に鏡を渡す。課題は自画像。「紙を丸くくり抜き、出た鼻から描きます」。渡された画用紙を前に生徒たちは鏡で自分の鼻を見ながら、鼻の頭から左右の小鼻、鼻筋、鼻の下、鼻の溝を描き、『次は口。上唇、下唇、筋があるね。よく見て、よーく見て』。
    さらに顎を描き、目の周りを、左右の頬を描くと顔らしくなってきた。額、さらに首と続き、次に耳。『いよいよ目玉を入れるよ。さらに眉毛。次に髪の毛、左右の髪は違うよ、よく見てね…』。授業を再現するとこんな感じだった。その結果、個性たっぷりの自画像が出来上がった。
     「生徒たちは、でき上がった自分の作品を見て、驚くと共に感動しますよ。この描き方は、私に絵の楽しさを教えてくれた松本キミ子先生です。昨年亡くなりましたが『人はリアリズムに描いたものには感動する』の言葉通りですね」。

    2024年6月8日号

  • ぎっくり腰、その原因は「反り腰」

    1回わずか3分、「おさんぽ整体」を

    Vol 99

     ここ2週間、ぎっくり腰でした。もともとぎっくり腰になりやすい話を以前させていただいたと思うのですが、年齢とともに押し寄せる胸椎(胸の背骨)と股関節の硬さのケアをきちんとしていないと、腰が胸椎と股関節の動きをカバーしようとして無理がかかり、「あ~…今やりました」ということになってしまうのです。そして、もう一つぎっくり腰の原因としてあるのは「反り腰」です。
     女性で「反り腰」と言われたことのある方は結構いるのではないかと思います。つま先を軽く開いて、かかと・お尻・肩甲骨・後ろ頭を壁につけて立った時に、腰と壁の間に手のひらが2枚以上入る方は「反り腰」です。
     もっと簡単にいえば、前屈をして床に手がつかない人、料理や洗い物をする際、キッチンのシンクにお腹をくっつけて立っていて、服がびしょびしょになっている方は「反り腰」の可能性が高いです。
     実はこの反り腰、骨盤が正しい位置より前側に傾いてしまうため骨盤底筋が働きにくく、お腹の力が抜けてしまっているために、腰痛だけでなくポッコリお腹、口角が下がる、二重アゴ、ストレートネック、巻き肩・肩こり、ネガティブ思考などにもつながっていくといいます。また、女性特有の症状として反り腰は子宮下垂や子宮脱、月経不順、尿もれなどを引き起こします。
     反り腰による不調に悩まされないために、まずは鏡を見ながら耳の穴、肩の中央(肩の骨の出っ張ったところ)、くるぶしが一直線になるように立ってみてください。自然と下腹に力が入りお尻の穴をギュッとすぼめているのではないでしょうか。この本来の私たちの正しい姿勢を維持しながら5分間深呼吸をするだけでかなりきついので、是非やってみてください。
     そして、1回わずか3分で効果が出る、骨盤のゆがみを正し股関節をゆるめる「おさんぽ整体」をやってみましょう。できるだけ歩幅を大きくとって前へ足を踏み出すことがポイントです。
     まず、両手を軽くお尻に当てお尻の筋肉が動いていることを感じながら1分間歩きます。次に上体を起こし、お腹の肉を前から軽く押さえて正しい姿勢を意識しながら1分歩きます。最後に足と腕をリズムよく振りながら脱力して、できるだけリラックスして1分歩きます。たったこれだけです。
     ぎっくり腰になった直後はいつも、次はならないぞ! と張り切って色々するのですが、結局続かないからこそまた繰り返しているわけですが。
    今年の春は少しお高い良いスニーカーを手に入れたので、晴れの日の爽やかな風の吹く中を小鳥のさえずりや、木々の優しい葉擦れの音などを堪能しながら、おさんぽ整体に出たいと思います。土市、新宮方面の方、時々ウロウロしています。よろしくお願いいたします。
     足を怪我してしまっていたり、膝が痛くて歩けない、なかなか運動は習慣にならない、という方は是非70~80代の方が続々と杖無しで歩けるようになっているたかき医院の座るだけで骨盤底筋および体幹を鍛える器械に会いに来てくださいね!! (たかき医院・仲栄美子院長)

    2024年6月8日号

  • 『毎朝書く「あ」、その日の始まり』

    田邊 武さん(1960年生まれ)

     毎朝、15分ほどひたすら『あ』を書く。梵字。アジアをルーツの古代インド・サンスクリット語に由来を持つという。書ではあるが「書く」というより「描く」世界観から、仏教国以外でもその形状の妙で、外国でも関心を集める「書」だ。
     梵字『あ』
    は、これ。書
    くことで自分の体調や精神のありようが分かる。「時間がない時は自分の手のひらに書き、その時の自分が分かります。体調が悪い時は、思うように書けないし、何か気になることがある時も、やはり出来は良くないです」。20年前から自宅で梵字教室を開き、昨年9月には小千谷市街地でも教室を開く。「初めの頃は数人でした。いまは20人を超える方々が梵字と向き合っています。写経に通じるものがありますが、梵字には独特の世界観と精神性があります」。

     小学時代から書道が好きだった。書の面白さと奥深さに取りつかれ、30代の時、十日町市展で市展賞を取った。だが、「なんと言えばいいのでしょうか、市展賞を取ったことへの妬みでしょうか、そんな声が回りから聞こえ、嫌な感じを受けました。競うコンテストはもう止めようと、自分の世界を求めていこうと、そんな思いの時、梵字に出会いました」。
     書は続けた。川西なかまの家での書道指導は20年余り続け、いまも子どもたち向け書道教室を川西・野口の自宅で開く。 一方で梵字は、自分の思いが放たれたように、繋
    がりの世界を広げている。 すべてのモノの始まりの「あ(阿)」、すべてのモノの終わりの「うん(吽)」から、神羅万象の世界観を求め、梵字工房 「阿吽(あうん)」を主宰。号は『田邊奝武(ちょうぶ)』。国際梵字佛協会講師、梵字佛書道家であり書家である。

     今春3月25日から4月24日まで、インド南北3000㌔を旅した。インド洋・アラビア海・ベンガル湾の三つの海が交わるインド最南端「コモリン岬」から最北地カシミールまで梵字奉納の旅。インドの大学留学経験を持つ研究者と同行。南部はヒンドゥー教、いまも紛争地になっている北部カシミールはイスラム教の地。インドの国情の複雑さを肌で感じた。
     カシミールで14歳の少年、というより大人の雰囲気を持つ学生と出会った。「自分たちの言葉を含め英語など3ヵ国語を話します。彼らは生きるために言葉を覚えます。私たちを迎えてくれた人は英語はじめ地元の言葉など10ヵ国語を話します。話せなければ商売も取引もできない。生きるために言葉を身につける、日本との違いは大きいですね」。
     インド旅の道中、持参した自書の梵字『あ』と意味を英訳した資料を、出会う人たちに手渡した。その形が少しアラビア語に似ているためか関心を示した。14歳の少年は、アラビア語で書かれた「コーラン」のハンドブックを譲ってくれた。「私たちの前で、コーランを詠んでくれました。独特の抑揚の声と言葉でした。イスラム教の精神性を感じました」。
     2022年にはネパールへ梵字奉納で訪れた。「長野の小児科医の先生が、現地の乾燥地に100万本の木を植える活動を長年続け、先生が高齢で行けないため、代わりに活動支援する方と一緒に現地を訪ねました。乾燥の荒廃地が緑に変わっていて、子どもたちの病気も少なくなっていると聞きました。100万本の木運動で緑の土地に変わっていました」。
     
     梵字がつなぐ不思議な縁は、日本でも出会いを生み出している。2011東日本大震災地の地、福島・会津若松で震災供養を込め梵字展を開いた。そのギャラリー・オーナーが宇宙開発機構JAXA勤務退職の人で、ロケット開発者で奝円流梵字を広めた三井奝円氏の導きを感じている。
     一昨年は奈良・大神(おおみや)神社や三条市で梵字展を開き、今年も今月4日から21日まで大神神社で日本画などと展示会を開き、9月14日から22日までは十日町情報館で梵字展を開く。
     
     「梵字を学ぶ人が増えていることは、自分と向き合う時間を求める人が増えている証しでもあります。筆を動かし、和紙に書く、その所作の中に高い精神性があります。特に梵字はその形ひとつ一つに意味がありますから」。
     梵字奉納の国内巡りを続けている。「そうですね、まだ20都府県ちょっとでしょうか。全国を回るつもりです」。
      
    ◆バトンタッチします。
     「北村フミ子さん」

    2024年6月1日号

  • 『四国八十八霊場、お遍路で「荷」を置く』

    高橋 勇さん(1953年生まれ)

     高校2年の夏。
    「自転車で友だちと大阪万博へ行っていいか」
    『だめだ』
    「校長がいいと言えば、行ってもいいか」

     時は1970年、大阪万博開催。父にダメ出しされたが、すぐに動いた。県立十日町高校、当時の校長は歴代に名を残す名物校長の深田虎雄校長。万博行きを直接聞いた。「いましか出来ないことだ、行ってこい」、それは明快だった。
     高校2年の夏休み。友と2人で自転車にテント、自炊道具、食糧など積み、早朝出発。野宿をしながら長野から木曽路、岐阜、滋賀を通り大阪へ。「行きに6日かかった。友だちの親戚が大阪に居るというので、そこに泊まるつもりで行ったが、なんと引っ越していた。不動産屋に頼み込んで、その空き家に泊めてもらったが、電気はストップ、水風呂に入った」。夏休み後半の高校の北海道修学旅行に間に合わなくなり、「仕方なく、列車で帰ってきた」。
     十高生徒会役員の時、校則廃止を求め直談判へ。その時の問答。
    「喫茶店に行ったことがあるか」
    『はい、行きました』
    「校則違反だな。今日か
    ら3日間停学だ」
     その日は金曜日。この日午後から停学となり、金曜、土曜、日曜の3日間の停学。これが後世に伝わる『深田裁定』。十高時代の出会いが、その後の人生観に影響している。当時の倫理社会の教諭・髙橋竹雄先生(現勝又)の影響で「倫社の高校教諭」をめざす。
     進学先は國學院大哲学科。学内を歩いていると少林寺拳法部の勧誘を受け入部。「そこは、あの漫画『花の応援団』そのままでした。オスッの毎日。理不尽、不条理、そんな世界だったが、自分が上になるようになり、そんな体質は変えた」。
     大学4年、新潟県教員試験を受けるが採用ならず。そんな時「父から連絡が来て、駐在さんが誘いにきたぞと、試験だけでも受けてみろと言われ、受験した」。当初、学生運動に対する機動隊に良いイメージはなかったが新卒で入る。そこで良い同期、尊敬できる教官と出会い不安は払拭した。

     警察官37年間、刑事畑を歩む。警察学校の指導巡査、関東管区機動隊なども勤務。「年間百体くらいの検死をした。先輩から『身内と思え』と繰り返し言われた」。事件はもちろん病死、溺死、事故死などあらゆる現場を経験。「退職したら遍路に行こうと決めていた」。それは現職時代に抱え背負った荷、まとわりついた『情念』を置いて来たかったから。
     10年前に退職。すぐに四国八十八霊場・遍路の旅に出た。退職の春、4月中旬から6月上旬まで、すべてを歩き通した。高野山での出会いは忘れがたい。「御朱印を推す職員の方だったが『高野山から歩き始め、再び高野山まで歩き通す遍路はほとんどいない。本当にやる気か』と親身になって教えてくれた。この人との出会いがなければ、歩き通せなかったかもしれない」。今もこの人とは交友が続いている。
     
     出会いは続く。現職もあと5年ほどになった頃。小出署勤務時代に通った英会話教室で活動を知る。浦佐・国際大学のベトナム留学生の「日本語チューター」(補佐指導者)活動をボランティアで務め、いまも続ける。
    ある日、自宅に女子留学生3人を招く。ベトナム料理を作ってくれ食卓を囲む。「私の母は恥ずかしがって食卓に来なかった。すると『なぜおばあさんはここに来ないのですか』と」。呼びに行き食卓に一緒に着くと「母に次々と言葉を掛け、すっかり打ち解けた。あ~こういう事かと分かりましたね」。年配者を大切にする、その気持ちを強く感じた。その後、結婚式に招待され、二度もベトナムへ行った。日本語チューターはもう15年目になる。
     さらに縁を感じる出会いは続く。地元川西・千手神社の奉賛会役員の誘いを受けた。県神社庁中魚沼支部の総代会副会長を務める。「でも、これ以上いろいろな役は引き受けない方がいいと家族に言われ、その日の朝、入会を断った。その日の昼、大学時代の友人で東京日野市の八坂神社の神主をしている友だちから本が贈られてきた。家族はそれを見て『これは何かの印、お告げかも』と言い、奉賛会役員を受けたんです。不思議な巡り合わせがあるもんですね。それにしても出会いは、おもしろい」。

    ◆バトンタッチします。「田邊武さん」

    2024年5月25日号

  • 『夫が作ったこの家、思いがいっぱいです』

    北野一美さん(1941年生まれ)

     これは「我が一代記」だ。生まれ育った山梨から新潟・川西へ。親戚、友だちが一人もいない地での生活は、まさに「無我夢中」の人生だった。

     役場にも
    農協にも、
    商工会にも
    断られたと劇団制作の女性が訪ねて来た。ミュージカル劇団公演の思いを聞き、
    「よし、やってみよう」
    と決めた『ふ
    るさときゃらばん』川西町公演は、28年前の1995年。親戚も友だちも、誰一人知らない地に来た時の、当時の自分と重なった。
     公演費用260万円、千人の観客が必要。合併前の川西町人口は8千人余。「あの時、商工会女性部長でした。会員に川西町のイメージカラーをアンケートで聞いたんですが、灰色、黒など暗いイメージばかり」。
     そこで、「元気が出ることをやろうと声を掛け、それが劇団公演。1人1万円出資を広げ、その輪が広がって1枚3千円のチケットが千2百枚売れたんです」。劇団公演に取り組んだメンバーの『熱』を次につなげようと、旗揚げした町民劇団「かわにし夢きゃらばん」は今も続く。

    2024年5月18日号

  • 『サッカーに、農業に、芸術祭に』

    小林舞さん(1990年生まれ)

     真っ青な空に真っ赤な『鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館』が映える。大地の芸術祭の人気拠点の十日町市鉢には、芸術祭開催年ではない年もたくさんの人が訪れる。運営スタッフのひとり。横浜から移り住み5年目の春を迎えた。小林さんにはもう一つの顔がある。「動く大地の芸術祭作品」である女子サッカー『FC越後妻有』
    のゴールキーパーだ。今日11日、松本市でリーグ3戦目を松本山雅レディースと対戦。これまで負けていないが「どのチームもレベルを上げています。アウェイですが、妻有の皆さんの応援を受け、勝ちにいきます」。

     妻有の地に至るプロセスを振り返ると「引き寄せられる」繋がりを感じる。横浜の進学高時代、172㌢余の長身を生かしハンドボールのキーパーで活躍。クラスメイトの多くは「有名難関大学をめざすなか、私は部活に集中でしたから、志望大学には残念ながら…でした」。
     幼少期から小学、中学時代、両親とミュージカルや映画などによく行った。母は中学時代、ミュージカル劇団に所属しており、我が娘も生の舞台の鑑賞に連れて行った。「そうした下地があったんでしょうか。志望大学に入れず浪人時代、『自分が本当にやりたいことは?』と疑問を抱き、その時、母から日藝(日本大学藝術学部)のことを聞き、方向転換しました」。そのアドバイスを受け、日大藝術学部映画学科監督コースに入った。
     小さな頃から見て来た舞台や映画、その分野への関心は大学進学と共にさらに増し、在学中は様々な映像製作や美術系に取り組む。越後妻有で開く大地の芸術祭を知り「こへび隊に入りたい、とずっと思っていましたが、なかなか実現できませんでした」。
     日藝の卒業作品は、自分のオリジナル脚本『坊ダンス』。お寺の息子と教会の娘の恋バナ。ロミオとジュリエットをベースに、30分のミュージカル作品を仕上げた。子どもから大人までキャスト30人ほど。卒業後、東京の映画制作会社に入り美術スタッフで働く。
     「4年ほど在職し、その後フリーランスになったんですが、その時、芸術祭のこへび隊に入り初めて妻有を訪れました。人が良く、この空気感が最高で、いい所だなぁ、が実感でした」。
     
     事はそこからとんとん拍子で進んだ。こへび隊で、まつだい農舞台で働く時、女子サッカーのFC越後妻有選手募集のチラシを見た。「地元スタッフの樋口さんに話すと、俺が監督に話してやるとなり、すぐに監督から連絡が来て、ハンドボールをしていたんですが…と話したんですが、やってみようよ、とすぐにメンバー入り、なにかに引っ張られるようでした」。
     その練習拠点、奴奈川キャンパスで、大地の芸術祭に作品出展している日藝の鞍掛純一教授と出会う。「学生時代、芸術祭に関わっておられることは知っていましたが、お会いしたことはなかったです」。これも巡りあわせか。

     FC越後妻有は、小林さん入団時には6人、いまは12人の選手に。FC越後妻有は、存在そのものが大地の芸術祭作品であり、その活動は「まつだい棚田バンク」など地元農業を手伝いながら、芸術祭スタッフとして拠点作品の運営に関わり、さらにサッカーのリーグ戦に参戦するという文字通りオールラウンドプレイの「女子サッカーチーム」。一昨年は2部リーグ初優勝、昨年は北信越女子サッカーリーグ3位と、上位の常連チームになっている。毎週4日、それぞれの仕事を終え、練習に集まる。ホームグラウンドは奴奈川キャンパスのグラウンド。試合では地元応援団オリジナルの応援旗がなびき、これもオリジナルな応援歌がグラウンドに響く。

     サッカーも初めて、農業も初めて、妻有も初めて。「でも、初めては面白いです。年に一度くらい横浜に帰りますが、ここに来ると落ち着きますね。友だちも両親も来てくれます。こちらでは知り合いがどんどん広がっていき、こちらがホームになりつつあります」。

    ◆バトンタッチします。
     「北野一美さん」

    2024年5月11日号

  • 『居心地の良さ、住み続けたい』

    原 拓矢さん(1994年生まれ)

     「なにか、しっくりこない」。こんな風に感じる日々は誰にもある。その時、どう動くかで、その後の時間は大きく変わる。立教大で社会学を学び就職した会社は「全農パールライス」。米を扱う国内大手で輸出分野でも大きなシェアを持つ。2年ほど在職し、さらに数社で働くなかで「しっくりこない」と感じ始めた。そこで自分を動かしたのは「農業がしたい」という内なる声だった。だが、移住となると二の足を踏んだ。そこでさらに内なる声が聞こえた。「やりたいことをやらなきゃ、後悔する」。
     地域おこし協力隊制度を知り、リサーチを始めると福島や山梨、新潟で農業分野の協力隊を募集していた。「各地へ行き、いろいろ見ましたが、十日町の鉢や中手に来た時、直感的ですが、ピンときました。ここだと」。
     2022年1月、真冬のお試し体験に入った。「全くの初めての私を、いつも会っているように歓迎していただき、地元の皆さんの人の良さが決め手でした」。

     その年の4月、吉田地区の鉢・中手を担当する地域おこし協力隊で赴任。吉田地区には協力隊の先輩、山口洋樹さんが地域支援員として活動している。「中手集落は5世帯6人です。でも水田を耕作する人は3人、70代、80代の方です。この先を考えると担い手不足は明らかで、自分に何ができるのか、すこしでも力になりたい、という思いと農業がしたい、その結果の吉田地区でしょうか」。 いまは鉢集落に住み、来年3月の任期満了後も暮らし続け、中手の田んぼを受けて米づくりをするつもりだ。いまは40㌃ほどを手伝い耕作する。
     なぜ農業、米づくりなのか。全農パールライス時代に感じたのは、「自分で作ったものではなく、営業していてもしっくりこなかったんです。自分で作った米を、自信を持って提供していきたい、その思いが強くなっていきました」。時々、両親が暮らす埼玉・川越に帰るが、「どうも人がいっぱいいる所が苦手なんです。生まれ育った川越には友だちもいて、近所付き合いもありますが、ここで2年間暮らし、感じているのは『いざという時の強さ』でしょうか。災害など起こった時も、こちらでは生きていける強さがあります。これは生きる安心感にもつながります。それに居心地の良さですね」。

     今夏は第9回大地の芸術祭。暮らす鉢集落には絵本作家・田島征三氏の『絵本と木の実の美術館』がある。芸術祭で人気トップ級の拠点だ。「田島さんには何度もお会いしていますが、あの飾らない、いつも自然体の人柄はいいですね」。
     昨年初めて自作の米を自炊で食べた。「美味しかったですね。中手は山からの水でコメ作りをしていますから、標高も400㍍余りで良いコメができるようです。もうご飯だけでも充分です」。
     自炊生活も3年目、レトルトや冷凍品などからは遠ざかり、「近所の方が玄関先に野菜を置いていってくれたり、ありがたいです」。身長188㌢は、高い所の用事など何かと声もかかる。
     「毎日が仕事で、毎日がプライベートの時間、そんな毎日ですが、居心地の良さは、なにものにも代えがたいですね」。
    ◆バトンタッチします。
     「小林舞さん」

    2024年4月27日号