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オピニオン一覧

  • 当世新入社員事情、「耐え忍ぶ」は、今は昔

    退職手続き代行業

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     この春、三番目の孫が社会人になった。先年就職した初孫も、二番目もそれぞれらしい職に就くことができ、じじ・ばばも一安心した。近頃のニュースを聞くと、最近は短期間で就職した企業を辞し、転職する傾向が強いとか? しかも、その手続きを代行する企業もあるという。
     本人はもちろん、代行する企業も、退職を告げられる企業も、あれこれ斟酌することなく、極めてビジネスライクに手続するのみ。これには唖然とした。更に一度ご縁のできた企業に、定年まで勤め上げるなーんて考えている人は殆どいない。
    そんな折、四六時中つけているラジオから『ああ、上野駅』の歌が流れてきた。♬どこかに故郷の香りを乗せて、入る列車の懐かしさ…♬
    〈金の卵〉ともてはやされ、その実、安い労働力として使い捨てられた中卒の子どもたち。
     中学生の頃、同級生が夜勤明けで倒れ亡くなった。義務教育も終えぬうちから、多くの弟妹や、病身の母親のために働いていたのだそうだ。
     そして私自身の就職は、戦後15年位は経ってはいたが、まだまだ厳しい状況だった。それでもどの企業も経営状態の如何にかかわらず、新卒はたとえ一人でも採用して育て上げる風潮だった。おかげで片親だった私も採用してくれた会社があった。
     電話を取るのは新入社員の仕事と決まっていたのに、家に電話はなかったので、電話が怖くて取れなかった。事ある毎に厳しく躾けられ、その上司に当てつけで、目の前で首を吊ってやる! と思ったほど。でも直後上司はショックでもそのうち忘れ去る。片や私は死んでしまう。そんなことはダメだ、ダメだ。ものになったかどうかは疑問だが、その後は何かにつけて色々任せていただいた。
     我慢と耐え忍ぶのが精一杯であった昔。世の中が大きく変化し、いろんなノウハウがある。我々世代には想像すらできない方法で、働き方も大きく変わった。新入社員だけでなく、大人たちも副業が認められている企業が少なくないとか。
     生涯をかけて会社を支える社員もいない、生涯をかけて面倒を見てくれる企業もない、いや出来なくなったのだろう。
     数十年経ったとはいえ、やりたくない事、避けたい事をしないで済むのは、不要なエネルギーを使わないことのほうが、今どきなのかな?  昔人間には首をかしげることばかりだ。

    2024年5月18日号

  • 「よくわからない、どちらともいえない」、無関心層が問題

    5月3日、憲法記念日

    村山朗 (会社員)

     好天に恵まれたきものまつり。まだコロナが2類から5類に移行する直前だった昨年に比べると人出が何倍も増した気がします。往時にくらべ着物姿はほんとに少なくなった感があります。1970年代後半にきものまつりが誕生した時の「着物を着て楽しむ祭り」の趣旨は薄れても、キッチンカーや様々な飲食スタンド、各所で行われた音楽演奏など家族づれで楽しめる春の一大イベントに変身したことは歓迎すべきことだと思います。着物姿が殆どいないじゃないか、などと野暮なことは言いっこなし。
     閑話休題、5月3日は憲法記念日。ある調査では憲法を変えたほうが良い、という意見がかつてより増えてきたという結果が出ていましたが、よくわからない、どちらともいえない、という答えも多数を占めていました。 
     日本の憲法は世界の中でも、戦争放棄をしているまれな憲法だ、と言われてきましたが、この平和条項は世界の憲法でも大多数の国が採用しているそうです。わが国でも憲法解釈で自衛権としての戦争は認められるということらしいです。らしいというのは明記されていないからです。自衛隊の存在も明記されていません。
     こんな不完全な憲法を77年も放置してきた立法府の怠慢の原因は国民の多数を占める「よくわからない、どちらともいえない」という無関心層のせいではないでしょうか。災害となれば自衛隊を頼るくせに、明記していない憲法を変えるな、と叫ぶ一部の人たちも同様です。
     自民党が自壊しているというのに、護憲派の立憲民主党の支持率は一向に上向きません。改憲であれ、護憲であれ、国会で議論もしないというのはとてもおかしな話しです。各政党の案を公開し議論したうえで国民投票をする、という手順を早急に踏んでもらいたいです。議論に入るのをサボタージュしている政党は、国民投票で負けるからとでも思っているのでは、と勘繰りたくなります。 
     そうはいっても改憲派がドイツは何回も改憲した、と引き合いに出す同じ敗戦国のドイツ基本法と日本国憲法の建付けはまったく違うので、同じ土俵に上がるのは無理があります。
     アメリカの占領下にバタバタと作られたわが国の現行憲法は、改憲が難しい憲法です。しかしながら、現在の我が国を取り巻く安全保障環境は20世紀とは比較できないほど厳しさを増しています。少なくとも入隊に際して「命を賭してでも国を守る」と誓った人たちの存在を、憲法に明記すべきではないでしょうか。

    2024年5月11日号

  • 自民の敗北、金融政策への影響は

    やはり気になる金融政策の行方

    清水裕理 (経済地理学博士)

     今年もゴールデンウィ
    ークを迎え、気温差がまだあるものの、草木が芽吹き、一緒に桜の開花も楽しめる妻有の風景を想像しています。新潟県や長野県の中山間地域では、桜の花のピンクがより色濃く、美しさを増しているように感じます。
    そのようなゴールデンウィークのさなか、国内の政治経済に目を向けると、衆議院補欠選挙が3地域で行われ、その全てで与党・自民党が議席を得ることができませんでした。この結果を受けて、岸田政権はどうなっていくのでしょうか。東京と長崎の選挙区は自民党議員の不祥事による補欠選挙だったため、候補者をたてられませんでしたが、島根は自民党と立憲民主党の一騎打ちに。
    島根出身とすぐに思い浮かぶ苗字の自民党の錦織氏と、地元での政治活動を熱心に行ってきた立憲民主党の亀井氏との戦いで、応援の大物政治家が現地入りする様子がニュースでさかんに流れました。自民党王国の島根での敗北を自民党がどう総括するか注目されます。
     今年も変わらない美しい春の訪れを自然は見せてくれていますが、政治経済の話になると、気になることが頭をよぎります。
     もう一つの気になることに、4月末に開かれた日本銀行の金融政策決定会合があります。世界の水準に合わせる方向で利上げが示されるのか示されないのか、どのようなメッセージが出されるのか注目されましたが、現状維持とのことでした。
     中央銀行の金融政策の目的は、どの国においても「物価の安定」です。それと一緒に「景気対策」を目的に加えるか否かは国によって、或いはその時の状況によって異なります。
     「物価の安定」と「景気対策」は、効果を発揮するまでの期間も違いますし、効果を図る指標も違うので、それらを両立する金融政策をいかに実施するかは、まるで複雑な方程式を解くことのように思います。果たして、そのような複雑な方程式を解くことができるでしょうか…。
     そのせいか分かりませんが、最近は日本銀行も米国の中央銀行も、分析に基づいた方向性を示すことが少なくなり、その代わりに、時々の情勢により判断する、という言い方が多くなっているような気がします。
     いま、対ドルなどの円の為替相場の動向に、人々の関心が大きく向いており、円安がどこまで進むのか、その議論の際に、国際金融のトリレンマ(国は自由な資本移動、金融政策の独立性、為替相場の安定の3つを同時に実現することはできず、2つしか実現できないこと)が言われています。今後の行方を気にしてゆきたいと思います。

    2024年5月4日号

  • 日本人の忘れ方、日本人の忘れ物

    都はるみを唄い…

    長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

     日本の総理大臣が、自民党の裏金問題の結着を中堅議員に押し付けて、国賓として招待されている米国に、そそくさと逃げるように飛び立った。気が楽になったのかAIが作った画像と見まがうような表情で、饒舌に大統領や米議会で気楽なスピーチを行なって、笑いを取ってエヘン、プイプイといった感じで帰国した。
     ただ、持って行ったお土産は国防予算の増額だった。この11月にアメリカ・ファーストの候補者が当選してしまえば何のことはない、日本の自衛隊が最前線に取り残される可能性も出て来る。
     戦後の平和を当たり前と感じている場渡り的な日本の保守政治家の忘れ方である。それを取材し報じるメディアも、上からの指示なのか裏金問題のニュースも少なくなったように思う。
     そういえば発生から4ヵ月近く過ぎた能登半島地震のニュースも減ったような気がする。輪島の朝市が場所を変えて復興したとか、能登を走るJRが復旧したと良いことばかりが目立つ。
     あの3・11東日本大震災の時も時間をかけて震災報道が少なくなって、明日に向けてのイベントが始り、平常に戻りつつあり、災害が過去の出来事のようなニュースが、ある時から多くなったように思った。
     もっとも、悲しくて辛いことは忘れなければ生きて行けないのだろう。が、それらの災害で大切な人を失くした者にとって、忘れられる事ではないはずだ。一方、身近に亡くした人が居なかった人たちにしてみれば、一刻も早く忘れたい記憶なのだろう。
     壊れた家は時間をかければ建て直せるが、亡くした父母や子供は何年経ったって忘れられるものではない。前の大戦、戦地で2人の子供を失くした祖母の心から笑った表情の写真は一枚もない。
     戦後になって70年80年と寿命が延びても、悲しい思いは重い記憶となって付いて回るのである。そんな悲しみの本質をメディアに携わる記者だからこそ、忘れてはいけないことなのだ。
     この春から自民党派閥の裏金問題も総理訪米の成功(?)の裏で、補欠選挙の結果までは、おとなしく忘れたふりをすることになるのだろう。これもひとつの忘れ方で、江戸の昔から続く臭い物に蓋的な対処のようだ。 その挙句、明治になってから日清日露、世界大戦、太平洋戦争と戦争漬けの国になってしまったのだ。
     それでも日本の政治家が太平洋戦争の敗戦、広島・長崎への原爆投下を知っている内は良かったが、戦争を知らないボンボン二世議員の登場となると、実に気楽に、貰えるものは貰っちゃえと安気に過ごすようになるものらしい。世襲の呑気な殿様のように、世襲の政治家たちが忘れた正義や理念の軽さなのだろう。
     私も後期高齢者になってしまったけれど、思えば幾つもの間違いや失敗をして来た。だけれども自分がやられて嫌だと思うことはやらなかった。同時に裏切らない! で暮らして来た。
     口喧嘩や恨んだり妬んだり、僻んだり嫉みはいつもあったが それは自分の腹のなかで呑み込んで貧乏を通して来た。私の場合の忘れ方は少し多めに酒を飲んで、都はるみの歌を唄って、ぐすんと涙を流せば、それでいいのだ。大切な忘れ物は、伝えられなかった言葉くらいなもので、年齢を重ねてみると、首相も大臣もそれぞれの指導者も皆私よりも年下になりつつある今は、悪い時も、少し良かった時も、平気な顔だけして酔ったふりして思い出せる記憶があるだけだ。
     な~に、5年もすればきれいさっぱり忘れられるのだし…。

    2024年4月27日号

  • この道はいつか来た道 …

    ドヤ顔に頭がクラクラ

    藤ノ木信子 (清津川に清流を取り戻す会)

     先週、岸田首相は米国で首脳会談と議会での演説をして拍手に得意満面だった。「国際社会は歴史的な転換点にある。今こそ日米両国がグローバルパートナーとして真価を発揮すべき時である」「米国は一人ではない、なすべき準備はできている」「戦争可能な正常国家(一流国家)になる」とドヤ顔だったけど私は頭がクラクラした。
     これはもうどう解釈しても憲法違反で、こんなこと自国の国会で討論されましたか? 憲法改正する国民投票ありましたか? バイデン大統領は「我々はともに、防衛・安全保障協力を強化するための重要なステップを踏み、指揮・統制を現代化する」と発言。これね、米軍と自衛隊の情報共有システムを構築して共に行動する(自衛隊が米軍の指揮下にもなり得る)ということですよ。自衛隊は軍隊ではない!
     戦後平和憲法下の77年、歴代自民党首相が戦地を紛争当事国と言い換え自衛隊を派遣し、安保3文書を備えて集団的自衛権行使を規定した。専守防衛原則から逸脱して詭弁を重ね敵基地攻撃能力まで可能とし、武器輸出を防衛装備品移転と言い換え平和憲法は無力化した。岸田首相の訪米は、米国と一緒に喜んで戦争に参加します! と宣言したようなものだと私は思った。
     だからロシアは米日同盟強化のこの宣言にすぐ反応し「米日はすでに事実上軍事同盟関係だ」と発言。これで日本全土が反米側の標的になる。再稼働の地元合意もないまま燃料を装填した柏崎刈羽原発は、ウクライナのザポリージャ原発と同様に常に爆撃やサイバー攻撃に怯えなければならない。私には岸田首相が言う「歴史的な転換点」とは国民や国土を新たな危険に晒す転換点としか思えない。
     イラン、イスラエルの攻撃の応酬で世界大戦の始まりを感じるきな臭いこんな時に、わざわざ渦中に飛び込むとは…この後どんな未来があるのか想像してみてください。私の予想では疫病や地震など災害を期に危機感を煽り、国民の考える力を押さえて同じ方向を向くようにするでしょう。
     敵国の脅威を言い、より強力な武器(核兵器)の保有を正当化。私のように異を唱える人は非国民で、国防・国益優先で人権や言論の自由は無くなる。自衛隊、志願兵、徴兵… この道はいつか来た道… そう、3百万人が犠牲になった過去の日本だ。
     決して戦争をしてはいけない。近いうちに解散総選挙になるでしょう。今はまだこの国の主権者は私たち国民です。選ぶことができます。どうか戦争の道だけは歩まないように。

    2024年4月20日号

  • 何も進んでいない「核のゴミ」

    あれから13年、原発問題

    斎木 文夫 (年金生活者)

     3月30日付け本紙の社説の見出しは『3月議会、なぜなかった原発論議』であった。確かに東電は原発再稼働の準備を着々と進めている。その間、十日町市・津南町議会は何をしていたのか。
     共産党市議団・富井氏は24年度予算案に対する反対討論の冒頭で「柏崎刈羽原発の再稼働に反対し、廃炉を求める」と訴えた。ほかに何かあったのだろうか。
     本紙新年号の名士の「新年のご挨拶」も柏崎刈羽原発再稼働問題に触れたものはなかった。2人の県議には期待していなかったが、原発から30㌔圏内に入る十日町市の市長、隣接する津南町長からは、住民の生命・生業をどう守るのか、何らかのメッセージをいただきたかった。
     能登半島地震後、専門家の話を聞いて、心配になったことがある。
     1つは、今回の地震では4枚の活断層が滑ったことで津波が発生したが、佐渡沖の2枚の活断層はほとんど動かず、今後大きな揺れを引き起こすおそれがあるということ。この活断層の位置は佐渡の西側で、上越沖と言った方が分かりやすい。
     2つ目は、海陸境界の断層は、調査のいわばエアポケットみたいな状態で、調査が進んでいないということ。柏崎刈羽原発敷地内・周辺に活断層があるかどうか、専門家の間で意見が分かれるのも無理はない。
     柏崎刈羽原発再稼働をどう考えたらいいか、事前学習として4月2・3日に福島第1原発事故13年後の姿を見てきた。
     復興庁によると、原発事故による避難者は約2万9千人(2月1日現在)。この中に「自主避難者」は含まれていない。
    帰還困難区域では、部分的に放射能除染をした「特定帰還居住区域」で新しい街づくりが始まっていた。しかし、原発が立地する大熊町の居住者数は646人(事故前の5・6%)、双葉町が102人(同1・4%)しかいない。
     「街」には東電社宅、原発作業員宿舎、町営住宅が並び、人がいなくなった土地には汚染土の袋と太陽光パネルが並ぶ。
     福島第1原発のデブリの取出し、廃炉の工程は見通せず、汚染水は海洋放出に近い量が新たに流入していた。避難者も帰還者も多くが生業を奪われ、厳しい生活が続いている。福島第1原発事故は現在も進行中で、決して過去の出来事ではない。
     今後も想定外の地震や津波が起きる。核のごみを安全に処分する技術はない。そして、ヒトは必ずミスをする。やっぱり、原発の再稼働はダメだ。

    2024年4月13日号

  • 「ご近所付き合いの大切さ」力説

    「激震お見舞い」を考える

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     能登大地震から程なく四ヵ月になろうとした頃、やっと電話がかけられた。
     元日に起きた能登地震、わが長男の嫁さんの実家も小松市にあって、大騒ぎになった。彼女を通じて小松の皆様は、とりあえずはご無事である事はすぐわかった。
     もう一人案じた人が居た。十日町在住の昔から親交のあった知人が能登七尾市にお住まいだ。携帯番号は知らない。TVに映し出される様子は、目を覆うばかり。電話すべきではない状況と判断し、しばらく経ってからと思った。一向に状況は良くならない。もし電話が通じても、どう話したらよいのか? どんな状況なのか? とても聞けそうもない。折に触れてのカンパをする位しか出来なかった。
     後ろめたさにつぶされそうになりながら、時だけは容赦なく過ぎた。三月末、恐る恐る電話した。それでも明るい元気そうな声で奥様が出て下さった。ご主人は農業をなさっているので、夜七時半位だったが既に床に就かれたとか。
     奥様は少し興奮気味で、状況を少しずつ話して下さった。避難所から帰宅したばかり。未だ家は壊れたままの所もあり、不自由な事ばかりだとか。近所で助け合ってなんとか暮らしています。ご近所の有難さを実感しています。とおっしゃった。
     電話を切って、ほっとする部分があり、結局は自分の気休めである事に気が付き、また後ろめたさに責められている。
     阪神淡路の時は友人知人が大勢いるので本当に心配した。メディアは盛んに〈不要不急の電話は掛けるな〉と声を大にする。が、絶対必要なのだからと言い訳しつつ、かけまくった。全く繋がらない。
     次は中越地震。十日町にも友人知人ばかり、電話を掛けまくったがやはりダメ。ある瞬間、繋がった。あまりに寒いので防寒具を取りに来たところよ、みんな無事だから安心してと言われた。その次は熊本地震。娘婿さんの実家。娘夫婦を通じて皆さんの無事を知る事ができホッとした。
     阪神淡路大震災の後、ボランティア元年と言われ、いろんな事が少しずつ定義づけられるようになった。ボランティア活動はわが身の事は全部我が身で処し、被災者に迷惑をかけない事を大前提とする。年を重ねた今となっては、お見舞いに行く事も差し控えねばならない。
     全国あちこちで地震が起き、無事・安全な地域はないみたい。いつ我が身に降りかかるかもしれない。七尾の奥様はご近所付き合いの大切さを力説。千葉も揺れているみたいだから気を付けてね、と反対に注意された。現在の当地は、ご近所付き合いが希薄。大問題だ。

    2024年4月6日号

  • 正規職員と非正規職員、待遇格差の改善を

    教育支援員54人?

    村山 朗 (会社員)

     地元紙の1面に十日町市の新年度予算の記事が掲載されていました。見出しは「子育て・教育に細かく展開」とありました。私立保育園・こども園の支援、子育て支援の充実、学校教育の充実、特色ある教育活動の推進、などです。馬場小学校が来年度末で閉校になるため、閉校支援予算もありました。筆者がかつて通ったT小学校も地域の役員の話では、新1年生の入学がついに30人を切り、1クラスになるそうです。半世紀以上も前の話ですが、1学年に250人以上もいましたので、少子化が加速してまるで別の国のはなしを聞いているような気がします。 
     過日「十日町市立中学校のあり方についての提言」が公表され、小学校に次いで中学校も改廃論議の現実味が増してきました。今回の予算案に戻ると、校舎の整備・更新などに次ぐ予算額で目を引いたのが、「学校生活や適切な学びの場をサポートする教育支援員を8名増やし54人を配置」という項目です。予算額約1億2千万円。市の公開資料には教育支援員は50人に満たず、中々応募がなくて大変だ、との記述があります。そんな状況の中で8人増やす(増やせる)というのは何か秘策でもあるのでしょうか。
     支援が必要な子供が増えている(これも公開情報より)中で教育支援員を増やすという計画なのでしょうが、1億2千万円を54人で割ると1人当たり約220万円です。コロナ禍の時期に話題になったエッセンシャルワーカーという言葉がありますが、教育支援員も学校教育のエッセンシャルワーカーではないかと思います。
     エッセンシャルワーカーには非正規社員(職員)が多く、賃金も低いという報道もよく目にしました。なぜ大切な仕事をしている人の賃金が低いのか、低賃金は当然なのでしょうか。昨今賃上げが好調だと報道されていますが、非正規のエッセンシャルワーカーの待遇改善は置き去りにされているような気がします。
     十日町市の正規職員は500人余りで、平均給与は550万円前後。非正規職員の人数もほぼ同数。この教育支援員の予算からわかるように、市の非正規職員の待遇はとても良くない上に、採用期間も1年区切りです。 正規職員が頑張ればいいじゃないかと皮肉の一つも言いたくなりますが、非正規職員のなり手がいなくなれば、正規職員も働き方改革どころではありません。市として非正規職員の待遇改善に大きく力を入れるべきではないでしょうか。
     そして誰もいなくなった、となりませんように。

    2024年3月30日号

  • 市町村で必要な情報共有に機会

    地域経済政策を考える

    清水 裕理 (経済地理学博士)

     地域経済政策には、産業的な政策と福祉的な政策があり、産業的な政策は企業誘致、地場企業振興など、福祉的な政策は公共事業、生活関連サービスの充実などです。
     生活関連サービスは医療、介護、子育て、住宅、防災、まちづくり、学習などで、あらゆる市区町村に、おおよそ人口に比例した数の事務所が存在します。
     産業的な政策と福祉的な政策は、車の両輪の関係で、例えば、企業誘致の場合、少子化と高齢化が同時進行している現在、地域で働く人が少なくなっているため生活環境の整備が重視されます。人材不足は、地域社会を守る要の警察や消防、医療や介護の分野でもとなれば深刻です。
     話はとびますが、先日、日銀が17年ぶりに利上げを行い、その幅は大きくないですが、円高にふれるのが普通と思われたところ、会見で、当面、緩和的な金融環境が継続する旨の発言があり、逆に円安になりました。  会見での日銀総裁の発言は、円安になることを意図してのことだったのでしょうか? 日本経済にとって、円安はよいのか? 悪いのか? 世の中の意見は真っ二つです。
     円安がよいとした場合、その理由は、輸出企業のメリット、日本の土地代や人件費が相対的に安くなるので工場などの国内回帰が進むのではないかがあげられます。
     先ほどの話に戻って、もし、国内回帰で地方に工場が増えた場合、今の状況では働く人の取り合いが起きることが懸念されます。売り手市場が加速し賃金上昇につながるのだからよいという意見もあります。
     上記は一例ですが、今後の地域経済政策において、色々なことを想定しながら、いかにバランスのとれた政策を行なっていくか、そして、人口が減少する世の中になっても、安心して生活し子育てすることのできる地域を再構築できるのか…。
     分野的に再構築が進んでいるのは地域交通の分野だと思います。最近、国の審議会に出席すると、その話題が多く出るようになりました。デマンドバスやデマンドタクシーの運営は? 前より不便になるかもしれないが必要なルートと時間帯は? 地域全体での協力は? ボランティア的なものは? デジタルとアナログは? など、妻有地域では早くから挑戦を続けてこられていると思います。
     うまくいっていること、失敗したこと、悩んでいること、他の市区町村から情報共有を求められる機会が増えるのではないかと思います。

    2024年3月23日号

  • 立派な肥料、SDGsの胸バッジの意味は?

    「糞尿について考える」

    長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

     子どもだった頃、肥溜めに落ちたことがあった。10歳くらいだった。戦時中から都会の空地には多くの素人畑があって、南瓜や芋を植えて飢えをしのいでいたのだろう。近くには防空壕の残がいや工場の鉄骨が焼けただれて残っていて、小さな畑も同じ時代の哀しみを映していた。同時期の大通りには馬が曳く長い荷車に肥桶が満載されていたことを覚えている。
     そのうちに肥桶を積んだ長い荷車も無くなり、各自の便所にはバキュームカーが横付けされて僕らの糞尿は運び去れ、少し時代が進んだように感じたものだ。母親は汲み取りの人にタバコを手渡してお愛想をいっていたような記憶もある。
     その後、津軽を歩いた時のことだが、夏になる頃だったと思うが、うねるように広がる畑に、今まかれただろう糞尿がいいにおいをさせていた。抜けるような青空と人糞のコントラストが今でも忘れられない。
     現代では糞尿は環境省の指導でやたらに廃棄も出来なくなったが、昔は東京湾に糞尿を積んだ船が出て、そこで汚泥を捨てていたことがあった。いま汚物はほとんどが水洗式となって海に投棄されることはないが、その分、東京湾の栄養価が下がってイワシなどの資源が減ったとも聞く。
     秋山でも人糞を肥しとしてまいたのかと長老の方に訊いてみると、「あ~、お金がないのだから肥料は人糞で、肥溜めを作る余裕もなく直ぐに畑にまいたものだ、ナスなどは小便を掛けるとよく育ったよ!」と笑った。 私が落ちた肥溜めはそりゃ汚らしかったが、においはなかったように覚えている。続けて長老は「人糞をまくと回虫が出て来る。それには困った」と話した。私の小学校では朝礼の時に虫下し用チョコレートの配布もあった。私の尻からは回虫は顔を出さなかったが、多分多くの小学生は腹のなかで回虫を養殖していたのだろう。
     正月に起こった能登半島地震で被災された方々が身を委ねた避難所では水がなくトイレが使えず不便をしているという。洋式便器にビニール袋をかぶせ、自身の糞尿をゴミとして出すという。都会ではそんなビニール袋が品薄となったと聞く。 時代が進んで汲み取り便器に腰を下ろした経験のない人にしてみれば、それもしょうがないのだろうが、そんな経験が出来る所がないようになったのだろう。
     生きていれば腹が空いて、食べれば排泄するのはセットとして当然のことでもある。そんな当たり前のことを日本中の大人が忘れてはいけないと思った。
     自分の糞尿が野菜を作り、海の魚を育て、それをうまいと思って口にすることから、つまり一からもう一度、生き方の復習が来るべき大きな災害に備えることになる。ペットボトルの本数やら非常食の備えやら忙しくなるのだが、それで解決する訳もないとしても、それなりの準備も必要なのだろう。
     昔、チベットの安宿で塔のような便所まで階段を上り、そこの二つの互い違いに置かれた便器にしゃがんでいると、反対の便器に西洋人のご婦人が外連げもなくしゃがんで、そのご婦人と競争するように用を足した記憶がある。三階ほどの便所から落ちた糞尿は下に蠢いていた豚がそれを食べていた。その豚をチベットの住人がうまそうに食べるのだろう。
     資源とは面白いものでそれを生かすのも捨てるのも、その時代の人間の感性なのだ。生きることは奇麗ごとではなく、生き延びる知恵と力が無くてはならないのだと考える。
    例えば灯油ストーブ、とりわけお湯がわせる型のものやプロパンガス、テーブルボンベなど使い方を知って置かなければならないのだ。行政が火災の危険や爆発の予防と言ったとしても、今回の能登地震のような寒さのなかで、どう生きるかを考えなければいけない。
     汚いと嫌われる糞尿が研究を重ねることで立派な肥料になる事などを考えないでSDGsのバッジを胸につけても意味は無いじゃないか。ここのような小さな集落でこそ堆肥作りの研究を行うべきなのだと考える。

    2024年3月16日号

  • 当世新入社員事情、「耐え忍ぶ」は、今は昔

    退職手続き代行業

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     この春、三番目の孫が社会人になった。先年就職した初孫も、二番目もそれぞれらしい職に就くことができ、じじ・ばばも一安心した。近頃のニュースを聞くと、最近は短期間で就職した企業を辞し、転職する傾向が強いとか? しかも、その手続きを代行する企業もあるという。
     本人はもちろん、代行する企業も、退職を告げられる企業も、あれこれ斟酌することなく、極めてビジネスライクに手続するのみ。これには唖然とした。更に一度ご縁のできた企業に、定年まで勤め上げるなーんて考えている人は殆どいない。
    そんな折、四六時中つけているラジオから『ああ、上野駅』の歌が流れてきた。♬どこかに故郷の香りを乗せて、入る列車の懐かしさ…♬
    〈金の卵〉ともてはやされ、その実、安い労働力として使い捨てられた中卒の子どもたち。
     中学生の頃、同級生が夜勤明けで倒れ亡くなった。義務教育も終えぬうちから、多くの弟妹や、病身の母親のために働いていたのだそうだ。
     そして私自身の就職は、戦後15年位は経ってはいたが、まだまだ厳しい状況だった。それでもどの企業も経営状態の如何にかかわらず、新卒はたとえ一人でも採用して育て上げる風潮だった。おかげで片親だった私も採用してくれた会社があった。
     電話を取るのは新入社員の仕事と決まっていたのに、家に電話はなかったので、電話が怖くて取れなかった。事ある毎に厳しく躾けられ、その上司に当てつけで、目の前で首を吊ってやる! と思ったほど。でも直後上司はショックでもそのうち忘れ去る。片や私は死んでしまう。そんなことはダメだ、ダメだ。ものになったかどうかは疑問だが、その後は何かにつけて色々任せていただいた。
     我慢と耐え忍ぶのが精一杯であった昔。世の中が大きく変化し、いろんなノウハウがある。我々世代には想像すらできない方法で、働き方も大きく変わった。新入社員だけでなく、大人たちも副業が認められている企業が少なくないとか。
     生涯をかけて会社を支える社員もいない、生涯をかけて面倒を見てくれる企業もない、いや出来なくなったのだろう。
     数十年経ったとはいえ、やりたくない事、避けたい事をしないで済むのは、不要なエネルギーを使わないことのほうが、今どきなのかな?  昔人間には首をかしげることばかりだ。

    2024年5月18日号

  • 「よくわからない、どちらともいえない」、無関心層が問題

    5月3日、憲法記念日

    村山朗 (会社員)

     好天に恵まれたきものまつり。まだコロナが2類から5類に移行する直前だった昨年に比べると人出が何倍も増した気がします。往時にくらべ着物姿はほんとに少なくなった感があります。1970年代後半にきものまつりが誕生した時の「着物を着て楽しむ祭り」の趣旨は薄れても、キッチンカーや様々な飲食スタンド、各所で行われた音楽演奏など家族づれで楽しめる春の一大イベントに変身したことは歓迎すべきことだと思います。着物姿が殆どいないじゃないか、などと野暮なことは言いっこなし。
     閑話休題、5月3日は憲法記念日。ある調査では憲法を変えたほうが良い、という意見がかつてより増えてきたという結果が出ていましたが、よくわからない、どちらともいえない、という答えも多数を占めていました。 
     日本の憲法は世界の中でも、戦争放棄をしているまれな憲法だ、と言われてきましたが、この平和条項は世界の憲法でも大多数の国が採用しているそうです。わが国でも憲法解釈で自衛権としての戦争は認められるということらしいです。らしいというのは明記されていないからです。自衛隊の存在も明記されていません。
     こんな不完全な憲法を77年も放置してきた立法府の怠慢の原因は国民の多数を占める「よくわからない、どちらともいえない」という無関心層のせいではないでしょうか。災害となれば自衛隊を頼るくせに、明記していない憲法を変えるな、と叫ぶ一部の人たちも同様です。
     自民党が自壊しているというのに、護憲派の立憲民主党の支持率は一向に上向きません。改憲であれ、護憲であれ、国会で議論もしないというのはとてもおかしな話しです。各政党の案を公開し議論したうえで国民投票をする、という手順を早急に踏んでもらいたいです。議論に入るのをサボタージュしている政党は、国民投票で負けるからとでも思っているのでは、と勘繰りたくなります。 
     そうはいっても改憲派がドイツは何回も改憲した、と引き合いに出す同じ敗戦国のドイツ基本法と日本国憲法の建付けはまったく違うので、同じ土俵に上がるのは無理があります。
     アメリカの占領下にバタバタと作られたわが国の現行憲法は、改憲が難しい憲法です。しかしながら、現在の我が国を取り巻く安全保障環境は20世紀とは比較できないほど厳しさを増しています。少なくとも入隊に際して「命を賭してでも国を守る」と誓った人たちの存在を、憲法に明記すべきではないでしょうか。

    2024年5月11日号

  • 自民の敗北、金融政策への影響は

    やはり気になる金融政策の行方

    清水裕理 (経済地理学博士)

     今年もゴールデンウィ
    ークを迎え、気温差がまだあるものの、草木が芽吹き、一緒に桜の開花も楽しめる妻有の風景を想像しています。新潟県や長野県の中山間地域では、桜の花のピンクがより色濃く、美しさを増しているように感じます。
    そのようなゴールデンウィークのさなか、国内の政治経済に目を向けると、衆議院補欠選挙が3地域で行われ、その全てで与党・自民党が議席を得ることができませんでした。この結果を受けて、岸田政権はどうなっていくのでしょうか。東京と長崎の選挙区は自民党議員の不祥事による補欠選挙だったため、候補者をたてられませんでしたが、島根は自民党と立憲民主党の一騎打ちに。
    島根出身とすぐに思い浮かぶ苗字の自民党の錦織氏と、地元での政治活動を熱心に行ってきた立憲民主党の亀井氏との戦いで、応援の大物政治家が現地入りする様子がニュースでさかんに流れました。自民党王国の島根での敗北を自民党がどう総括するか注目されます。
     今年も変わらない美しい春の訪れを自然は見せてくれていますが、政治経済の話になると、気になることが頭をよぎります。
     もう一つの気になることに、4月末に開かれた日本銀行の金融政策決定会合があります。世界の水準に合わせる方向で利上げが示されるのか示されないのか、どのようなメッセージが出されるのか注目されましたが、現状維持とのことでした。
     中央銀行の金融政策の目的は、どの国においても「物価の安定」です。それと一緒に「景気対策」を目的に加えるか否かは国によって、或いはその時の状況によって異なります。
     「物価の安定」と「景気対策」は、効果を発揮するまでの期間も違いますし、効果を図る指標も違うので、それらを両立する金融政策をいかに実施するかは、まるで複雑な方程式を解くことのように思います。果たして、そのような複雑な方程式を解くことができるでしょうか…。
     そのせいか分かりませんが、最近は日本銀行も米国の中央銀行も、分析に基づいた方向性を示すことが少なくなり、その代わりに、時々の情勢により判断する、という言い方が多くなっているような気がします。
     いま、対ドルなどの円の為替相場の動向に、人々の関心が大きく向いており、円安がどこまで進むのか、その議論の際に、国際金融のトリレンマ(国は自由な資本移動、金融政策の独立性、為替相場の安定の3つを同時に実現することはできず、2つしか実現できないこと)が言われています。今後の行方を気にしてゆきたいと思います。

    2024年5月4日号

  • 日本人の忘れ方、日本人の忘れ物

    都はるみを唄い…

    長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

     日本の総理大臣が、自民党の裏金問題の結着を中堅議員に押し付けて、国賓として招待されている米国に、そそくさと逃げるように飛び立った。気が楽になったのかAIが作った画像と見まがうような表情で、饒舌に大統領や米議会で気楽なスピーチを行なって、笑いを取ってエヘン、プイプイといった感じで帰国した。
     ただ、持って行ったお土産は国防予算の増額だった。この11月にアメリカ・ファーストの候補者が当選してしまえば何のことはない、日本の自衛隊が最前線に取り残される可能性も出て来る。
     戦後の平和を当たり前と感じている場渡り的な日本の保守政治家の忘れ方である。それを取材し報じるメディアも、上からの指示なのか裏金問題のニュースも少なくなったように思う。
     そういえば発生から4ヵ月近く過ぎた能登半島地震のニュースも減ったような気がする。輪島の朝市が場所を変えて復興したとか、能登を走るJRが復旧したと良いことばかりが目立つ。
     あの3・11東日本大震災の時も時間をかけて震災報道が少なくなって、明日に向けてのイベントが始り、平常に戻りつつあり、災害が過去の出来事のようなニュースが、ある時から多くなったように思った。
     もっとも、悲しくて辛いことは忘れなければ生きて行けないのだろう。が、それらの災害で大切な人を失くした者にとって、忘れられる事ではないはずだ。一方、身近に亡くした人が居なかった人たちにしてみれば、一刻も早く忘れたい記憶なのだろう。
     壊れた家は時間をかければ建て直せるが、亡くした父母や子供は何年経ったって忘れられるものではない。前の大戦、戦地で2人の子供を失くした祖母の心から笑った表情の写真は一枚もない。
     戦後になって70年80年と寿命が延びても、悲しい思いは重い記憶となって付いて回るのである。そんな悲しみの本質をメディアに携わる記者だからこそ、忘れてはいけないことなのだ。
     この春から自民党派閥の裏金問題も総理訪米の成功(?)の裏で、補欠選挙の結果までは、おとなしく忘れたふりをすることになるのだろう。これもひとつの忘れ方で、江戸の昔から続く臭い物に蓋的な対処のようだ。 その挙句、明治になってから日清日露、世界大戦、太平洋戦争と戦争漬けの国になってしまったのだ。
     それでも日本の政治家が太平洋戦争の敗戦、広島・長崎への原爆投下を知っている内は良かったが、戦争を知らないボンボン二世議員の登場となると、実に気楽に、貰えるものは貰っちゃえと安気に過ごすようになるものらしい。世襲の呑気な殿様のように、世襲の政治家たちが忘れた正義や理念の軽さなのだろう。
     私も後期高齢者になってしまったけれど、思えば幾つもの間違いや失敗をして来た。だけれども自分がやられて嫌だと思うことはやらなかった。同時に裏切らない! で暮らして来た。
     口喧嘩や恨んだり妬んだり、僻んだり嫉みはいつもあったが それは自分の腹のなかで呑み込んで貧乏を通して来た。私の場合の忘れ方は少し多めに酒を飲んで、都はるみの歌を唄って、ぐすんと涙を流せば、それでいいのだ。大切な忘れ物は、伝えられなかった言葉くらいなもので、年齢を重ねてみると、首相も大臣もそれぞれの指導者も皆私よりも年下になりつつある今は、悪い時も、少し良かった時も、平気な顔だけして酔ったふりして思い出せる記憶があるだけだ。
     な~に、5年もすればきれいさっぱり忘れられるのだし…。

    2024年4月27日号

  • この道はいつか来た道 …

    ドヤ顔に頭がクラクラ

    藤ノ木信子 (清津川に清流を取り戻す会)

     先週、岸田首相は米国で首脳会談と議会での演説をして拍手に得意満面だった。「国際社会は歴史的な転換点にある。今こそ日米両国がグローバルパートナーとして真価を発揮すべき時である」「米国は一人ではない、なすべき準備はできている」「戦争可能な正常国家(一流国家)になる」とドヤ顔だったけど私は頭がクラクラした。
     これはもうどう解釈しても憲法違反で、こんなこと自国の国会で討論されましたか? 憲法改正する国民投票ありましたか? バイデン大統領は「我々はともに、防衛・安全保障協力を強化するための重要なステップを踏み、指揮・統制を現代化する」と発言。これね、米軍と自衛隊の情報共有システムを構築して共に行動する(自衛隊が米軍の指揮下にもなり得る)ということですよ。自衛隊は軍隊ではない!
     戦後平和憲法下の77年、歴代自民党首相が戦地を紛争当事国と言い換え自衛隊を派遣し、安保3文書を備えて集団的自衛権行使を規定した。専守防衛原則から逸脱して詭弁を重ね敵基地攻撃能力まで可能とし、武器輸出を防衛装備品移転と言い換え平和憲法は無力化した。岸田首相の訪米は、米国と一緒に喜んで戦争に参加します! と宣言したようなものだと私は思った。
     だからロシアは米日同盟強化のこの宣言にすぐ反応し「米日はすでに事実上軍事同盟関係だ」と発言。これで日本全土が反米側の標的になる。再稼働の地元合意もないまま燃料を装填した柏崎刈羽原発は、ウクライナのザポリージャ原発と同様に常に爆撃やサイバー攻撃に怯えなければならない。私には岸田首相が言う「歴史的な転換点」とは国民や国土を新たな危険に晒す転換点としか思えない。
     イラン、イスラエルの攻撃の応酬で世界大戦の始まりを感じるきな臭いこんな時に、わざわざ渦中に飛び込むとは…この後どんな未来があるのか想像してみてください。私の予想では疫病や地震など災害を期に危機感を煽り、国民の考える力を押さえて同じ方向を向くようにするでしょう。
     敵国の脅威を言い、より強力な武器(核兵器)の保有を正当化。私のように異を唱える人は非国民で、国防・国益優先で人権や言論の自由は無くなる。自衛隊、志願兵、徴兵… この道はいつか来た道… そう、3百万人が犠牲になった過去の日本だ。
     決して戦争をしてはいけない。近いうちに解散総選挙になるでしょう。今はまだこの国の主権者は私たち国民です。選ぶことができます。どうか戦争の道だけは歩まないように。

    2024年4月20日号

  • 何も進んでいない「核のゴミ」

    あれから13年、原発問題

    斎木 文夫 (年金生活者)

     3月30日付け本紙の社説の見出しは『3月議会、なぜなかった原発論議』であった。確かに東電は原発再稼働の準備を着々と進めている。その間、十日町市・津南町議会は何をしていたのか。
     共産党市議団・富井氏は24年度予算案に対する反対討論の冒頭で「柏崎刈羽原発の再稼働に反対し、廃炉を求める」と訴えた。ほかに何かあったのだろうか。
     本紙新年号の名士の「新年のご挨拶」も柏崎刈羽原発再稼働問題に触れたものはなかった。2人の県議には期待していなかったが、原発から30㌔圏内に入る十日町市の市長、隣接する津南町長からは、住民の生命・生業をどう守るのか、何らかのメッセージをいただきたかった。
     能登半島地震後、専門家の話を聞いて、心配になったことがある。
     1つは、今回の地震では4枚の活断層が滑ったことで津波が発生したが、佐渡沖の2枚の活断層はほとんど動かず、今後大きな揺れを引き起こすおそれがあるということ。この活断層の位置は佐渡の西側で、上越沖と言った方が分かりやすい。
     2つ目は、海陸境界の断層は、調査のいわばエアポケットみたいな状態で、調査が進んでいないということ。柏崎刈羽原発敷地内・周辺に活断層があるかどうか、専門家の間で意見が分かれるのも無理はない。
     柏崎刈羽原発再稼働をどう考えたらいいか、事前学習として4月2・3日に福島第1原発事故13年後の姿を見てきた。
     復興庁によると、原発事故による避難者は約2万9千人(2月1日現在)。この中に「自主避難者」は含まれていない。
    帰還困難区域では、部分的に放射能除染をした「特定帰還居住区域」で新しい街づくりが始まっていた。しかし、原発が立地する大熊町の居住者数は646人(事故前の5・6%)、双葉町が102人(同1・4%)しかいない。
     「街」には東電社宅、原発作業員宿舎、町営住宅が並び、人がいなくなった土地には汚染土の袋と太陽光パネルが並ぶ。
     福島第1原発のデブリの取出し、廃炉の工程は見通せず、汚染水は海洋放出に近い量が新たに流入していた。避難者も帰還者も多くが生業を奪われ、厳しい生活が続いている。福島第1原発事故は現在も進行中で、決して過去の出来事ではない。
     今後も想定外の地震や津波が起きる。核のごみを安全に処分する技術はない。そして、ヒトは必ずミスをする。やっぱり、原発の再稼働はダメだ。

    2024年4月13日号

  • 「ご近所付き合いの大切さ」力説

    「激震お見舞い」を考える

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     能登大地震から程なく四ヵ月になろうとした頃、やっと電話がかけられた。
     元日に起きた能登地震、わが長男の嫁さんの実家も小松市にあって、大騒ぎになった。彼女を通じて小松の皆様は、とりあえずはご無事である事はすぐわかった。
     もう一人案じた人が居た。十日町在住の昔から親交のあった知人が能登七尾市にお住まいだ。携帯番号は知らない。TVに映し出される様子は、目を覆うばかり。電話すべきではない状況と判断し、しばらく経ってからと思った。一向に状況は良くならない。もし電話が通じても、どう話したらよいのか? どんな状況なのか? とても聞けそうもない。折に触れてのカンパをする位しか出来なかった。
     後ろめたさにつぶされそうになりながら、時だけは容赦なく過ぎた。三月末、恐る恐る電話した。それでも明るい元気そうな声で奥様が出て下さった。ご主人は農業をなさっているので、夜七時半位だったが既に床に就かれたとか。
     奥様は少し興奮気味で、状況を少しずつ話して下さった。避難所から帰宅したばかり。未だ家は壊れたままの所もあり、不自由な事ばかりだとか。近所で助け合ってなんとか暮らしています。ご近所の有難さを実感しています。とおっしゃった。
     電話を切って、ほっとする部分があり、結局は自分の気休めである事に気が付き、また後ろめたさに責められている。
     阪神淡路の時は友人知人が大勢いるので本当に心配した。メディアは盛んに〈不要不急の電話は掛けるな〉と声を大にする。が、絶対必要なのだからと言い訳しつつ、かけまくった。全く繋がらない。
     次は中越地震。十日町にも友人知人ばかり、電話を掛けまくったがやはりダメ。ある瞬間、繋がった。あまりに寒いので防寒具を取りに来たところよ、みんな無事だから安心してと言われた。その次は熊本地震。娘婿さんの実家。娘夫婦を通じて皆さんの無事を知る事ができホッとした。
     阪神淡路大震災の後、ボランティア元年と言われ、いろんな事が少しずつ定義づけられるようになった。ボランティア活動はわが身の事は全部我が身で処し、被災者に迷惑をかけない事を大前提とする。年を重ねた今となっては、お見舞いに行く事も差し控えねばならない。
     全国あちこちで地震が起き、無事・安全な地域はないみたい。いつ我が身に降りかかるかもしれない。七尾の奥様はご近所付き合いの大切さを力説。千葉も揺れているみたいだから気を付けてね、と反対に注意された。現在の当地は、ご近所付き合いが希薄。大問題だ。

    2024年4月6日号

  • 正規職員と非正規職員、待遇格差の改善を

    教育支援員54人?

    村山 朗 (会社員)

     地元紙の1面に十日町市の新年度予算の記事が掲載されていました。見出しは「子育て・教育に細かく展開」とありました。私立保育園・こども園の支援、子育て支援の充実、学校教育の充実、特色ある教育活動の推進、などです。馬場小学校が来年度末で閉校になるため、閉校支援予算もありました。筆者がかつて通ったT小学校も地域の役員の話では、新1年生の入学がついに30人を切り、1クラスになるそうです。半世紀以上も前の話ですが、1学年に250人以上もいましたので、少子化が加速してまるで別の国のはなしを聞いているような気がします。 
     過日「十日町市立中学校のあり方についての提言」が公表され、小学校に次いで中学校も改廃論議の現実味が増してきました。今回の予算案に戻ると、校舎の整備・更新などに次ぐ予算額で目を引いたのが、「学校生活や適切な学びの場をサポートする教育支援員を8名増やし54人を配置」という項目です。予算額約1億2千万円。市の公開資料には教育支援員は50人に満たず、中々応募がなくて大変だ、との記述があります。そんな状況の中で8人増やす(増やせる)というのは何か秘策でもあるのでしょうか。
     支援が必要な子供が増えている(これも公開情報より)中で教育支援員を増やすという計画なのでしょうが、1億2千万円を54人で割ると1人当たり約220万円です。コロナ禍の時期に話題になったエッセンシャルワーカーという言葉がありますが、教育支援員も学校教育のエッセンシャルワーカーではないかと思います。
     エッセンシャルワーカーには非正規社員(職員)が多く、賃金も低いという報道もよく目にしました。なぜ大切な仕事をしている人の賃金が低いのか、低賃金は当然なのでしょうか。昨今賃上げが好調だと報道されていますが、非正規のエッセンシャルワーカーの待遇改善は置き去りにされているような気がします。
     十日町市の正規職員は500人余りで、平均給与は550万円前後。非正規職員の人数もほぼ同数。この教育支援員の予算からわかるように、市の非正規職員の待遇はとても良くない上に、採用期間も1年区切りです。 正規職員が頑張ればいいじゃないかと皮肉の一つも言いたくなりますが、非正規職員のなり手がいなくなれば、正規職員も働き方改革どころではありません。市として非正規職員の待遇改善に大きく力を入れるべきではないでしょうか。
     そして誰もいなくなった、となりませんように。

    2024年3月30日号

  • 市町村で必要な情報共有に機会

    地域経済政策を考える

    清水 裕理 (経済地理学博士)

     地域経済政策には、産業的な政策と福祉的な政策があり、産業的な政策は企業誘致、地場企業振興など、福祉的な政策は公共事業、生活関連サービスの充実などです。
     生活関連サービスは医療、介護、子育て、住宅、防災、まちづくり、学習などで、あらゆる市区町村に、おおよそ人口に比例した数の事務所が存在します。
     産業的な政策と福祉的な政策は、車の両輪の関係で、例えば、企業誘致の場合、少子化と高齢化が同時進行している現在、地域で働く人が少なくなっているため生活環境の整備が重視されます。人材不足は、地域社会を守る要の警察や消防、医療や介護の分野でもとなれば深刻です。
     話はとびますが、先日、日銀が17年ぶりに利上げを行い、その幅は大きくないですが、円高にふれるのが普通と思われたところ、会見で、当面、緩和的な金融環境が継続する旨の発言があり、逆に円安になりました。  会見での日銀総裁の発言は、円安になることを意図してのことだったのでしょうか? 日本経済にとって、円安はよいのか? 悪いのか? 世の中の意見は真っ二つです。
     円安がよいとした場合、その理由は、輸出企業のメリット、日本の土地代や人件費が相対的に安くなるので工場などの国内回帰が進むのではないかがあげられます。
     先ほどの話に戻って、もし、国内回帰で地方に工場が増えた場合、今の状況では働く人の取り合いが起きることが懸念されます。売り手市場が加速し賃金上昇につながるのだからよいという意見もあります。
     上記は一例ですが、今後の地域経済政策において、色々なことを想定しながら、いかにバランスのとれた政策を行なっていくか、そして、人口が減少する世の中になっても、安心して生活し子育てすることのできる地域を再構築できるのか…。
     分野的に再構築が進んでいるのは地域交通の分野だと思います。最近、国の審議会に出席すると、その話題が多く出るようになりました。デマンドバスやデマンドタクシーの運営は? 前より不便になるかもしれないが必要なルートと時間帯は? 地域全体での協力は? ボランティア的なものは? デジタルとアナログは? など、妻有地域では早くから挑戦を続けてこられていると思います。
     うまくいっていること、失敗したこと、悩んでいること、他の市区町村から情報共有を求められる機会が増えるのではないかと思います。

    2024年3月23日号

  • 立派な肥料、SDGsの胸バッジの意味は?

    「糞尿について考える」

    長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

     子どもだった頃、肥溜めに落ちたことがあった。10歳くらいだった。戦時中から都会の空地には多くの素人畑があって、南瓜や芋を植えて飢えをしのいでいたのだろう。近くには防空壕の残がいや工場の鉄骨が焼けただれて残っていて、小さな畑も同じ時代の哀しみを映していた。同時期の大通りには馬が曳く長い荷車に肥桶が満載されていたことを覚えている。
     そのうちに肥桶を積んだ長い荷車も無くなり、各自の便所にはバキュームカーが横付けされて僕らの糞尿は運び去れ、少し時代が進んだように感じたものだ。母親は汲み取りの人にタバコを手渡してお愛想をいっていたような記憶もある。
     その後、津軽を歩いた時のことだが、夏になる頃だったと思うが、うねるように広がる畑に、今まかれただろう糞尿がいいにおいをさせていた。抜けるような青空と人糞のコントラストが今でも忘れられない。
     現代では糞尿は環境省の指導でやたらに廃棄も出来なくなったが、昔は東京湾に糞尿を積んだ船が出て、そこで汚泥を捨てていたことがあった。いま汚物はほとんどが水洗式となって海に投棄されることはないが、その分、東京湾の栄養価が下がってイワシなどの資源が減ったとも聞く。
     秋山でも人糞を肥しとしてまいたのかと長老の方に訊いてみると、「あ~、お金がないのだから肥料は人糞で、肥溜めを作る余裕もなく直ぐに畑にまいたものだ、ナスなどは小便を掛けるとよく育ったよ!」と笑った。 私が落ちた肥溜めはそりゃ汚らしかったが、においはなかったように覚えている。続けて長老は「人糞をまくと回虫が出て来る。それには困った」と話した。私の小学校では朝礼の時に虫下し用チョコレートの配布もあった。私の尻からは回虫は顔を出さなかったが、多分多くの小学生は腹のなかで回虫を養殖していたのだろう。
     正月に起こった能登半島地震で被災された方々が身を委ねた避難所では水がなくトイレが使えず不便をしているという。洋式便器にビニール袋をかぶせ、自身の糞尿をゴミとして出すという。都会ではそんなビニール袋が品薄となったと聞く。 時代が進んで汲み取り便器に腰を下ろした経験のない人にしてみれば、それもしょうがないのだろうが、そんな経験が出来る所がないようになったのだろう。
     生きていれば腹が空いて、食べれば排泄するのはセットとして当然のことでもある。そんな当たり前のことを日本中の大人が忘れてはいけないと思った。
     自分の糞尿が野菜を作り、海の魚を育て、それをうまいと思って口にすることから、つまり一からもう一度、生き方の復習が来るべき大きな災害に備えることになる。ペットボトルの本数やら非常食の備えやら忙しくなるのだが、それで解決する訳もないとしても、それなりの準備も必要なのだろう。
     昔、チベットの安宿で塔のような便所まで階段を上り、そこの二つの互い違いに置かれた便器にしゃがんでいると、反対の便器に西洋人のご婦人が外連げもなくしゃがんで、そのご婦人と競争するように用を足した記憶がある。三階ほどの便所から落ちた糞尿は下に蠢いていた豚がそれを食べていた。その豚をチベットの住人がうまそうに食べるのだろう。
     資源とは面白いものでそれを生かすのも捨てるのも、その時代の人間の感性なのだ。生きることは奇麗ごとではなく、生き延びる知恵と力が無くてはならないのだと考える。
    例えば灯油ストーブ、とりわけお湯がわせる型のものやプロパンガス、テーブルボンベなど使い方を知って置かなければならないのだ。行政が火災の危険や爆発の予防と言ったとしても、今回の能登地震のような寒さのなかで、どう生きるかを考えなければいけない。
     汚いと嫌われる糞尿が研究を重ねることで立派な肥料になる事などを考えないでSDGsのバッジを胸につけても意味は無いじゃないか。ここのような小さな集落でこそ堆肥作りの研究を行うべきなのだと考える。

    2024年3月16日号