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妻有新聞掲載記事一覧

  • 不安と不満、「リスクだけ負うのか」

    柏崎刈羽原発再稼働の動き加速、資源エネ庁説明会

     世界最大規模の東京電力・柏崎刈羽原発の6、7号機再稼働に向け、国が本腰を入れ始めている。今年9月は原子力関係閣僚会議で、国負担で同原発30㌔圏外へ放射線状に伸びる6方向の道路の拡幅や橋梁の耐震化を進める方針を示し、さらに高齢者らが一時避難する放射線防護施設の整備範囲を30㌔圏内に拡大する方針を打ち出している。さらに立地自治体の柏崎市や刈羽村は再稼働を求める姿勢を強める一方、花角英世知事は再稼働は「県民に信を問う」姿勢を崩していない。県内では「再稼働は県民投票で決めよう」とする署名活動が始まっているなか、原発再稼働を巡り多方面で動きが活発化している。

    2024年12月21日号

  • 手作りしめ縄で新たな一年の幸せ願う

     ◎…ぷぅんとワラの匂い香るなか、新年を迎えるための作業に熱が入った。津南町老人クラブ連合会による「しめ縄づくり講習会」14日に町社会福祉協議会で開催。津南町や十日町市から20人余りが参加。中には30代の参加もあり、ワラ職人の手ほどきを受けしめ縄づくりに挑戦。徐々にできあがる手作り工芸を見て「良い新年を迎えられるかな」と願っていた。

    2024年12月21日号

  • 「人とのつながり、しあわせ運ぶ」

    岡村さやかさん(1968年生まれ)

     昆布巻き、煮豆…伝統の郷土食を受け継いでいる。「お料理するお母さんの横で、見て味わって習ってきました。私の得意分野も取り入れ、品揃えが増えています」。義母・ヨキさんは1931生まれながら、手作り品を次々と生み出し、お店に並べ、次代につないでいる。「クリスマスには自家製タレに漬け、ローストしたチキンを毎年40本ほど用意し、お客様に喜んでもらっています」。

     東京世田谷生まれ。手細工が好きな子だった。「バック作りとかお料理とか、何かしら手を動かして作るのが好きでした」。世田谷・東横学園卒後、服飾関連の『エス モードジャポン東京校』に進学。「父方の母、祖母は和装助士でした。その影響が大きいかもしれません」。
     服飾のパターンやデザインを総合的に学び、日々の課題に取り組む。「スタイル画やデザインを描き、縫物は持ち帰り、気が付くとスズメが鳴き始めて朝だっーって。大変だ
    ったけど楽しかったですね」。
     卒業後はアパレルメーカー・NICOLEに専門職・パタンナーアシスタントで入社、21歳だった。「1枚の布に服の型紙をパズルみたいにはめて印刷していく仕事で、ペアでの業務でしたが次第に息があって楽しかったですよ」。印刷の生地を裁断しボディーにピンを止め洋服に仕立てるよう調整していく。「生地を合わせるために多くのピンを使うので、ボディーの下はピンだらけで、後の片付けが大変でした」と笑う。
     上司のパタンナーの紹介でスタイリスト・アシスタントに転職。その頃、専門学校時代から付き合っていた十日町市出身の亨さんと結婚、25歳。「アシスタントは体力勝負でしたね、ショップにプレス用の洋服を取りに行って、また返して、コレクション前は泊まりで仕事して、まるで合宿みたいで楽しかったなぁ」。

     33歳の時、長女出産。「娘が7ヵ月の時でした。自然の中で子育てしたいと夫が話し、私もそう思い、十日町に来ました」。
    時々来訪していた十日町、「移り住んだのは11月でした。雪が降る前で、雪国生活は初めてでしたが、子どもと雪遊びしながら冬を乗り越えましたね」。
     春を迎え、出会いがあった。「娘と散歩していたら、同じくらいの子を抱っこしている方と会い、話すと同じ11月に長岡から引っ越してきた方で、近所に住んでいると知りました」。ママ友同士、話題には事欠かない。「もう子どもたちは成人しましたが、その方とは今も仲良くしてもらっています」。
     長男出産後、夫の実家の商店の手伝いを始める。お客さん対応では方言に困ったことも。「お母さんや地域の人が教えてくれました。着物も十日町に住まなかったら着る機会はなかったかも、ですね」。娘の入学式に着物をと相談すると、多くの人が世話してくれた。「着付は出会ったママ友のお母さんでしたが、本当に地域の皆さんが優しくて、支えて頂きながらここまで来ています」。
     服飾の経験から洋服直し『GOOD REPAIRS(グッド リペアーズ)』を始め、口コミで広がっている。「直し技術をもっと深めたいです。主人やお客様が色々なアイディアを出してくれるので、意見を参考にしながら取り組んでいます。人と人のつながりが幸せを運んでくれていると感じ、本当にありがたいです」。
     ▼バトンタッチします
     太田留美さん

    2024年12月21日号

  • 原発再稼働について丁寧な説明を

    県民投票で決めよう

    齋木 文夫 (年金生活者)

     17日、経済産業省は「エネルギー基本計画」改定案を公表した。東電福島第一原発事故以降、明記してきた「原発依存度を低減する」という文言を削除し、原発建て替えの要件も緩和する。

    2024年12月21日号

  • そっくりさんなひっつきむし

    中沢 英正(県自然観察保護員)

     秋も深まった頃、草やぶの中で着衣にいろんな植物の果実や種子がくっついてくる。それらの愛称を「ひっつきむし」と呼ぶ。
     その中でもお馴染みさんがアメリカセンダングサである。名のとおり北アメリカ原産の外来種だ。
     田畑の周りや道端など身近で見られ、群生することが多い。
     果実はそう果と呼ばれ(写真左)、扁平で先に2本の突起がつく。その突起に逆刺があってそれでくっつくのだ。釣り針の返しみたいで取るのに厄介だが、子供達には「バカ」の名で人気の遊び相手である。
     それに似た果実をつけるのがコセンダングサだ。こちらも北アメリカ原産の外来種で、関東以西に多いが、苗場山麓でも見かけるようになった。
     そう果(写真右)には2~4本の突起がつくが、それに逆刺があるところは前者と同じ。
     どちらも一年草で、たくさんの種子を蒔き散らし勢力拡大に余念がない。

    2024年12月21日号

  • チャンスの季節がやって来た

     津南町の季節がやって来た。毎日の天気予報、全国の積雪状況が流れ、「津南町では…」と冬型が強いほどその呼称が頻繁に流れる。このチャンスを生かさない手はない。これまでも「好機」は毎冬訪れていたが、その動きはまだ見られない。労せずして…ではないが、このネームバリュー効果、津南町という名を売る宣伝効果を大きい。今冬、雪が多い予報だけに、またチャンスが巡って来た。
     「ふるさと納税」。自治体間競争がさらに過熱気味だ。この「津南町では…」を、ふるさと納税につなげる方策を考える価値があるのでは。あの「平成18年豪雪」、2006年の冬、津南町の呼称は世界に流れた。フランス・ルモンド紙が取り上げ、通信社や個人配信を経由しアメリカにも流れた。ふるさと納税開始の2年前だったが津南町は「人が暮らす大豪雪地」として世界に知られ、その地は、世界から来訪者が集う大地の芸術祭の地でもある。
     事業実現の資金確保のCF・クラウドファンディングにも役立ちそうだ。雪で困る豪雪地という側面より、雪を産業につなぐ事業化ならばCFへの関心度は高く、あの津南町という知名度が奏功するだろう。その先に明確なビジネスプランがあれば、継続的な事業展開も可能だし、関心度は高い。
     桑原悠町長は2期目就任後、他分野の事業民間や実業家と連携協定を結び、津南町という自治体の可能性を広げている。その分野の先にどう経済が見えて来るのか、どう道筋をどう付けるのか、そこの真価が問われている。すでに37歳町長の町は、知られる存在となり、次なる関心の視点は「次は何をするのか」だろう。
     この冬、冬型が強まれば連日のように「津南町」が出るだろう。まさに「好機」だ。このチャンスを逃す手はない。
    知恵とアイデアの出し所だ。
     さて、どう出るか津南町。

    2024年12月21日号

  • 問われる本気度、津南中等存続は

    県教委「形態変更」言及、高校再編計画3月に

     県立高校再編、津南中等校は生き残れるか―。県教委は8日、クロステンで『県立高校の将来構想―中長期を見据えた魅力と活力ある学校づくり―』説明会を開き、少子化で県立高校を10年後の令和16年度(2034)に現行の86校から64校と22校削減する方針を示した。この中で十日町市や津南町など魚沼エリアに位置する津南中等校の「実施形態の転換」に言及。現行の「中等教育学校」から「併設型」「連携型」の実施形態を案として挙げている。ただ「地元自治体との意見交換を重視」して進める方針で今後、地元自治体の本気度が求められる。将来構想の策定は来年3月を予定している。

    2024年12月14日号

  • 地域病院改革、若手医師ら議論

    県イノベーター育成臨床研修コース

    チーム「ツナノバ」主催

     人口8471人・高齢化率44・51%(11月末)、常勤医師や看護師確保が困難で、近年は再び一般会計からの繰入額が4億円近くなっている自治体病院を抱える津南町。町立津南病院の課題解決模索をと、新潟県イノベーター育成臨床コース主催のリクルートイベント「津南医療未来会議」は10月26日に開催。新潟大学などの医学生や県内勤務の研修医など13人が参加。町立津南病院の林裕作院長が地域医療の実状、さらに今春から非常勤医で週3回勤務と東京などでコンサルタント業の二刀流で働く宮城禎弥医師(27、岐阜県出身)と木村真依医師(27、神奈川県出身)のふたりから今の働き方など聞く時間を用意。参加者同士で病院改革案など議論し、課題山積みの地域病院の現実と向き合いながら、中山間地医療の未来を考える時間となった。第2回は14~15日に「地域医療体感ツアー」と題し、秋山郷の医療課題など議論するワークショップ、大根つぐら作り講習など行う計画だ。

    2024年12月14日号

  • 「今日も旅先で」

    小宮山英樹さん(1968年生まれ)

     芸は身を助く、それを実感する日々だ。観光ツアーの添乗員歴33年。全都道府県、25ヵ国の国を飛び回り、バス旅行ではツアー参加者の年代に合った歌を車中で披露し、旅行の雰囲気を盛り上げる。「人を楽しませたい」、その思いを込め、今日も旅先まで添乗している。

     父は民謡大会に出場、母は台所で家事をしながら演歌を口ずさむ姿を、幼い頃からいつも見てきた。「唄好きの血が私にも流れているのかなぁと思います」。中学は剣道、高校では野球に取り組む。一方で井上陽水のモノマネなど歌の上手さが評判を呼んだ。野球部では「先輩のフォームのモノマネすると、みんなが大笑いしました。でも、マネはうまいのに何で野球はうまくならねぇーんだ、なんて言われていましたね」。
     野球に打ち込んだ高校時代、卒業後の進路で親とぶつかった。「どうしても東京へ行きたかった」自分。長男を置いておきたい両親は猛反対。最後は「好きにしろっと言われ、学費を自分で稼ぐため新聞奨学生となり、都内の旅行専門学校へ進みました」。

     初めての東京はカルチャーショックの連続。一方で新聞販売所の寮生活は想像以上にハードだった。「朝2時に起きて新聞配達。朝食後、学校へ。寮に帰り夕食後は夜9時まで新聞勧誘という毎日。年間9日くらいしか休みが無かったですね」。このハードの生活を野球部で培った根性で立ち向かい、学校の勉強にも集中。まさに螢雪の功だった。「頑張った分、学校の成績は良かったですよ」。この新聞販売所で1年間、頑張った。
     翌年には別の新聞販売所へ転職。再び寮生活。週休2日、読者勧誘はなく自分の時間ができた。「自分の甘さが出ましたね。学校の成績がガタ落ち、時間が無いは言い訳だなと実感しました。今も教訓にしています」。専門学校卒業後はアメリカ行きを思ったが、専門学校の同級生の誘いで都内の旅行会社に就職。会社勤務の疲れをいやす居酒屋で、伴侶「ひろみ」さんと出会い結婚。20歳の時だった。
     国内外の添乗員経験を5年積み、国家資格を取得。しかし、さらに自分への課題を課した。「もっと自分を成長させたい」と転職。夜の飲食店、さらに体を動かしたいと佐川急便なども。だが、わが子の誕生で人生観を見直した。28歳の時。「様々な仕事を経験し、我が子は自然の中で育てたいと、生まれたふるさとに帰りました」。今は5人の子の父であり、9人の孫のおじいちゃんである。

     再び旅行添乗員の業務に戻り、越後交通で13年ほど働く。業務経験を積むと業務管理のポストに。「お客さんの喜ぶ顔を間近で見たい」と南魚沼市・昭和観光へ転職。バス旅行で添乗すると評判を知っている方々から歌のリクエストがある。楽曲は年代に合わせるためレパートリーを増やしている。「三橋美智也さんの曲などお客さんに喜んでもらうことが、私も嬉しいですね」。企業の社員旅行では若い年代のリズム感ある楽曲も披露する。
     そんな時、声が掛かった。十日町市でNHKのど自慢大会の開催が決まり、出てみればと。「話のタネになるかなぁーと思って」、さっそく応募。会場は中里アリーナ。7百人の応募から書類選考で250人に絞り、本選出場は20人、その中に選ばれた。「ゲストは細川たかしさんでした。難しい『望郷じょんがら』を歌ってアピールし、チャンピオン授賞でした」。
     出場後、各地の祭りやイベントへの出場依頼が舞い込んだ。だが、「人前で歌う自分の歌声を録音して聞いてみたら、自分はまだまだだなって」。ここからさらに自分を磨いた。「毎日の車での通勤時間や一人カラオケで7時間くらい練習。まだまだ納得できる歌になっていませんよ。お客さんが喜んでくれる顔を、いつも思い描いて練習しています」。
     今日も旅に添乗している。「リクエストがあれば、歌います。あくまでも楽しい旅のお手伝いですから。お客様の笑顔が第一です」。

    ▼バトンタッチします
     岡村さやかさん

    2024年12月14日号

  • 中村哲医師と日本被団協のノーベル平和賞

    ざわつく世界の中で

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     12月4日は中村哲医師の命日、何者かに銃撃されて崇高な命が失われた。アフガン難民キャンプで巡回医療を開始し、91年から、山岳地域に診療所を相次いで開いた。その活動を支援する人たちもどんどん増えた。次に続く医師たちも増えた。

    2024年12月14日号

  • 不安と不満、「リスクだけ負うのか」

    柏崎刈羽原発再稼働の動き加速、資源エネ庁説明会

     世界最大規模の東京電力・柏崎刈羽原発の6、7号機再稼働に向け、国が本腰を入れ始めている。今年9月は原子力関係閣僚会議で、国負担で同原発30㌔圏外へ放射線状に伸びる6方向の道路の拡幅や橋梁の耐震化を進める方針を示し、さらに高齢者らが一時避難する放射線防護施設の整備範囲を30㌔圏内に拡大する方針を打ち出している。さらに立地自治体の柏崎市や刈羽村は再稼働を求める姿勢を強める一方、花角英世知事は再稼働は「県民に信を問う」姿勢を崩していない。県内では「再稼働は県民投票で決めよう」とする署名活動が始まっているなか、原発再稼働を巡り多方面で動きが活発化している。

    2024年12月21日号

  • 手作りしめ縄で新たな一年の幸せ願う

     ◎…ぷぅんとワラの匂い香るなか、新年を迎えるための作業に熱が入った。津南町老人クラブ連合会による「しめ縄づくり講習会」14日に町社会福祉協議会で開催。津南町や十日町市から20人余りが参加。中には30代の参加もあり、ワラ職人の手ほどきを受けしめ縄づくりに挑戦。徐々にできあがる手作り工芸を見て「良い新年を迎えられるかな」と願っていた。

    2024年12月21日号

  • 「人とのつながり、しあわせ運ぶ」

    岡村さやかさん(1968年生まれ)

     昆布巻き、煮豆…伝統の郷土食を受け継いでいる。「お料理するお母さんの横で、見て味わって習ってきました。私の得意分野も取り入れ、品揃えが増えています」。義母・ヨキさんは1931生まれながら、手作り品を次々と生み出し、お店に並べ、次代につないでいる。「クリスマスには自家製タレに漬け、ローストしたチキンを毎年40本ほど用意し、お客様に喜んでもらっています」。

     東京世田谷生まれ。手細工が好きな子だった。「バック作りとかお料理とか、何かしら手を動かして作るのが好きでした」。世田谷・東横学園卒後、服飾関連の『エス モードジャポン東京校』に進学。「父方の母、祖母は和装助士でした。その影響が大きいかもしれません」。
     服飾のパターンやデザインを総合的に学び、日々の課題に取り組む。「スタイル画やデザインを描き、縫物は持ち帰り、気が付くとスズメが鳴き始めて朝だっーって。大変だ
    ったけど楽しかったですね」。
     卒業後はアパレルメーカー・NICOLEに専門職・パタンナーアシスタントで入社、21歳だった。「1枚の布に服の型紙をパズルみたいにはめて印刷していく仕事で、ペアでの業務でしたが次第に息があって楽しかったですよ」。印刷の生地を裁断しボディーにピンを止め洋服に仕立てるよう調整していく。「生地を合わせるために多くのピンを使うので、ボディーの下はピンだらけで、後の片付けが大変でした」と笑う。
     上司のパタンナーの紹介でスタイリスト・アシスタントに転職。その頃、専門学校時代から付き合っていた十日町市出身の亨さんと結婚、25歳。「アシスタントは体力勝負でしたね、ショップにプレス用の洋服を取りに行って、また返して、コレクション前は泊まりで仕事して、まるで合宿みたいで楽しかったなぁ」。

     33歳の時、長女出産。「娘が7ヵ月の時でした。自然の中で子育てしたいと夫が話し、私もそう思い、十日町に来ました」。
    時々来訪していた十日町、「移り住んだのは11月でした。雪が降る前で、雪国生活は初めてでしたが、子どもと雪遊びしながら冬を乗り越えましたね」。
     春を迎え、出会いがあった。「娘と散歩していたら、同じくらいの子を抱っこしている方と会い、話すと同じ11月に長岡から引っ越してきた方で、近所に住んでいると知りました」。ママ友同士、話題には事欠かない。「もう子どもたちは成人しましたが、その方とは今も仲良くしてもらっています」。
     長男出産後、夫の実家の商店の手伝いを始める。お客さん対応では方言に困ったことも。「お母さんや地域の人が教えてくれました。着物も十日町に住まなかったら着る機会はなかったかも、ですね」。娘の入学式に着物をと相談すると、多くの人が世話してくれた。「着付は出会ったママ友のお母さんでしたが、本当に地域の皆さんが優しくて、支えて頂きながらここまで来ています」。
     服飾の経験から洋服直し『GOOD REPAIRS(グッド リペアーズ)』を始め、口コミで広がっている。「直し技術をもっと深めたいです。主人やお客様が色々なアイディアを出してくれるので、意見を参考にしながら取り組んでいます。人と人のつながりが幸せを運んでくれていると感じ、本当にありがたいです」。
     ▼バトンタッチします
     太田留美さん

    2024年12月21日号

  • 原発再稼働について丁寧な説明を

    県民投票で決めよう

    齋木 文夫 (年金生活者)

     17日、経済産業省は「エネルギー基本計画」改定案を公表した。東電福島第一原発事故以降、明記してきた「原発依存度を低減する」という文言を削除し、原発建て替えの要件も緩和する。

    2024年12月21日号

  • そっくりさんなひっつきむし

    中沢 英正(県自然観察保護員)

     秋も深まった頃、草やぶの中で着衣にいろんな植物の果実や種子がくっついてくる。それらの愛称を「ひっつきむし」と呼ぶ。
     その中でもお馴染みさんがアメリカセンダングサである。名のとおり北アメリカ原産の外来種だ。
     田畑の周りや道端など身近で見られ、群生することが多い。
     果実はそう果と呼ばれ(写真左)、扁平で先に2本の突起がつく。その突起に逆刺があってそれでくっつくのだ。釣り針の返しみたいで取るのに厄介だが、子供達には「バカ」の名で人気の遊び相手である。
     それに似た果実をつけるのがコセンダングサだ。こちらも北アメリカ原産の外来種で、関東以西に多いが、苗場山麓でも見かけるようになった。
     そう果(写真右)には2~4本の突起がつくが、それに逆刺があるところは前者と同じ。
     どちらも一年草で、たくさんの種子を蒔き散らし勢力拡大に余念がない。

    2024年12月21日号

  • チャンスの季節がやって来た

     津南町の季節がやって来た。毎日の天気予報、全国の積雪状況が流れ、「津南町では…」と冬型が強いほどその呼称が頻繁に流れる。このチャンスを生かさない手はない。これまでも「好機」は毎冬訪れていたが、その動きはまだ見られない。労せずして…ではないが、このネームバリュー効果、津南町という名を売る宣伝効果を大きい。今冬、雪が多い予報だけに、またチャンスが巡って来た。
     「ふるさと納税」。自治体間競争がさらに過熱気味だ。この「津南町では…」を、ふるさと納税につなげる方策を考える価値があるのでは。あの「平成18年豪雪」、2006年の冬、津南町の呼称は世界に流れた。フランス・ルモンド紙が取り上げ、通信社や個人配信を経由しアメリカにも流れた。ふるさと納税開始の2年前だったが津南町は「人が暮らす大豪雪地」として世界に知られ、その地は、世界から来訪者が集う大地の芸術祭の地でもある。
     事業実現の資金確保のCF・クラウドファンディングにも役立ちそうだ。雪で困る豪雪地という側面より、雪を産業につなぐ事業化ならばCFへの関心度は高く、あの津南町という知名度が奏功するだろう。その先に明確なビジネスプランがあれば、継続的な事業展開も可能だし、関心度は高い。
     桑原悠町長は2期目就任後、他分野の事業民間や実業家と連携協定を結び、津南町という自治体の可能性を広げている。その分野の先にどう経済が見えて来るのか、どう道筋をどう付けるのか、そこの真価が問われている。すでに37歳町長の町は、知られる存在となり、次なる関心の視点は「次は何をするのか」だろう。
     この冬、冬型が強まれば連日のように「津南町」が出るだろう。まさに「好機」だ。このチャンスを逃す手はない。
    知恵とアイデアの出し所だ。
     さて、どう出るか津南町。

    2024年12月21日号

  • 問われる本気度、津南中等存続は

    県教委「形態変更」言及、高校再編計画3月に

     県立高校再編、津南中等校は生き残れるか―。県教委は8日、クロステンで『県立高校の将来構想―中長期を見据えた魅力と活力ある学校づくり―』説明会を開き、少子化で県立高校を10年後の令和16年度(2034)に現行の86校から64校と22校削減する方針を示した。この中で十日町市や津南町など魚沼エリアに位置する津南中等校の「実施形態の転換」に言及。現行の「中等教育学校」から「併設型」「連携型」の実施形態を案として挙げている。ただ「地元自治体との意見交換を重視」して進める方針で今後、地元自治体の本気度が求められる。将来構想の策定は来年3月を予定している。

    2024年12月14日号

  • 地域病院改革、若手医師ら議論

    県イノベーター育成臨床研修コース

    チーム「ツナノバ」主催

     人口8471人・高齢化率44・51%(11月末)、常勤医師や看護師確保が困難で、近年は再び一般会計からの繰入額が4億円近くなっている自治体病院を抱える津南町。町立津南病院の課題解決模索をと、新潟県イノベーター育成臨床コース主催のリクルートイベント「津南医療未来会議」は10月26日に開催。新潟大学などの医学生や県内勤務の研修医など13人が参加。町立津南病院の林裕作院長が地域医療の実状、さらに今春から非常勤医で週3回勤務と東京などでコンサルタント業の二刀流で働く宮城禎弥医師(27、岐阜県出身)と木村真依医師(27、神奈川県出身)のふたりから今の働き方など聞く時間を用意。参加者同士で病院改革案など議論し、課題山積みの地域病院の現実と向き合いながら、中山間地医療の未来を考える時間となった。第2回は14~15日に「地域医療体感ツアー」と題し、秋山郷の医療課題など議論するワークショップ、大根つぐら作り講習など行う計画だ。

    2024年12月14日号

  • 「今日も旅先で」

    小宮山英樹さん(1968年生まれ)

     芸は身を助く、それを実感する日々だ。観光ツアーの添乗員歴33年。全都道府県、25ヵ国の国を飛び回り、バス旅行ではツアー参加者の年代に合った歌を車中で披露し、旅行の雰囲気を盛り上げる。「人を楽しませたい」、その思いを込め、今日も旅先まで添乗している。

     父は民謡大会に出場、母は台所で家事をしながら演歌を口ずさむ姿を、幼い頃からいつも見てきた。「唄好きの血が私にも流れているのかなぁと思います」。中学は剣道、高校では野球に取り組む。一方で井上陽水のモノマネなど歌の上手さが評判を呼んだ。野球部では「先輩のフォームのモノマネすると、みんなが大笑いしました。でも、マネはうまいのに何で野球はうまくならねぇーんだ、なんて言われていましたね」。
     野球に打ち込んだ高校時代、卒業後の進路で親とぶつかった。「どうしても東京へ行きたかった」自分。長男を置いておきたい両親は猛反対。最後は「好きにしろっと言われ、学費を自分で稼ぐため新聞奨学生となり、都内の旅行専門学校へ進みました」。

     初めての東京はカルチャーショックの連続。一方で新聞販売所の寮生活は想像以上にハードだった。「朝2時に起きて新聞配達。朝食後、学校へ。寮に帰り夕食後は夜9時まで新聞勧誘という毎日。年間9日くらいしか休みが無かったですね」。このハードの生活を野球部で培った根性で立ち向かい、学校の勉強にも集中。まさに螢雪の功だった。「頑張った分、学校の成績は良かったですよ」。この新聞販売所で1年間、頑張った。
     翌年には別の新聞販売所へ転職。再び寮生活。週休2日、読者勧誘はなく自分の時間ができた。「自分の甘さが出ましたね。学校の成績がガタ落ち、時間が無いは言い訳だなと実感しました。今も教訓にしています」。専門学校卒業後はアメリカ行きを思ったが、専門学校の同級生の誘いで都内の旅行会社に就職。会社勤務の疲れをいやす居酒屋で、伴侶「ひろみ」さんと出会い結婚。20歳の時だった。
     国内外の添乗員経験を5年積み、国家資格を取得。しかし、さらに自分への課題を課した。「もっと自分を成長させたい」と転職。夜の飲食店、さらに体を動かしたいと佐川急便なども。だが、わが子の誕生で人生観を見直した。28歳の時。「様々な仕事を経験し、我が子は自然の中で育てたいと、生まれたふるさとに帰りました」。今は5人の子の父であり、9人の孫のおじいちゃんである。

     再び旅行添乗員の業務に戻り、越後交通で13年ほど働く。業務経験を積むと業務管理のポストに。「お客さんの喜ぶ顔を間近で見たい」と南魚沼市・昭和観光へ転職。バス旅行で添乗すると評判を知っている方々から歌のリクエストがある。楽曲は年代に合わせるためレパートリーを増やしている。「三橋美智也さんの曲などお客さんに喜んでもらうことが、私も嬉しいですね」。企業の社員旅行では若い年代のリズム感ある楽曲も披露する。
     そんな時、声が掛かった。十日町市でNHKのど自慢大会の開催が決まり、出てみればと。「話のタネになるかなぁーと思って」、さっそく応募。会場は中里アリーナ。7百人の応募から書類選考で250人に絞り、本選出場は20人、その中に選ばれた。「ゲストは細川たかしさんでした。難しい『望郷じょんがら』を歌ってアピールし、チャンピオン授賞でした」。
     出場後、各地の祭りやイベントへの出場依頼が舞い込んだ。だが、「人前で歌う自分の歌声を録音して聞いてみたら、自分はまだまだだなって」。ここからさらに自分を磨いた。「毎日の車での通勤時間や一人カラオケで7時間くらい練習。まだまだ納得できる歌になっていませんよ。お客さんが喜んでくれる顔を、いつも思い描いて練習しています」。
     今日も旅に添乗している。「リクエストがあれば、歌います。あくまでも楽しい旅のお手伝いですから。お客様の笑顔が第一です」。

    ▼バトンタッチします
     岡村さやかさん

    2024年12月14日号

  • 中村哲医師と日本被団協のノーベル平和賞

    ざわつく世界の中で

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     12月4日は中村哲医師の命日、何者かに銃撃されて崇高な命が失われた。アフガン難民キャンプで巡回医療を開始し、91年から、山岳地域に診療所を相次いで開いた。その活動を支援する人たちもどんどん増えた。次に続く医師たちも増えた。

    2024年12月14日号