「第9回展、新しい境地に入って来たと感じている。ぜひ10回展をめざしたい。いかがですか」。第9回大地の芸術祭(7月13日~11月10日の89日間)の最終日夜の閉会式。まつだい農舞台の特設ステージに立った実行委員長・関口芳史・十日町市長(65)は、参集の作家やスタッフ、ボランティアら3百人余に投げかけると、大きな拍手が湧いた。続けて「さらにグレードアップし越後妻有を発信し続けたい。それで我々の地域も元気になる」と節目の第10回に向けて一歩踏み出す姿勢を見せる。一方、副実行委員長の桑原悠・津南町長(38)は、2年前の前回は新型コロナ禍開催だが「今回は芸術祭の通年化を視野に入れたもの。芸術作品は地域の皆さんと協働することで地域が活気づくきっかけになる。地域発の世界に誇れるアートの地、芸術祭の繋がりが産業に繋がり増していくことをめざす」と産業振興に結びつける姿勢を強調する。アートによる地域活性化をねらいに始まった大地の芸術祭集大成になる「第10回展」に向かい、早くも動き出している。
2024年11月16日号
音楽、物作り、自分の手から生み出す感覚が心地いい。「音楽は、なんだかんだずっと続けられていて、不思議です」。父の部屋にあったフォークギター。いつも何気なく見ていただけだった。松代
中学2年生の時、「なんとなーく、フォ
ークギターに触れてみたら音が出て。そこからです」。
弦を弾くと音が出る。その魅力にどんどん引き込まれていった。「今までそんなにやりたいことも無かったんですが、音楽には強く興味を持ちましたね」。そんな姿を父も見ていた。「エレキギターの初心者セットを買ってくれたんです。本当はフォークギターが良かったんですが…おすすめされました」。
家に居る時はエレキと向き合う時間がはじまった。毎日弾いても飽きることなくのめり込んでいき楽しさを感じた。「その頃、友だちも音楽に目覚めて、ふたりでずっと練習していましたね」。松代高に進み、さらに自己研鑽に励んだ。「中学校の頃はグレイ、高校の頃はハイスタンダードの曲にはまって、全曲弾けるようになりました」。
高校卒業を目前にして進路に悩んだ。「父からは一度は東京に出て一人暮らししてみろ、とアドバイスをもらって進学を考えました」。三者面談、進路選択案内でESPミュージカルアカデミーのギタークラフト科が目に留まった。「これだ!行くならココだって思いました」。都内へ進学。
「モノづくりも好きなので、好きな事に夢中になれる時間が楽しかったです」。2年間の学びを経て、さらに1年、研究科にも進んだ。しかし…、「就職先がなかなか無くて、狭き門でもあったのですが。自然豊かな地元に帰りました」。
生まれ育った松代に戻った。21歳の時。エレキギターを作っていた腕を活かし、もの作りがしたいと市内木工店に勤務。家具や建具など細かい細工などの専門分野だ。障子や襖(ふすま)など木を削り作り上げる。「木には様々な種類があり、木の香りや感触など様々です。木の温もりを感じながら作っています」。モノ作りは家でも発揮。「木で作った子ども用棚やスキーブーツ乾燥の用具などを作り、家族に喜ばれています」。2019年、妻・真由美さんと結婚、2人の子どもに恵まれた。
音楽活動は続けている。松代に戻り同級生と
バンド結成。『CANBAL
L8』に改称し本格的に活動。ボーカル、ギター、
ドラム、ベース、4人の同級生メンバーで松代の観音祭をメインに演奏活動。楽曲も年を重ねるごとに変わってきている。「メッセージ性のある曲を演奏するようになりましたね」。ジー・フリーク・ファクトリーなど自分で作ったエレキギターを使用し演奏する。
2年前、さいたま市大宮演奏した。「松代町商工会の依頼で一緒に行きました。緊張したけど、祭りと変わらず皆さんに聞いてもらえて楽しかった」。今後は観音祭だけではなく市内各所にも進出したいとする。
「皆さんの前で演奏し、音楽を聴いてのってくれる姿は力になりますね。あまり何かが続くタイプではなかったのですが、音楽は自分の世界に入れる魅力があります。今後も時間の許す限り、メンバーと音楽活動をつづけていきたいです」。
最近は十日町大太鼓『雪花会』に入り、幅広い音楽の魅力を追及。「奴奈川小学校時代に太鼓をしていたので活かせるかなと思って。様々な音やモノを自分の手で作り上げたいですね」。
▼バトンタッチします
高橋直幸さん
2024年11月16日号
原点に戻って考えよう。湯沢砂防事務所はスリット堰堤と集落付近の護岸整備をセットにする案だけを住民に提示している。で、やるのかやらないのかと問われれば、住民はイエスしか選択できない。
本来は複数の案があってメリットデメリットを比較し、住民が考えて決めるのが河川自治だ。
堰堤を造るとスリットがあると言っても、下流は河床が下がり、上流は流れが滞留し砂利が溜まり河床が上がる。一つの集落を二分するような案しか方法はないのだろうか?
多くの山間地での共通問題だが、清津峡地区も高齢化が進んで世帯数が減り、もうすぐ地図上から消えるかも? と思うほど過疎化が進んでいる。
私はこの治水の課題は集落存続のチャンスなのでは? と思っている。どうして? と聞かれるだろう。…ここからは単なる私の妄想だと読んでほしい。
仮に湯沢砂防の計画通りスリット堰堤と護岸工事ができても、大きな台風が近づくとやっぱり川沿いの住人は心配で自主避難するだろう。安全度は上がっても災害は想定を超えてくる。川沿いの家は10軒くらいだ。もしできるなら川沿いの住民が地域内の少し川から離れた道上へ移るというのはダメだろうか?
山の中でよく見る小さな砂防堰堤の費用は一基4~5億円と言われている。清津川本流に計画されているスリット堰堤はその何倍もある。土地確保と住宅建設や引っ越しその他の費用を10軒分見積もっても、堰堤を造るよりずっと安い。
住民も十分な補償があれば、築50年超えの大きな家より、こぢんまりした耐雪、省エネ、バリアフリーの家のほうが暮らしやすいのではないだろうか? 高齢者世帯が後に家を手放す時が来ても、雪始末の楽な家は買い手が見つかり易く集落に新しいメンバーが加わる可能性もできる。古く大きな家は取り壊しにも費用がかかり空き家問題の原因になる。
川沿いの土地は大切な生命財産を置かなければいいだけだから、護岸工事をして農地に転用してもいいし公園にしてもいい。漁協に協力頂いて釣り堀でもいいし、ウドやタラの木を植えて山菜農園にしてもいい。きれいな蓮の花を植えても、アヒルが泳いでいてもいい。
村の形は変わるけど、年間何十万人も集客する清津峡の入り口だから、考えようで集落活性化になるのでは? 最もいいことは、堰堤を造るより移転のほうが早くできることだ。
この国では近い将来、通貨危機や南海トラフや戦争といった大きな惨事が起こる可能性は否定できず、そうなったら国は地方の小さな清津川の治水などできなくなる…だから何年もかかる治水事業より早く確実な移転がいい。
先祖代々住み続けた家、地域の内情、高齢化…代えがたいものがあるのはわかるけど…非力な私には提案しかできない。地域の人が自分で決めることだと思う。
2024年11月16日号
魚野川取水堰上流の水門は土砂の崩落で半分近くが埋まっており、そのガレ場を登って水門の裏に回ってみると、山肌に不気味な隧道が半分埋まった状態で口を開けていました。今まで入った秋山郷の廃隧道では複数で入っていたので怖い思いはしていませんが、ひとりで入るには気持ちの良いものではありません。此処では念のため動物の痕跡を確認しながら斜面を降り少し奥の方まで入ってみました。
また、これまでの隧道は電車を通すため広い空間がありましたが、水路用の隧道は狭く圧迫感があり、最深部まで行くのは断念しました。
この隧道は初代の魚野川取水堰が運用前に土砂の崩壊で埋没し、工事途中で破棄されたものか、高さ関係から見ても現在の取水口より高い位置にあります。
これらの遺構はやがて土砂で埋没しますが、秋山郷の電源開発遺産として記録して行きたいと思います。
(現地は私有地や砂防ダムで塞がれ立ち入ることはできません)
2024年11月16日号
理念に『自分らしく生きる』を掲げ、2019年設立のNPO法人『十いろ』。その理事長を務める髙橋愛さん(51)。成年後見や終活サポート、放課後デイサービスなど人生の節目を支える事業を創設して5周年。髙橋理事長は「身寄りが居なくても、最後まで自分らしく安心して生きるためにサポートしたい、その思いで進んできました」と語る。
東京・江東区出身の高橋理事長。「東京下町育ちで、けんかっ早くて人情家の典型的な江戸っ子です」。困っている人は放っておけない性分。都内大学卒業後、都内アパレル関係に就職。社会人生活の中である思いが浮かぶ。「もっと人と深く関わり、アクティブに人と人を繋ぐ仕事がしたい」。
2024年11月16日号
モヤモヤが続いている。昭和の時代から何にも変わっていないんじゃないか、そう思うような男性擁護を感じる。国民民主党の玉木雄一郎代表の不倫問題だ。高松市観光大使を務める元タレントとの不倫問題が発覚したニュース。玉木代表は11日、国会内で臨時記者会見し、不倫報道を認め謝罪した。
だが、国民民主党代表としての進退は「仲間に意見を聞く」と明言を避け、同日開催の同党両院議員総会で代表辞任を求める意見は出ず、「玉木氏でなければ務まらない」とする擁護論が大勢を占め、代表続投が了承された。ますますモヤモヤが増した。
国民民主は玉木代表の発信力に大きく依存しており、不倫問題の不祥事で大黒柱を失えば、党の瓦解に直結しかねないお家事情がある。「これまで党を引っ張ってきたのは玉木だ。政策実現に全力を傾けて欲しい」、「玉木氏に代わる人材はいない。党内基盤が揺らぐことはないだろう」と、社会的に容認されない不倫問題より、玉木代表が掲げる「手取りを増やす経済政策」の実現のための党目標を優先する姿勢には、人間としての不信感が募るばかりだ。さらに、今回の不倫問題より、「手取りを増やす経済政策への期待の方が大きい。有権者の多くもその思いは大きくは変わらないだろう」とも話しているとは、呆れた認識だ。
だが、考えてほしい。この不倫問題が衆院選前に報道されていたら、選挙結果はどうだったか。そこを国民民主は真っ先に考えただろうし、それは天国から地獄へ、だったろう。ジェンダー問題への意識が国際的に高まるなか、今回の「玉木問題」は、これにて一件落着にはならないだろうし、してはならない。これから臨時国会が始まり、この問題をどう扱うか注視したい。
玉木代表の妻の言葉が全てだろう。「家族を守れないものが、国民を守れるのか」。その通りだ。 (相澤由加理)
2024年11月16日号
〇…「ここの野沢菜を食べると、ほかのでは満足できなくなる」。そんな声が溢れる人気イベント、津南町相吉「野沢菜収穫大会」は3日開催。開始30分前から60人余が並ぶ、いつもの状況が今年も出現。一本65㌢のヒモは2百円で販売、5㌔以上を束ねられ、市場価格よりはるかに安く一味違う野沢菜を採れる機会。開始時刻の午前9時になると、みな一斉に持参包丁で青々とした野沢菜を刈っていた。
2024年11月9日号
人口減少のなかで高度・救急医療を行う魚沼基幹病院を中核とした、地域医療再編を進める必要が生まれている魚沼医療圏(人口約14万5千人、うち妻有地域約5万3千人)。団塊の世代が後期高齢者となる75歳以上の人口は2030年頃にピークとなり、さらに26年後の2050年は「人口9万人余」となる見通しが出ており、医療機能の役割分担による効率化などをさらに検討している。魚沼医療圏は2649平方㌔、東京都や神奈川県より広い範囲に中山間地が広がるエリアだが「地域でひとつの病院」をめざしている。現状と課題を最前線で働く看護師が情報共有する「魚沼圏域看護職員代表者会議」(代表=髙橋みはる・魚沼基幹病院副院長)の5年ぶりの交流研修会を9月末に同病院で開き、看護師70人余が将来必要な医療看護体制など学び合った。
国は医療機関の機能分化・連携を進める目的で地域医療構想の指針を示すが、現想定は『2025年』までで、現在は『2040年』に向けた「新たな地域医療構想等に関する検討会」を実施中。
2024年11月9日号
小さな頃から身近に家づくり職人がいて、その技を間近で見ていた。「いつか自分も大工になりたい、ずっと思っていました」。十日町市八箇に生まれ、祖父は大工職人。鋸(のこぎり)や鉋(かんな)
鑿(のみ)で
木を切り、
木を刻む姿を、憧れの眼差しで見ていた。「おじいちゃんのような職人になりたいと、その道に進みました」。
八海高校体育科を卒業後、迷いなく大工の道へ。津南町の工務店に勤務。「まさに職人気質の現場でした。憧れと現実は違いました」。3年間頑張って働き転職。建築や土木関連の塗装会社へ。「手に職をつけたいし、何かを創り上げる仕事に携わりたかったんです」。十日町市の新装へ。
塗装は見た目と共に保護や保存効果が高い。屋根や壁など住宅全般から野外の公共物など幅広い。「形も大きさも色も全て違います。それだけに奥が深く技術的な難しさもあり、日々学びでした。特に色の配合は、求められた色がぴったり合った時は本当に嬉しいですね」。
どんな職も、その道のプロからは学ぶことが多く、人としてのあり方も学んだ。「厳しく、優しく教えていただき、それが今の自分につながっています」。19年間、地道に実績を積んだ。先輩から「そろそろ自分の力を試してみたらどうだ」と進言を受け、40歳で独立を決意。『雲野塗装』を立ち上げた。妻・美恵さんの後押しも大きかった。
「事務を妻が担当してくれ、新装さんからのご支援も受けやっています」。誠実な仕事ぶりが人から人へとつながりを生み、市内外から声がかかる。「やりがいと不安の両方がありますが、いい仕事がしたい、これだけです。お客さんが喜んでくれる顔が私のやりがいです」。
祖父の職人ぶりを間近で見て育ったが、それに通じる地域の伝統活動、『八箇太鼓』に八箇小学校時代、6年間みっちり取り組んだ。卒業後、ご無沙汰していたが26歳の時、母校の閉校を聞く。同時に「小学校が無くなると地域との関わりが途絶えてしまう。なんとか八箇太鼓を復活させてくれないか、と頼まれたんです」。
すぐに当時の仲間たちと動き、2007年にメンバー10人余で『八箇太鼓』を復活。その年、世界で活躍する太鼓集団『鼓童』公演を見て、さらに刺激を受けた。
「よしっ、やろうぜ、やろう…だったんですが…」、始めると「温度差を感じたんです」。3年が過ぎた時、「十日町大太鼓の『雪花会』から、生誕地祭りの助っ人に来ないか、と声を掛けられました」。3㍍の大太鼓。本町メインストリートを叩きながら練り歩く生誕地祭りの大太鼓だ。これまでにない高揚感を体感、魅了された。
コロナ禍で活動自粛が続き、昨年4年半ぶりに再開。「私からそろそろ始めませんかって声を掛けたんです。そしたら、そのまま代表になってしまいました」。『雪花会』代表として活動する。メンバーの異動もあったが、いま子どもたちも含め16人で活動している。
先輩から受け継いだ伝統を次代へ伝える責務を感じている。「曲、動き、一つ一つ細かい所の習得には苦労しますが、太鼓の音が合い、仲間との思いが一つになった時は最高ですし、演奏への声援や拍手は最高の励みですね。これまで頂いたご恩に、今度は我々が恩返しです。太鼓で地域を元気に盛り上げたいですね」。
▼バトンタッチします
佐藤弘祐さん
2024年11月9日号
「第9回展、新しい境地に入って来たと感じている。ぜひ10回展をめざしたい。いかがですか」。第9回大地の芸術祭(7月13日~11月10日の89日間)の最終日夜の閉会式。まつだい農舞台の特設ステージに立った実行委員長・関口芳史・十日町市長(65)は、参集の作家やスタッフ、ボランティアら3百人余に投げかけると、大きな拍手が湧いた。続けて「さらにグレードアップし越後妻有を発信し続けたい。それで我々の地域も元気になる」と節目の第10回に向けて一歩踏み出す姿勢を見せる。一方、副実行委員長の桑原悠・津南町長(38)は、2年前の前回は新型コロナ禍開催だが「今回は芸術祭の通年化を視野に入れたもの。芸術作品は地域の皆さんと協働することで地域が活気づくきっかけになる。地域発の世界に誇れるアートの地、芸術祭の繋がりが産業に繋がり増していくことをめざす」と産業振興に結びつける姿勢を強調する。アートによる地域活性化をねらいに始まった大地の芸術祭集大成になる「第10回展」に向かい、早くも動き出している。
2024年11月16日号
音楽、物作り、自分の手から生み出す感覚が心地いい。「音楽は、なんだかんだずっと続けられていて、不思議です」。父の部屋にあったフォークギター。いつも何気なく見ていただけだった。松代
中学2年生の時、「なんとなーく、フォ
ークギターに触れてみたら音が出て。そこからです」。
弦を弾くと音が出る。その魅力にどんどん引き込まれていった。「今までそんなにやりたいことも無かったんですが、音楽には強く興味を持ちましたね」。そんな姿を父も見ていた。「エレキギターの初心者セットを買ってくれたんです。本当はフォークギターが良かったんですが…おすすめされました」。
家に居る時はエレキと向き合う時間がはじまった。毎日弾いても飽きることなくのめり込んでいき楽しさを感じた。「その頃、友だちも音楽に目覚めて、ふたりでずっと練習していましたね」。松代高に進み、さらに自己研鑽に励んだ。「中学校の頃はグレイ、高校の頃はハイスタンダードの曲にはまって、全曲弾けるようになりました」。
高校卒業を目前にして進路に悩んだ。「父からは一度は東京に出て一人暮らししてみろ、とアドバイスをもらって進学を考えました」。三者面談、進路選択案内でESPミュージカルアカデミーのギタークラフト科が目に留まった。「これだ!行くならココだって思いました」。都内へ進学。
「モノづくりも好きなので、好きな事に夢中になれる時間が楽しかったです」。2年間の学びを経て、さらに1年、研究科にも進んだ。しかし…、「就職先がなかなか無くて、狭き門でもあったのですが。自然豊かな地元に帰りました」。
生まれ育った松代に戻った。21歳の時。エレキギターを作っていた腕を活かし、もの作りがしたいと市内木工店に勤務。家具や建具など細かい細工などの専門分野だ。障子や襖(ふすま)など木を削り作り上げる。「木には様々な種類があり、木の香りや感触など様々です。木の温もりを感じながら作っています」。モノ作りは家でも発揮。「木で作った子ども用棚やスキーブーツ乾燥の用具などを作り、家族に喜ばれています」。2019年、妻・真由美さんと結婚、2人の子どもに恵まれた。
音楽活動は続けている。松代に戻り同級生と
バンド結成。『CANBAL
L8』に改称し本格的に活動。ボーカル、ギター、
ドラム、ベース、4人の同級生メンバーで松代の観音祭をメインに演奏活動。楽曲も年を重ねるごとに変わってきている。「メッセージ性のある曲を演奏するようになりましたね」。ジー・フリーク・ファクトリーなど自分で作ったエレキギターを使用し演奏する。
2年前、さいたま市大宮演奏した。「松代町商工会の依頼で一緒に行きました。緊張したけど、祭りと変わらず皆さんに聞いてもらえて楽しかった」。今後は観音祭だけではなく市内各所にも進出したいとする。
「皆さんの前で演奏し、音楽を聴いてのってくれる姿は力になりますね。あまり何かが続くタイプではなかったのですが、音楽は自分の世界に入れる魅力があります。今後も時間の許す限り、メンバーと音楽活動をつづけていきたいです」。
最近は十日町大太鼓『雪花会』に入り、幅広い音楽の魅力を追及。「奴奈川小学校時代に太鼓をしていたので活かせるかなと思って。様々な音やモノを自分の手で作り上げたいですね」。
▼バトンタッチします
高橋直幸さん
2024年11月16日号
原点に戻って考えよう。湯沢砂防事務所はスリット堰堤と集落付近の護岸整備をセットにする案だけを住民に提示している。で、やるのかやらないのかと問われれば、住民はイエスしか選択できない。
本来は複数の案があってメリットデメリットを比較し、住民が考えて決めるのが河川自治だ。
堰堤を造るとスリットがあると言っても、下流は河床が下がり、上流は流れが滞留し砂利が溜まり河床が上がる。一つの集落を二分するような案しか方法はないのだろうか?
多くの山間地での共通問題だが、清津峡地区も高齢化が進んで世帯数が減り、もうすぐ地図上から消えるかも? と思うほど過疎化が進んでいる。
私はこの治水の課題は集落存続のチャンスなのでは? と思っている。どうして? と聞かれるだろう。…ここからは単なる私の妄想だと読んでほしい。
仮に湯沢砂防の計画通りスリット堰堤と護岸工事ができても、大きな台風が近づくとやっぱり川沿いの住人は心配で自主避難するだろう。安全度は上がっても災害は想定を超えてくる。川沿いの家は10軒くらいだ。もしできるなら川沿いの住民が地域内の少し川から離れた道上へ移るというのはダメだろうか?
山の中でよく見る小さな砂防堰堤の費用は一基4~5億円と言われている。清津川本流に計画されているスリット堰堤はその何倍もある。土地確保と住宅建設や引っ越しその他の費用を10軒分見積もっても、堰堤を造るよりずっと安い。
住民も十分な補償があれば、築50年超えの大きな家より、こぢんまりした耐雪、省エネ、バリアフリーの家のほうが暮らしやすいのではないだろうか? 高齢者世帯が後に家を手放す時が来ても、雪始末の楽な家は買い手が見つかり易く集落に新しいメンバーが加わる可能性もできる。古く大きな家は取り壊しにも費用がかかり空き家問題の原因になる。
川沿いの土地は大切な生命財産を置かなければいいだけだから、護岸工事をして農地に転用してもいいし公園にしてもいい。漁協に協力頂いて釣り堀でもいいし、ウドやタラの木を植えて山菜農園にしてもいい。きれいな蓮の花を植えても、アヒルが泳いでいてもいい。
村の形は変わるけど、年間何十万人も集客する清津峡の入り口だから、考えようで集落活性化になるのでは? 最もいいことは、堰堤を造るより移転のほうが早くできることだ。
この国では近い将来、通貨危機や南海トラフや戦争といった大きな惨事が起こる可能性は否定できず、そうなったら国は地方の小さな清津川の治水などできなくなる…だから何年もかかる治水事業より早く確実な移転がいい。
先祖代々住み続けた家、地域の内情、高齢化…代えがたいものがあるのはわかるけど…非力な私には提案しかできない。地域の人が自分で決めることだと思う。
2024年11月16日号
魚野川取水堰上流の水門は土砂の崩落で半分近くが埋まっており、そのガレ場を登って水門の裏に回ってみると、山肌に不気味な隧道が半分埋まった状態で口を開けていました。今まで入った秋山郷の廃隧道では複数で入っていたので怖い思いはしていませんが、ひとりで入るには気持ちの良いものではありません。此処では念のため動物の痕跡を確認しながら斜面を降り少し奥の方まで入ってみました。
また、これまでの隧道は電車を通すため広い空間がありましたが、水路用の隧道は狭く圧迫感があり、最深部まで行くのは断念しました。
この隧道は初代の魚野川取水堰が運用前に土砂の崩壊で埋没し、工事途中で破棄されたものか、高さ関係から見ても現在の取水口より高い位置にあります。
これらの遺構はやがて土砂で埋没しますが、秋山郷の電源開発遺産として記録して行きたいと思います。
(現地は私有地や砂防ダムで塞がれ立ち入ることはできません)
2024年11月16日号
理念に『自分らしく生きる』を掲げ、2019年設立のNPO法人『十いろ』。その理事長を務める髙橋愛さん(51)。成年後見や終活サポート、放課後デイサービスなど人生の節目を支える事業を創設して5周年。髙橋理事長は「身寄りが居なくても、最後まで自分らしく安心して生きるためにサポートしたい、その思いで進んできました」と語る。
東京・江東区出身の高橋理事長。「東京下町育ちで、けんかっ早くて人情家の典型的な江戸っ子です」。困っている人は放っておけない性分。都内大学卒業後、都内アパレル関係に就職。社会人生活の中である思いが浮かぶ。「もっと人と深く関わり、アクティブに人と人を繋ぐ仕事がしたい」。
2024年11月16日号
モヤモヤが続いている。昭和の時代から何にも変わっていないんじゃないか、そう思うような男性擁護を感じる。国民民主党の玉木雄一郎代表の不倫問題だ。高松市観光大使を務める元タレントとの不倫問題が発覚したニュース。玉木代表は11日、国会内で臨時記者会見し、不倫報道を認め謝罪した。
だが、国民民主党代表としての進退は「仲間に意見を聞く」と明言を避け、同日開催の同党両院議員総会で代表辞任を求める意見は出ず、「玉木氏でなければ務まらない」とする擁護論が大勢を占め、代表続投が了承された。ますますモヤモヤが増した。
国民民主は玉木代表の発信力に大きく依存しており、不倫問題の不祥事で大黒柱を失えば、党の瓦解に直結しかねないお家事情がある。「これまで党を引っ張ってきたのは玉木だ。政策実現に全力を傾けて欲しい」、「玉木氏に代わる人材はいない。党内基盤が揺らぐことはないだろう」と、社会的に容認されない不倫問題より、玉木代表が掲げる「手取りを増やす経済政策」の実現のための党目標を優先する姿勢には、人間としての不信感が募るばかりだ。さらに、今回の不倫問題より、「手取りを増やす経済政策への期待の方が大きい。有権者の多くもその思いは大きくは変わらないだろう」とも話しているとは、呆れた認識だ。
だが、考えてほしい。この不倫問題が衆院選前に報道されていたら、選挙結果はどうだったか。そこを国民民主は真っ先に考えただろうし、それは天国から地獄へ、だったろう。ジェンダー問題への意識が国際的に高まるなか、今回の「玉木問題」は、これにて一件落着にはならないだろうし、してはならない。これから臨時国会が始まり、この問題をどう扱うか注視したい。
玉木代表の妻の言葉が全てだろう。「家族を守れないものが、国民を守れるのか」。その通りだ。 (相澤由加理)
2024年11月16日号
〇…「ここの野沢菜を食べると、ほかのでは満足できなくなる」。そんな声が溢れる人気イベント、津南町相吉「野沢菜収穫大会」は3日開催。開始30分前から60人余が並ぶ、いつもの状況が今年も出現。一本65㌢のヒモは2百円で販売、5㌔以上を束ねられ、市場価格よりはるかに安く一味違う野沢菜を採れる機会。開始時刻の午前9時になると、みな一斉に持参包丁で青々とした野沢菜を刈っていた。
2024年11月9日号
人口減少のなかで高度・救急医療を行う魚沼基幹病院を中核とした、地域医療再編を進める必要が生まれている魚沼医療圏(人口約14万5千人、うち妻有地域約5万3千人)。団塊の世代が後期高齢者となる75歳以上の人口は2030年頃にピークとなり、さらに26年後の2050年は「人口9万人余」となる見通しが出ており、医療機能の役割分担による効率化などをさらに検討している。魚沼医療圏は2649平方㌔、東京都や神奈川県より広い範囲に中山間地が広がるエリアだが「地域でひとつの病院」をめざしている。現状と課題を最前線で働く看護師が情報共有する「魚沼圏域看護職員代表者会議」(代表=髙橋みはる・魚沼基幹病院副院長)の5年ぶりの交流研修会を9月末に同病院で開き、看護師70人余が将来必要な医療看護体制など学び合った。
国は医療機関の機能分化・連携を進める目的で地域医療構想の指針を示すが、現想定は『2025年』までで、現在は『2040年』に向けた「新たな地域医療構想等に関する検討会」を実施中。
2024年11月9日号
小さな頃から身近に家づくり職人がいて、その技を間近で見ていた。「いつか自分も大工になりたい、ずっと思っていました」。十日町市八箇に生まれ、祖父は大工職人。鋸(のこぎり)や鉋(かんな)
鑿(のみ)で
木を切り、
木を刻む姿を、憧れの眼差しで見ていた。「おじいちゃんのような職人になりたいと、その道に進みました」。
八海高校体育科を卒業後、迷いなく大工の道へ。津南町の工務店に勤務。「まさに職人気質の現場でした。憧れと現実は違いました」。3年間頑張って働き転職。建築や土木関連の塗装会社へ。「手に職をつけたいし、何かを創り上げる仕事に携わりたかったんです」。十日町市の新装へ。
塗装は見た目と共に保護や保存効果が高い。屋根や壁など住宅全般から野外の公共物など幅広い。「形も大きさも色も全て違います。それだけに奥が深く技術的な難しさもあり、日々学びでした。特に色の配合は、求められた色がぴったり合った時は本当に嬉しいですね」。
どんな職も、その道のプロからは学ぶことが多く、人としてのあり方も学んだ。「厳しく、優しく教えていただき、それが今の自分につながっています」。19年間、地道に実績を積んだ。先輩から「そろそろ自分の力を試してみたらどうだ」と進言を受け、40歳で独立を決意。『雲野塗装』を立ち上げた。妻・美恵さんの後押しも大きかった。
「事務を妻が担当してくれ、新装さんからのご支援も受けやっています」。誠実な仕事ぶりが人から人へとつながりを生み、市内外から声がかかる。「やりがいと不安の両方がありますが、いい仕事がしたい、これだけです。お客さんが喜んでくれる顔が私のやりがいです」。
祖父の職人ぶりを間近で見て育ったが、それに通じる地域の伝統活動、『八箇太鼓』に八箇小学校時代、6年間みっちり取り組んだ。卒業後、ご無沙汰していたが26歳の時、母校の閉校を聞く。同時に「小学校が無くなると地域との関わりが途絶えてしまう。なんとか八箇太鼓を復活させてくれないか、と頼まれたんです」。
すぐに当時の仲間たちと動き、2007年にメンバー10人余で『八箇太鼓』を復活。その年、世界で活躍する太鼓集団『鼓童』公演を見て、さらに刺激を受けた。
「よしっ、やろうぜ、やろう…だったんですが…」、始めると「温度差を感じたんです」。3年が過ぎた時、「十日町大太鼓の『雪花会』から、生誕地祭りの助っ人に来ないか、と声を掛けられました」。3㍍の大太鼓。本町メインストリートを叩きながら練り歩く生誕地祭りの大太鼓だ。これまでにない高揚感を体感、魅了された。
コロナ禍で活動自粛が続き、昨年4年半ぶりに再開。「私からそろそろ始めませんかって声を掛けたんです。そしたら、そのまま代表になってしまいました」。『雪花会』代表として活動する。メンバーの異動もあったが、いま子どもたちも含め16人で活動している。
先輩から受け継いだ伝統を次代へ伝える責務を感じている。「曲、動き、一つ一つ細かい所の習得には苦労しますが、太鼓の音が合い、仲間との思いが一つになった時は最高ですし、演奏への声援や拍手は最高の励みですね。これまで頂いたご恩に、今度は我々が恩返しです。太鼓で地域を元気に盛り上げたいですね」。
▼バトンタッチします
佐藤弘祐さん
2024年11月9日号