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オピニオン一覧

  • カメムシ対策、農学部教授の教え

    ベンガラの効能

    長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

     秋山郷に来て30年近くが過ぎた。春と秋の二度ここでカメムシにいじめられ続けていた。伊勢湾台風後に、防風用に植えられ大きく成長した杉に囲まれた一軒家に昨年まで暮らし、中津川対岸の百㍍ほど先に昔からの旅館「仁成館」があるばかりで、川をはさんで共にカメムシには苦しめられていた。
     中津川右岸の宿は季節ごとの登山客、釣り客、湯治客で雪のない時期は忙しくしていた。私のところはひとり暮らしの古い家で、木端葺きの上にトタンを張った屋根で、秋口になると風のない穏やかな日、カメムシが湧き出すように飛んでくるのだ。ヤマトクサギカメムシと呼ばれていた。この虫が廊下一面にへばりつき触ろうものならとにかく臭く、皮膚に触れると痛く肝を冷やしたものである。
     そのうち「しょうがない」と観念すると、何となくどうにかなってしまうものなのか、その臭いにも慣れてしまったようで、まっ諦めたのだろう。この辺りの人と同じように掴まえた虫をストーブに放り込んだり、自家製のペットボトルに灯油を少し入れて投げこんだりしていた。虫が動く秋や春にはそれぞれ5、6㌔ほどの虫を取ったものである。
     近頃になって旧仁成館も住む人がいなくなると、どうにも中津川左岸の一軒家でのひとり暮らしが面倒になり、対岸の集落で家を探し、見つけて改修工事をし移転をしたのが昨年のことで、そこも同じように虫の多いところだと聞いていた。
    工事が終わって外壁のペンキを選んだのだが、目立たない小さな家でもあり、派手だったがベンガラの塗料を塗ることにした。家は小さな赤い家となって、それなりの存在感を嬉しく感じた。
     昨年の今頃だが、隣の人がやって来て「ここには虫がいないな! みんなワシのところに来てしまったようだ」と笑っていた。そう言われて、はて! と考えると、確かにここではカメムシを見ないと感じた。人とは勝手なもので、ここで虫に気がつかないことに気がついた。見ぬもの清である。外壁に塗布したベンガラの塗料を虫が嫌ったように思えた。
     さて、そうなると今年の秋に飛んでくる虫を強く意識することになる。そこで昨年のベンガラ塗料を取り寄せて考えるのだが、塗れば来ないと言うほど単純ではないだろと、科学する頭がない私にはその先が解らなかった。友人の農学部で教鞭をとる先生に訊くと「ベンガラは酸化鉄で、つまり鉄さびで木材を丈夫にし乾燥すると害虫やカビなどを防ぐ」と言う。塗布した表面が㏗12ほどのアルカリ性となるので酸性域を好む虫は寄り付きにくくなるとも言う。虫が酸性域を好むのかは分からないが、加えるに伝統技術的の柿渋と混ぜて使うとより効果的だろうとも御教授頂けた。
     それならハッカ油なども良いのだろうと検証をしてみることにした。大きめのタッパーに仕切りを立て、塗料を塗布した板と白木の板を別々に置くのだ。飛びくる虫を素手で捕まえては放り込んでおよそ50匹ほども入れて観察してみると、当日から虫は白木の方に集まってベンガラ色の板には数匹の虫を見るだけになった。
     まだまだ観察は続けるが確かにカメムシに対しては効果があるように思えた。昨年塗った外壁が今年も効果が続くのかと気を揉むのだが、な〜に虫が寄って来れば、またベンガラを塗るだけだ!こうなればひとつ、昔年の恨みを晴らしてみようと思った。
     ただ、その矢先2回目の脳梗塞の患者となった私がいた!

    2024年10月12日号

  • 「どうしてここに?」、崩壊地の直下

    清津峡 スリット堰堤計画

    藤ノ木信子 (清津川に清流を取り戻す会)

     前回の続き…湯沢砂防事務所の清津川治水事業は、私には「はて?」と引っかかる点が多くて困っている。ホームページには「清津峡渓流保全工の推進」として上がっているが、H26年の現地調査から10年過ぎても現地は何も変わっていない。つくば市の日本工営には流域住民が頼んだ訳ではないのに巨大な模型を作って実験し、住民に見学させてくれる。どうしてこんなに時間や手前をかけているのかな?  サクサク造ってしまうと大人の都合上うまくないのだろうか?同じ砂防事務所の他の現場のスピード感と違いが明らかなので、「そう(・・)いう(・・)案件」と私は思っている。この事業が完成するまでには更に5年はかかるとのこと。(その間ずっと住民の安全は現状のままだけど…)
     それにスリット堰堤を造る場所も「どうしてここ?」と引っかかる。計画されている堰堤の位置は、小出・葎沢集落の上流の清津峡との間で、右岸は地元ではのげま(抜けるところと言う意味)と呼ばれている崩壊地の直下だ。この辺りは太古の昔マグマが冷えて固まった岩塊(清津峡側)とグリーンタフという海底火山の火山灰の堆積層(下流側)との境目で地質が不安定なのに…で更に左岸は公園トンネルを掘った土を積み上げたズリなのだ。堰堤を造ることで水位が上って、もろい山脚がやっかいなことになるんじゃないか? 素人の私でも心配になってしまう。土木の専門家はどう考えているか説明してほしい。
     でも私が特大の? マ
    ークをつけた疑問点は、「スリット堰堤と集落付近の護岸工事をセットにしないと治水効果がない」という説だ。実はこの堰堤のスリットの幅は4mもある。両端にコンクリートの壁があって真ん中は水も土砂も流木も流れる。はて? これ造る意味あるの? 同じことを河川工学の先生は言われていて、砂防ダムに頼らず護岸工事を主体にしたいと。どこかにこのセットでの治水方法の先駆的な例があったら見に行きたい。
     写真は大正時代の清津峡入り口付近。竿を使って飛び移っていた大きな岩は今ではとても小さくなっている。欠けたり砂利で埋まったからだ。うちの裏も以前は深い淵だったが今は随分浅くなっている。小出集落付近はどこも河床が上がっている。川の在り様はいつも同じでなく変化する。無限に運ばれてくる大量の砂利は速やかに下流に流したい。だから川を横断する構造物はできるだけ造らないでほしい。次回は他の治水手段はないの? の考察をしてみよう。

    2024年10月5日号

  • 大事なことは自分たちで決める

    再び、原発再稼働を問う

    斎木 文夫 (年金生活者)

     いつも好きなことを書いているように思われているらしいが、こちらはこちらで苦労がある。
     まず、これでも遠慮しながら書いている。2つ目には、原稿を書いてから発行日までのタイムラグによって的外れなものになることがある。3つ目に、「オピニオン」全体のバランスを見、私の個性が出ていて、読者から喜んで読んでいただけるものを書きたい。原発問題を3回続けて書いたくせに。4つ目に、年取って原稿を書くのに時間がかかる。まだまだあるが、本題である。
     私は「十日町・津南地域自治研究所」という小さな会の代表になっている。自治研で6月に「エネルギー問題連続講座」を開き、本紙でも大きく取り上げていただいた。
    講演後、一人の参加者から「学習会でなく運動を始める段階だ」と発破をかけられ、私は7月6日本欄で振り返り記事を書き、「柏崎刈羽原発再稼働は県民投票で」とタイトルを付けた。
     それがいよいよ実現する。11月から「柏崎刈羽原発再稼働の是非を県民投票で決める会」が各市町村で一斉に県民投票条例の制定を求める署名活動に入るのだ。十日町市・津南町でも態勢が整いつつある。
     昨年末に規制委が運転禁止命令を解除してから、国、東電による再稼働準備は急ピッチで進みつつある。柏崎・刈羽の再稼働同意はほぼ間違いない。残るは県の同意だけ。
     花角知事は「県民の信を問う」と繰り返すばかりで、その手法は明らかにしていない。県知事が迷っておられるのなら、県民投票をお勧めしたい。
     この4月、福島第一原発事故の現地を見てきた。大勢の人が故郷に戻れず、強制避難区域9町村の産業は立ち直れない。770㌧のデブリのほんの数グラムの取り出しでもたついているようでは廃炉の見通しは暗い。
    この重大事故を見れば、県知事一人の判断、専門家の答申、議会の意見など、空しいばかりだ。
     地方自治とは、自分たちのことは、自分たちで決めること。それには、県民投票しかない。県議会で県民投票条例を作らせるためには、圧倒的な数の署名が必要になる。どうかご協力を。
     また、自治研では11月4日に全国農民運動連合会会長の長谷川敏郎氏を招いて農業講演会を開催する。この地域では農業が主産業で、農業の発展なくして地域の未来はない。全国農民連会長とともにこの地の農業について考えよう。
     別途、ご案内します。

    2024年9月28日号

  • 「昔人間」の嘆きですが…

    言の葉あれこれ

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     8月31日号の、長谷川好文さんの原稿を読んで、思わず共感を覚えた。辛うじて『コクル』、『セカチュウー』は想像できたと思った。でもあとは早速PCで検索、フーン? そうなんだ!短縮、省略さっぱりわからん。
     言葉はその時代時代に生きている文化だから、時の流れと共に変化するのは当然なのは、頭ではわかっているが…こう何もかも短縮・省略、もう一つアルファベット・カタカナでは伝わらないのでは。いや私のような世代だけか。
     そもそも言葉はコミュニケーション(意思疎通)のツール(手段)では?
    意思の疎通ができているとは言い難い。
     過ぎてきた歴史の中では無かった出来事・無かった文化があふれかえっていて、それを言い表すのに言葉・文字が格段に増え、一字一句、正確に話していては、埒が明かぬのかもしれない。
     不確かだが昔、聖書の中の逸話として『バベルの塔』を聞いたことがある。奢り高ぶった人間は、天に届く塔を作り神々に近づこうとした。それを諫めるために、神々は、塔作りをしている人間の言葉をめちゃめちゃにし、話が通じなくした、ということであった。その結果、世界中の言語が、大いに別れ、各国の言語が出来たという。
     人間は頭脳を駆使し、より便利に、より快適に、労することなく、手軽に・楽に何かを手にしようとする。こんなことを続けていると、どんな報いを受けるのだろう。昨今の異常気象も、その一つではないのか。
     バベルの塔同様、天の諫めに思えて仕方がない。現代とは格段に、時の流れが緩やかだった昔が好きだなと思う。
     今年の大河ドラマの平安時代とまではいわないが、明治大正の時代は、人々の行いが穏やかに思える。
     乱暴な言葉を使えば、自ずと行動・暮らし方が乱暴になる。戦中戦後のすさんだ時代は、言葉も荒んでいた。言葉の使い方で、暮らしぶりも、品性も変わる。
     つい先日〈サクッと〉〈もふもふ〉〈まったり〉を使う人が多くなってきたと紙上にあった。世界がどんどん広がるのだから、表現も広がるということか?時の流れに乗れるとは到底思えない。
     唱歌〈椰子の実〉がこよなく好きだ。同じ情感を覚えるのは〈演歌〉の歌詞が胸を打つ。流行語は使えなくても、美しい日本語を大切に、心豊かに暮らしたいと思う。
     昔人間の時間は、ゆっくり流れているものね。

    2024年9月21日号

  • インターバル速足のすすめ

    健康寿命とは

    村山 朗 (会社員)

     日本人男性の平均寿命は81・41歳、健康寿命は72・68歳だそうです。後期高齢者間近の筆者にとっては毎日の健康が関心事ですし、やはり気になるのは健康寿命です。厚生労働省の定義では、「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」とのこと。今のところ健康診断でいくつかイエローカードを出されてはいますが、日常生活が制限されることなく生活できています。 
     健康寿命を延ばすには、「①バランスの良い食事を意識する②運動習慣を持つ③検診で生活習慣病の早期発見・重症化予防に努める④喫煙をやめる⑤適正な体重を保つ⑥ストレスの少ない生活を目指す⑦社会的なつながりを構築する」だそうです。
     筆者はタバコを吸わないのでその点だけは問題ないですが、どれもこれも簡単にできそうにもなく、それだけでストレスです。特に難しいのが、運動習慣を持つこと。簡単そうに見えるウォーキングは、1日1万歩やらないと効果はないとこれまで言われており、そう思うだけで一歩が踏み出せません。ジムはお金がかかるし。
     そんな中で出会ったのが「ウォーキングの科学」という本です。信州大学元教授の著者・能勢博氏は前書きで「ウォーキングは健康に良い、ということは誰でも知っているが、どれぐらいの速度で、どれぐらいの頻度で、どれくらいの時間行えば、どんな効果が得られるのか、という疑問について明確に答えられる方は少ない」と述べています。詳しくは本書に譲るとして、「普通」に歩く1万歩はほとんど効果が得られない、という衝撃の事実も証拠に基づいて語られています。
     「インターバル速歩」とはごく大雑把に言うと3分間速足で歩き、そのあとゆっくりと3分間歩く、これを繰り返すこと。1日30分でいいのです。毎日でなくても構いません。著書の研究によれば「インターバル速歩」を行えば短時間で、体の負担も少なく、さほどお金もかけずに筋力の向上(体力の向上)が可能だそうです。
     著者は松本市と提携して「インターバル速歩」を実施群と非実施群に分け、1年以上の実証実験を行い、「インターバル速歩」が生活習慣病の防止に役立つことを証明しています。
     秋田県の由利本荘市では平成27年から「歩いてのばそう!! 健康寿命」を合言葉に「インターバル速歩」を導入し、その実施状況は由利本荘市のホームページで詳しく紹介されています。何でも三日坊主になりがちな筆者ですが、続けられるような気がします。

    2024年9月14日号

  • 老舗ホテルの一部を学生寮に

    大学とまちづくり

    清水 裕理 (経済地理学博士)

     前回に続き、新潟県三条市に設立された三条市立大学に関連して、「大学とまちづくり」について、書いてみたいと思います。
     三条市立大学は「ものづくり」に特化した大学で、入学の倍率が5倍を超える人気となっています。自治体や企業からの支援がいくつかあり、学生が三条市の旧市街地に住む場合は、自治体からの家賃援助があります。
     私は燕三条に出張で行く際、その三条市の旧市街地にあるホテルを定宿としているのですが、周りは高齢化が進んでいるのでしょう、年々お店の閉店や空き地が増え、その流れはまだ変わっていないかもしれないのですが、今年くらいから、明らかに道を歩いたり自転車に乗ったりしている若者の姿が目立って増えてきました。それによって、まちに少しずつ活気が出てきたように感じます。
    学生たちは、町内会の消防団やお祭りなどのイベントにも参加しているとのことでした。そのような経験がしたくてもできない都会出身の若者たちなど、積極的に経験をしてみたいと希望する若者も一定割合いると想像します。
     まちの方々に聞くと、最近の若者は挨拶もして礼儀正しいと、うれしそうに語っていらっしゃったのが印象的でした。
     私の定宿としているホテルは老舗で、燕三条の歴史をずっと見てきたホテルです。燕三条の全盛期は多くのバイヤーで溢れ、それはすごい活気だったと思います。それに比べると、訪問者は減り、最近のコロナも経営の打撃となったはずです。
     そのような状況を乗り越えようと、市内に大学ができ、先に紹介した学生への支援が始まったこともあり、ホテルの一部を学生寮にするという判断をされました。
     今までのホテルの部屋をなるべくそのまま活かし、無理なリフォームをせず、必要な設備は自治体の既存のチャレンジ補助金などを活用しコインランドリーを増強するなどして、工夫をされています。平日の朝と晩の美味しい食事も提供されます。
     そして、目には見えない点ですが、ホテルの従業員の方が、学生との日常のやりとりのなかで、旧市街地での生活に馴染めるようにフォローをしている様子が、ところどころに窺えました。
     ホテルの建物の活用に加え、ホテルのもつホスピタリティが、そのようなところに、さりげなく発揮されていることは素晴らしいと思いました。 そして、「大学とまちづくり」において、まちの拠点となり、まちと学生をつなぐ重要な役割を果たされていると感じました。

    2024年9月7日号

  • コクる、レベチも、セカチューも、マグルも知らない

    世代間ギャップ、どうするジジババ

    長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

     昔になるが、山口県の友人と広島県尾道で落ち合い瀬戸内海に浮かぶ小さな島を訪ねた。その時、尾道で居酒屋に入って久しぶりに思い出話に花を咲かせていた。
     酔った勢いで若いアルバイトのお姉さんに「あの、寅次郎って知ってる」と余計なことを聞いた事があった。思えば失礼な話だが、お姉さんは「しらない」と答えた。おどろいて「男はつらいよのフーテンの寅だよ」と聞き直したが、やはり知らないという。
     少しおどろいた。今時の人は常識がないなと感じながらホテルに帰った。いま思うとあれは知っていても答えるのが面倒で知らない人と関わりたくないと云うことだと気がつくのだが、ジジババが入った今の私は逆に若い人の常識的な知識がまったくわからない。
     飲み屋に座って隣から聞こえてくる(レベチもコクるもセカチューもマグルも)分からない。オタクというのは分かるが、そこから進化した新しい言葉が分からない。オタクという人たちが話す漫画の名前も鉄腕アトムやウルトラマンあたりまでは分かるが、逆に「おじいさん レベチって分かる」と聞かれたら答えようがない。
     事ほどさように時代の変化を実感することになる。「勉強してなかったからな〜」。
     もっとも私の若かった時、夢中になって覚えたこむずかしい知識などは、今の多くの人にとっては関心がなく、急速に進む時代に取り残されているのは、ジジババが入った私だったのかと感じてしまった。
     夢中になって競争するように覚え読んだのだがそれら作家の名前や作品、映像の記憶や美術館で見た絵画などは、今の人達にとってはどうでもよいことで、それを大切に知識や常識だと思っている私がすでに無知識、非常識なのだと感じるようになった。
     パソコンやスマホの知識だって、今時の小学生より劣っている。こうして時代は進んで行き、ページがめくられて高齢者たちは別人格としてくくられていくのだろう。
     もっとも時代が進んで若者に私と同じようなジジババが入ってくるときに、ページがめくられて終わった人たちとして、ひとかたまりにくくられて行く。
     世代間のギャップは常時更新されて行くのは当たり前のことで、そうなると今のジジババたちは旧世代人として、より古いものを抱え込んでいくしかないのだろう。
     面白いもので私の親の世代も自動車が身近になっておどろき、各家庭に電話がひけておどろき、パソコンの出現におどろきしたのだ。
     ただ残念なのはノーベル文学賞の川端康成も大江健三郎も知識として残るだけで、文体もその生き方も記憶の外にはみ出して行ってしまうことだ。
     おもえばずいぶんと呑気な時代を過ごさせてもらった。私としてはコクる、レベチ、セカチューも知らない世代の中に耽溺して平和な時代が続くことを願いつつ、死神が脇に立って「お前の番だよ」と告げられて、最後の時を迎えた方がストレスがなくて十分幸せということだと思い至った。 池波正太郎やつげ義春や海音寺潮五郎の小説本を引っ張り出して、老眼鏡を杖に、その時まで酒もタバコも再開して生きてやるしかないだろう。
     ときに「コクる」は告白することだって!

    2024年8月31日号

  • 清津峡アート作品も泥んこに?

    清津峡流域に堰堤計画

    藤ノ木信子 (清津川に清流を取り戻す会)

     清津川流域では、台風のたびに上流の電源開発二居ダムの放流と降雨量が相まって、下流集落の川沿いの家は自主避難する。この増水濁流の流れを変えるため? 湯沢砂防事務所は集落周辺の護岸床固と本流にスリットが入った堰堤をセットで造る計画を進めている。
    スリットが入ったダムや穴あきダムは近年全国で多く造られて、堆砂しない流水型構造物とされているが本当にそうなのか? つくば市の日本工営には30分の1の清津川の模型が作られていて、そこに砂と水を流して実験し、「この通り集落のあるところは水流が変わって安全になる」と言う説明だが、私は堰堤より上流の土砂の堆砂が多くなることを懸念している。 
     清津川はすさまじく土砂供給量が多い川だからだ。この欄でも以前書いたが湯沢の山中、東電の取水施設がある清津川上流では、旧建設省が造った堰堤の上流1・5㌔に渡り砂利が溜まり河原砂漠になっている。
     そのため河床が上がり山脚が削られて、今ではテトラポットを並べたり、蛇篭でピラミッドを造ったりして山崩れを押さえざるを得ない。東電の取水ダムも深く砂利に埋まっている。
     川の流れを止めるものを造ると、それより上流はたちまち砂利で埋まる。溜まるのは砂利だけではい。写真①は山形県庄内市の土内川砂防ダムだが、溜まった泥の悪臭で住民が楽しみにしていた芋煮会ができなくなったそうだ。県はダムにスリットを切ったが悪臭はほとんど改善されず水が淀んでいる。上流には景勝地があったが埋まって価値が損なわれたということ。
     次の写真②は先月の山形水害直後の小国川ダム(流水型穴あきタイプ)のものだが、水が穴に押し寄せ、水圧が高くなり流木や木の葉を吸い寄せて詰まり、そのため上流部で膨らんだ水で被害が出ている。堰堤があるために流速が落ちるので、普通は溜まらない細かな泥が道路を埋めている(写真③)。
     人が考えるように都合よく川は流れてくれない。清津川にスリット堰堤を造ると同じように上流は河床が上がり、市の大切な収入源になっているアート作品も泥んこになるのかなと思っている。
     清津峡は国立公園特別地域に指定されていて、自然公園法20条では「河川、湖沼等の水位又は水量に増減を及ぼさせること」をするときは環境大臣の許可が必要になる。
     たとえ堰堤の位置が国立公園外でもそれを造ることで、今までなかった影響が特別地域に及ぶ可能性があるなら湯沢砂防事務所は一考しなければならない。(実際、私たち住民は建物の色や材質、自動販売機の色まで細かな制約を受けていて、そうして風致を守っているのだから)。この問題、また続報を書こう。

    2024年8月24日号

  • 垣間みえた日本の立ち位置

    長崎・平和式典で

    斎木 文夫 (年金生活者)

     8月は鎮魂の月。今年の広島市の平和記念式典と長崎市の平和祈念式典では大きな違いが出た。広島市は、イスラエルを招待し、パレスチナを招待しなかった。長崎市はその逆である。その結果日本を除くG7とEUの駐日大使は長崎市の平和祈念式典に出席せず、格下の公使らを送った。
     長崎市の鈴木市長は、政治的な理由ではない、抗議活動など不測の事態が起きる可能性を考え招待しなかったと説明した。長崎市は6月に「即時停戦」を求める書簡をイスラエルに送り、状況が改善すれば招待すると伝えていたという。
     イスラエルのガザ攻撃は今も続いている。学校や病院などへの攻撃もやまず、4万人に上る犠牲者の大半は子どもや女性である。イスラエルが主張する「自衛権」を逸脱しており、国連事務総長も「明確な国際人道法違反」と強く非難している。
     長崎市の平和祈念式典は、この地を人類最後の戦争被爆地にと誓い、市民を無差別に殺りくする核兵器の非人道性を訴えてきた。市民を虐殺している国は招待しないという長崎市の判断は筋が通っている。
     ロシアを非難する一方でイスラエルを擁護・支持する米欧の姿勢こそが二重基準で、中東諸国を含む「グローバル・サウス」との間には大きな溝が生じている。それは、米欧が望むウクライナに対する国際協力を困難にするともいわれている。
     ロシアもイスラエルも分け隔てなく招待すべきだったという意見、米欧の対応は大人げないという意見、せめて原爆を投下した米国大使からは出席してもらいたかったという声など、町の声も様々だった。
     私は、主催者である長崎市や長崎市民の意向が最優先されるべきと思う。情けないのが日本政府だ。外務省は水面下で長崎市に、イスラエルを招待するよう働きかけていたという。
     昨年9月、国連総会で「核軍縮は、被爆地広島出身の私のライフワークです」と演説した岸田首相、あなたは、お友達のG7の6カ国とEUに大使出席を働きかけるべきではなかったか。
     ついでに一言。一昨年9月の国連総会一般討論演説で「日本は、国際社会における法の支配を推進する国連の実現に尽力する」と述べた岸田首相、あなたが「国際社会における法の支配」と言うのは、ロシア非難、中国牽制の場面だけのような気がします。イスラエルによるパレスチナ入植、ガザ侵攻の文脈の中でも使ってみませんか。

    2024年8月17日号

  • 一年一年積み重ね、「健気な幸せ」を

    七十九年を考える

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     六月のオピニオン担当では沖縄戦のことを書いた。そして八月六日は広島、九日は長崎に原爆が投下された。十五日は敗戦の日。いずれも七十九年前。特別な行動をするわけでもない。
     かつては平和集会に出かけたり、署名運動に参加したりもしたが、昨今は何ら行動していないのを面目ない思いでいる。只々、毎年毎年、鎮魂の思いで八月の日々を書き続けている。
     私が何をしなくても各地で鎮魂の供養を一年一年続けていくうちに、七十九年は『戦』のない世の中が続いている。戦争体験世代が少なくなっていくのは自明の理だが、精いっぱい『戦』はだめだ、と言い続けることを止めてはならないと強く思っている。
     いろんな形で記録は積み重なっていく。時の政府に都合が悪くても、報道されなくても、新聞記事として、映画や文学・音楽・演劇あらゆる手段で記録は残される。
     残された記録を次の世代がどう学び、どう生かして行くのかが問われる。
     体験した者として、折に触れて書き残し、語り継いだつもりだが、どこまで伝わったのだろう。
     戦火の中を逃げまどい、幸い生き残った我々も、戦地で無念の死を迎えた父たちも、願ったことはただ一つ『戦』の無い世の中に一日も早くなってほしいと願っただけだった。
     欲望を言い募るときりがないが、ただただ、穏やかな日々が続くことだけだった。ささやかで健気な願いだ。それでいて、とてつもなく大変な願いであることがよくわかる。 
     いまも大きな戦争が世界中に少なくない。皆どうして? なぜ止められない? と思っているのに、エスカレートしている。世の中は高度に進化し、便利な世の中になっているはずなのに、どんどん悪くなっていくのは何故?
     朝ドラを見ている。新しい憲法が発布され、今日よりは明日、よりよい日になるような気がしていた時代。自分の来し方とダブる。ささやかな喜びを見つけては、幸せを実感していた。無いない尽くしの日々、思いがけず手に入ったキャラメルを娘さんと、大切に大切に味わうシーンで、宝石でも扱うがごとき幸せな表情、よくわかる。
     なんでも比較的たやすく手に入る現代では味わえない本当の幸せかも!
    細やかで健気な幸せは、一人一人がしっかり守り育てて、少しずつお隣にひろげていくしか無いのかもしれない。

    2024年8月10日号

  • カメムシ対策、農学部教授の教え

    ベンガラの効能

    長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

     秋山郷に来て30年近くが過ぎた。春と秋の二度ここでカメムシにいじめられ続けていた。伊勢湾台風後に、防風用に植えられ大きく成長した杉に囲まれた一軒家に昨年まで暮らし、中津川対岸の百㍍ほど先に昔からの旅館「仁成館」があるばかりで、川をはさんで共にカメムシには苦しめられていた。
     中津川右岸の宿は季節ごとの登山客、釣り客、湯治客で雪のない時期は忙しくしていた。私のところはひとり暮らしの古い家で、木端葺きの上にトタンを張った屋根で、秋口になると風のない穏やかな日、カメムシが湧き出すように飛んでくるのだ。ヤマトクサギカメムシと呼ばれていた。この虫が廊下一面にへばりつき触ろうものならとにかく臭く、皮膚に触れると痛く肝を冷やしたものである。
     そのうち「しょうがない」と観念すると、何となくどうにかなってしまうものなのか、その臭いにも慣れてしまったようで、まっ諦めたのだろう。この辺りの人と同じように掴まえた虫をストーブに放り込んだり、自家製のペットボトルに灯油を少し入れて投げこんだりしていた。虫が動く秋や春にはそれぞれ5、6㌔ほどの虫を取ったものである。
     近頃になって旧仁成館も住む人がいなくなると、どうにも中津川左岸の一軒家でのひとり暮らしが面倒になり、対岸の集落で家を探し、見つけて改修工事をし移転をしたのが昨年のことで、そこも同じように虫の多いところだと聞いていた。
    工事が終わって外壁のペンキを選んだのだが、目立たない小さな家でもあり、派手だったがベンガラの塗料を塗ることにした。家は小さな赤い家となって、それなりの存在感を嬉しく感じた。
     昨年の今頃だが、隣の人がやって来て「ここには虫がいないな! みんなワシのところに来てしまったようだ」と笑っていた。そう言われて、はて! と考えると、確かにここではカメムシを見ないと感じた。人とは勝手なもので、ここで虫に気がつかないことに気がついた。見ぬもの清である。外壁に塗布したベンガラの塗料を虫が嫌ったように思えた。
     さて、そうなると今年の秋に飛んでくる虫を強く意識することになる。そこで昨年のベンガラ塗料を取り寄せて考えるのだが、塗れば来ないと言うほど単純ではないだろと、科学する頭がない私にはその先が解らなかった。友人の農学部で教鞭をとる先生に訊くと「ベンガラは酸化鉄で、つまり鉄さびで木材を丈夫にし乾燥すると害虫やカビなどを防ぐ」と言う。塗布した表面が㏗12ほどのアルカリ性となるので酸性域を好む虫は寄り付きにくくなるとも言う。虫が酸性域を好むのかは分からないが、加えるに伝統技術的の柿渋と混ぜて使うとより効果的だろうとも御教授頂けた。
     それならハッカ油なども良いのだろうと検証をしてみることにした。大きめのタッパーに仕切りを立て、塗料を塗布した板と白木の板を別々に置くのだ。飛びくる虫を素手で捕まえては放り込んでおよそ50匹ほども入れて観察してみると、当日から虫は白木の方に集まってベンガラ色の板には数匹の虫を見るだけになった。
     まだまだ観察は続けるが確かにカメムシに対しては効果があるように思えた。昨年塗った外壁が今年も効果が続くのかと気を揉むのだが、な〜に虫が寄って来れば、またベンガラを塗るだけだ!こうなればひとつ、昔年の恨みを晴らしてみようと思った。
     ただ、その矢先2回目の脳梗塞の患者となった私がいた!

    2024年10月12日号

  • 「どうしてここに?」、崩壊地の直下

    清津峡 スリット堰堤計画

    藤ノ木信子 (清津川に清流を取り戻す会)

     前回の続き…湯沢砂防事務所の清津川治水事業は、私には「はて?」と引っかかる点が多くて困っている。ホームページには「清津峡渓流保全工の推進」として上がっているが、H26年の現地調査から10年過ぎても現地は何も変わっていない。つくば市の日本工営には流域住民が頼んだ訳ではないのに巨大な模型を作って実験し、住民に見学させてくれる。どうしてこんなに時間や手前をかけているのかな?  サクサク造ってしまうと大人の都合上うまくないのだろうか?同じ砂防事務所の他の現場のスピード感と違いが明らかなので、「そう(・・)いう(・・)案件」と私は思っている。この事業が完成するまでには更に5年はかかるとのこと。(その間ずっと住民の安全は現状のままだけど…)
     それにスリット堰堤を造る場所も「どうしてここ?」と引っかかる。計画されている堰堤の位置は、小出・葎沢集落の上流の清津峡との間で、右岸は地元ではのげま(抜けるところと言う意味)と呼ばれている崩壊地の直下だ。この辺りは太古の昔マグマが冷えて固まった岩塊(清津峡側)とグリーンタフという海底火山の火山灰の堆積層(下流側)との境目で地質が不安定なのに…で更に左岸は公園トンネルを掘った土を積み上げたズリなのだ。堰堤を造ることで水位が上って、もろい山脚がやっかいなことになるんじゃないか? 素人の私でも心配になってしまう。土木の専門家はどう考えているか説明してほしい。
     でも私が特大の? マ
    ークをつけた疑問点は、「スリット堰堤と集落付近の護岸工事をセットにしないと治水効果がない」という説だ。実はこの堰堤のスリットの幅は4mもある。両端にコンクリートの壁があって真ん中は水も土砂も流木も流れる。はて? これ造る意味あるの? 同じことを河川工学の先生は言われていて、砂防ダムに頼らず護岸工事を主体にしたいと。どこかにこのセットでの治水方法の先駆的な例があったら見に行きたい。
     写真は大正時代の清津峡入り口付近。竿を使って飛び移っていた大きな岩は今ではとても小さくなっている。欠けたり砂利で埋まったからだ。うちの裏も以前は深い淵だったが今は随分浅くなっている。小出集落付近はどこも河床が上がっている。川の在り様はいつも同じでなく変化する。無限に運ばれてくる大量の砂利は速やかに下流に流したい。だから川を横断する構造物はできるだけ造らないでほしい。次回は他の治水手段はないの? の考察をしてみよう。

    2024年10月5日号

  • 大事なことは自分たちで決める

    再び、原発再稼働を問う

    斎木 文夫 (年金生活者)

     いつも好きなことを書いているように思われているらしいが、こちらはこちらで苦労がある。
     まず、これでも遠慮しながら書いている。2つ目には、原稿を書いてから発行日までのタイムラグによって的外れなものになることがある。3つ目に、「オピニオン」全体のバランスを見、私の個性が出ていて、読者から喜んで読んでいただけるものを書きたい。原発問題を3回続けて書いたくせに。4つ目に、年取って原稿を書くのに時間がかかる。まだまだあるが、本題である。
     私は「十日町・津南地域自治研究所」という小さな会の代表になっている。自治研で6月に「エネルギー問題連続講座」を開き、本紙でも大きく取り上げていただいた。
    講演後、一人の参加者から「学習会でなく運動を始める段階だ」と発破をかけられ、私は7月6日本欄で振り返り記事を書き、「柏崎刈羽原発再稼働は県民投票で」とタイトルを付けた。
     それがいよいよ実現する。11月から「柏崎刈羽原発再稼働の是非を県民投票で決める会」が各市町村で一斉に県民投票条例の制定を求める署名活動に入るのだ。十日町市・津南町でも態勢が整いつつある。
     昨年末に規制委が運転禁止命令を解除してから、国、東電による再稼働準備は急ピッチで進みつつある。柏崎・刈羽の再稼働同意はほぼ間違いない。残るは県の同意だけ。
     花角知事は「県民の信を問う」と繰り返すばかりで、その手法は明らかにしていない。県知事が迷っておられるのなら、県民投票をお勧めしたい。
     この4月、福島第一原発事故の現地を見てきた。大勢の人が故郷に戻れず、強制避難区域9町村の産業は立ち直れない。770㌧のデブリのほんの数グラムの取り出しでもたついているようでは廃炉の見通しは暗い。
    この重大事故を見れば、県知事一人の判断、専門家の答申、議会の意見など、空しいばかりだ。
     地方自治とは、自分たちのことは、自分たちで決めること。それには、県民投票しかない。県議会で県民投票条例を作らせるためには、圧倒的な数の署名が必要になる。どうかご協力を。
     また、自治研では11月4日に全国農民運動連合会会長の長谷川敏郎氏を招いて農業講演会を開催する。この地域では農業が主産業で、農業の発展なくして地域の未来はない。全国農民連会長とともにこの地の農業について考えよう。
     別途、ご案内します。

    2024年9月28日号

  • 「昔人間」の嘆きですが…

    言の葉あれこれ

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     8月31日号の、長谷川好文さんの原稿を読んで、思わず共感を覚えた。辛うじて『コクル』、『セカチュウー』は想像できたと思った。でもあとは早速PCで検索、フーン? そうなんだ!短縮、省略さっぱりわからん。
     言葉はその時代時代に生きている文化だから、時の流れと共に変化するのは当然なのは、頭ではわかっているが…こう何もかも短縮・省略、もう一つアルファベット・カタカナでは伝わらないのでは。いや私のような世代だけか。
     そもそも言葉はコミュニケーション(意思疎通)のツール(手段)では?
    意思の疎通ができているとは言い難い。
     過ぎてきた歴史の中では無かった出来事・無かった文化があふれかえっていて、それを言い表すのに言葉・文字が格段に増え、一字一句、正確に話していては、埒が明かぬのかもしれない。
     不確かだが昔、聖書の中の逸話として『バベルの塔』を聞いたことがある。奢り高ぶった人間は、天に届く塔を作り神々に近づこうとした。それを諫めるために、神々は、塔作りをしている人間の言葉をめちゃめちゃにし、話が通じなくした、ということであった。その結果、世界中の言語が、大いに別れ、各国の言語が出来たという。
     人間は頭脳を駆使し、より便利に、より快適に、労することなく、手軽に・楽に何かを手にしようとする。こんなことを続けていると、どんな報いを受けるのだろう。昨今の異常気象も、その一つではないのか。
     バベルの塔同様、天の諫めに思えて仕方がない。現代とは格段に、時の流れが緩やかだった昔が好きだなと思う。
     今年の大河ドラマの平安時代とまではいわないが、明治大正の時代は、人々の行いが穏やかに思える。
     乱暴な言葉を使えば、自ずと行動・暮らし方が乱暴になる。戦中戦後のすさんだ時代は、言葉も荒んでいた。言葉の使い方で、暮らしぶりも、品性も変わる。
     つい先日〈サクッと〉〈もふもふ〉〈まったり〉を使う人が多くなってきたと紙上にあった。世界がどんどん広がるのだから、表現も広がるということか?時の流れに乗れるとは到底思えない。
     唱歌〈椰子の実〉がこよなく好きだ。同じ情感を覚えるのは〈演歌〉の歌詞が胸を打つ。流行語は使えなくても、美しい日本語を大切に、心豊かに暮らしたいと思う。
     昔人間の時間は、ゆっくり流れているものね。

    2024年9月21日号

  • インターバル速足のすすめ

    健康寿命とは

    村山 朗 (会社員)

     日本人男性の平均寿命は81・41歳、健康寿命は72・68歳だそうです。後期高齢者間近の筆者にとっては毎日の健康が関心事ですし、やはり気になるのは健康寿命です。厚生労働省の定義では、「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」とのこと。今のところ健康診断でいくつかイエローカードを出されてはいますが、日常生活が制限されることなく生活できています。 
     健康寿命を延ばすには、「①バランスの良い食事を意識する②運動習慣を持つ③検診で生活習慣病の早期発見・重症化予防に努める④喫煙をやめる⑤適正な体重を保つ⑥ストレスの少ない生活を目指す⑦社会的なつながりを構築する」だそうです。
     筆者はタバコを吸わないのでその点だけは問題ないですが、どれもこれも簡単にできそうにもなく、それだけでストレスです。特に難しいのが、運動習慣を持つこと。簡単そうに見えるウォーキングは、1日1万歩やらないと効果はないとこれまで言われており、そう思うだけで一歩が踏み出せません。ジムはお金がかかるし。
     そんな中で出会ったのが「ウォーキングの科学」という本です。信州大学元教授の著者・能勢博氏は前書きで「ウォーキングは健康に良い、ということは誰でも知っているが、どれぐらいの速度で、どれぐらいの頻度で、どれくらいの時間行えば、どんな効果が得られるのか、という疑問について明確に答えられる方は少ない」と述べています。詳しくは本書に譲るとして、「普通」に歩く1万歩はほとんど効果が得られない、という衝撃の事実も証拠に基づいて語られています。
     「インターバル速歩」とはごく大雑把に言うと3分間速足で歩き、そのあとゆっくりと3分間歩く、これを繰り返すこと。1日30分でいいのです。毎日でなくても構いません。著書の研究によれば「インターバル速歩」を行えば短時間で、体の負担も少なく、さほどお金もかけずに筋力の向上(体力の向上)が可能だそうです。
     著者は松本市と提携して「インターバル速歩」を実施群と非実施群に分け、1年以上の実証実験を行い、「インターバル速歩」が生活習慣病の防止に役立つことを証明しています。
     秋田県の由利本荘市では平成27年から「歩いてのばそう!! 健康寿命」を合言葉に「インターバル速歩」を導入し、その実施状況は由利本荘市のホームページで詳しく紹介されています。何でも三日坊主になりがちな筆者ですが、続けられるような気がします。

    2024年9月14日号

  • 老舗ホテルの一部を学生寮に

    大学とまちづくり

    清水 裕理 (経済地理学博士)

     前回に続き、新潟県三条市に設立された三条市立大学に関連して、「大学とまちづくり」について、書いてみたいと思います。
     三条市立大学は「ものづくり」に特化した大学で、入学の倍率が5倍を超える人気となっています。自治体や企業からの支援がいくつかあり、学生が三条市の旧市街地に住む場合は、自治体からの家賃援助があります。
     私は燕三条に出張で行く際、その三条市の旧市街地にあるホテルを定宿としているのですが、周りは高齢化が進んでいるのでしょう、年々お店の閉店や空き地が増え、その流れはまだ変わっていないかもしれないのですが、今年くらいから、明らかに道を歩いたり自転車に乗ったりしている若者の姿が目立って増えてきました。それによって、まちに少しずつ活気が出てきたように感じます。
    学生たちは、町内会の消防団やお祭りなどのイベントにも参加しているとのことでした。そのような経験がしたくてもできない都会出身の若者たちなど、積極的に経験をしてみたいと希望する若者も一定割合いると想像します。
     まちの方々に聞くと、最近の若者は挨拶もして礼儀正しいと、うれしそうに語っていらっしゃったのが印象的でした。
     私の定宿としているホテルは老舗で、燕三条の歴史をずっと見てきたホテルです。燕三条の全盛期は多くのバイヤーで溢れ、それはすごい活気だったと思います。それに比べると、訪問者は減り、最近のコロナも経営の打撃となったはずです。
     そのような状況を乗り越えようと、市内に大学ができ、先に紹介した学生への支援が始まったこともあり、ホテルの一部を学生寮にするという判断をされました。
     今までのホテルの部屋をなるべくそのまま活かし、無理なリフォームをせず、必要な設備は自治体の既存のチャレンジ補助金などを活用しコインランドリーを増強するなどして、工夫をされています。平日の朝と晩の美味しい食事も提供されます。
     そして、目には見えない点ですが、ホテルの従業員の方が、学生との日常のやりとりのなかで、旧市街地での生活に馴染めるようにフォローをしている様子が、ところどころに窺えました。
     ホテルの建物の活用に加え、ホテルのもつホスピタリティが、そのようなところに、さりげなく発揮されていることは素晴らしいと思いました。 そして、「大学とまちづくり」において、まちの拠点となり、まちと学生をつなぐ重要な役割を果たされていると感じました。

    2024年9月7日号

  • コクる、レベチも、セカチューも、マグルも知らない

    世代間ギャップ、どうするジジババ

    長谷川 好文 (秋山郷山房もっきりや)

     昔になるが、山口県の友人と広島県尾道で落ち合い瀬戸内海に浮かぶ小さな島を訪ねた。その時、尾道で居酒屋に入って久しぶりに思い出話に花を咲かせていた。
     酔った勢いで若いアルバイトのお姉さんに「あの、寅次郎って知ってる」と余計なことを聞いた事があった。思えば失礼な話だが、お姉さんは「しらない」と答えた。おどろいて「男はつらいよのフーテンの寅だよ」と聞き直したが、やはり知らないという。
     少しおどろいた。今時の人は常識がないなと感じながらホテルに帰った。いま思うとあれは知っていても答えるのが面倒で知らない人と関わりたくないと云うことだと気がつくのだが、ジジババが入った今の私は逆に若い人の常識的な知識がまったくわからない。
     飲み屋に座って隣から聞こえてくる(レベチもコクるもセカチューもマグルも)分からない。オタクというのは分かるが、そこから進化した新しい言葉が分からない。オタクという人たちが話す漫画の名前も鉄腕アトムやウルトラマンあたりまでは分かるが、逆に「おじいさん レベチって分かる」と聞かれたら答えようがない。
     事ほどさように時代の変化を実感することになる。「勉強してなかったからな〜」。
     もっとも私の若かった時、夢中になって覚えたこむずかしい知識などは、今の多くの人にとっては関心がなく、急速に進む時代に取り残されているのは、ジジババが入った私だったのかと感じてしまった。
     夢中になって競争するように覚え読んだのだがそれら作家の名前や作品、映像の記憶や美術館で見た絵画などは、今の人達にとってはどうでもよいことで、それを大切に知識や常識だと思っている私がすでに無知識、非常識なのだと感じるようになった。
     パソコンやスマホの知識だって、今時の小学生より劣っている。こうして時代は進んで行き、ページがめくられて高齢者たちは別人格としてくくられていくのだろう。
     もっとも時代が進んで若者に私と同じようなジジババが入ってくるときに、ページがめくられて終わった人たちとして、ひとかたまりにくくられて行く。
     世代間のギャップは常時更新されて行くのは当たり前のことで、そうなると今のジジババたちは旧世代人として、より古いものを抱え込んでいくしかないのだろう。
     面白いもので私の親の世代も自動車が身近になっておどろき、各家庭に電話がひけておどろき、パソコンの出現におどろきしたのだ。
     ただ残念なのはノーベル文学賞の川端康成も大江健三郎も知識として残るだけで、文体もその生き方も記憶の外にはみ出して行ってしまうことだ。
     おもえばずいぶんと呑気な時代を過ごさせてもらった。私としてはコクる、レベチ、セカチューも知らない世代の中に耽溺して平和な時代が続くことを願いつつ、死神が脇に立って「お前の番だよ」と告げられて、最後の時を迎えた方がストレスがなくて十分幸せということだと思い至った。 池波正太郎やつげ義春や海音寺潮五郎の小説本を引っ張り出して、老眼鏡を杖に、その時まで酒もタバコも再開して生きてやるしかないだろう。
     ときに「コクる」は告白することだって!

    2024年8月31日号

  • 清津峡アート作品も泥んこに?

    清津峡流域に堰堤計画

    藤ノ木信子 (清津川に清流を取り戻す会)

     清津川流域では、台風のたびに上流の電源開発二居ダムの放流と降雨量が相まって、下流集落の川沿いの家は自主避難する。この増水濁流の流れを変えるため? 湯沢砂防事務所は集落周辺の護岸床固と本流にスリットが入った堰堤をセットで造る計画を進めている。
    スリットが入ったダムや穴あきダムは近年全国で多く造られて、堆砂しない流水型構造物とされているが本当にそうなのか? つくば市の日本工営には30分の1の清津川の模型が作られていて、そこに砂と水を流して実験し、「この通り集落のあるところは水流が変わって安全になる」と言う説明だが、私は堰堤より上流の土砂の堆砂が多くなることを懸念している。 
     清津川はすさまじく土砂供給量が多い川だからだ。この欄でも以前書いたが湯沢の山中、東電の取水施設がある清津川上流では、旧建設省が造った堰堤の上流1・5㌔に渡り砂利が溜まり河原砂漠になっている。
     そのため河床が上がり山脚が削られて、今ではテトラポットを並べたり、蛇篭でピラミッドを造ったりして山崩れを押さえざるを得ない。東電の取水ダムも深く砂利に埋まっている。
     川の流れを止めるものを造ると、それより上流はたちまち砂利で埋まる。溜まるのは砂利だけではい。写真①は山形県庄内市の土内川砂防ダムだが、溜まった泥の悪臭で住民が楽しみにしていた芋煮会ができなくなったそうだ。県はダムにスリットを切ったが悪臭はほとんど改善されず水が淀んでいる。上流には景勝地があったが埋まって価値が損なわれたということ。
     次の写真②は先月の山形水害直後の小国川ダム(流水型穴あきタイプ)のものだが、水が穴に押し寄せ、水圧が高くなり流木や木の葉を吸い寄せて詰まり、そのため上流部で膨らんだ水で被害が出ている。堰堤があるために流速が落ちるので、普通は溜まらない細かな泥が道路を埋めている(写真③)。
     人が考えるように都合よく川は流れてくれない。清津川にスリット堰堤を造ると同じように上流は河床が上がり、市の大切な収入源になっているアート作品も泥んこになるのかなと思っている。
     清津峡は国立公園特別地域に指定されていて、自然公園法20条では「河川、湖沼等の水位又は水量に増減を及ぼさせること」をするときは環境大臣の許可が必要になる。
     たとえ堰堤の位置が国立公園外でもそれを造ることで、今までなかった影響が特別地域に及ぶ可能性があるなら湯沢砂防事務所は一考しなければならない。(実際、私たち住民は建物の色や材質、自動販売機の色まで細かな制約を受けていて、そうして風致を守っているのだから)。この問題、また続報を書こう。

    2024年8月24日号

  • 垣間みえた日本の立ち位置

    長崎・平和式典で

    斎木 文夫 (年金生活者)

     8月は鎮魂の月。今年の広島市の平和記念式典と長崎市の平和祈念式典では大きな違いが出た。広島市は、イスラエルを招待し、パレスチナを招待しなかった。長崎市はその逆である。その結果日本を除くG7とEUの駐日大使は長崎市の平和祈念式典に出席せず、格下の公使らを送った。
     長崎市の鈴木市長は、政治的な理由ではない、抗議活動など不測の事態が起きる可能性を考え招待しなかったと説明した。長崎市は6月に「即時停戦」を求める書簡をイスラエルに送り、状況が改善すれば招待すると伝えていたという。
     イスラエルのガザ攻撃は今も続いている。学校や病院などへの攻撃もやまず、4万人に上る犠牲者の大半は子どもや女性である。イスラエルが主張する「自衛権」を逸脱しており、国連事務総長も「明確な国際人道法違反」と強く非難している。
     長崎市の平和祈念式典は、この地を人類最後の戦争被爆地にと誓い、市民を無差別に殺りくする核兵器の非人道性を訴えてきた。市民を虐殺している国は招待しないという長崎市の判断は筋が通っている。
     ロシアを非難する一方でイスラエルを擁護・支持する米欧の姿勢こそが二重基準で、中東諸国を含む「グローバル・サウス」との間には大きな溝が生じている。それは、米欧が望むウクライナに対する国際協力を困難にするともいわれている。
     ロシアもイスラエルも分け隔てなく招待すべきだったという意見、米欧の対応は大人げないという意見、せめて原爆を投下した米国大使からは出席してもらいたかったという声など、町の声も様々だった。
     私は、主催者である長崎市や長崎市民の意向が最優先されるべきと思う。情けないのが日本政府だ。外務省は水面下で長崎市に、イスラエルを招待するよう働きかけていたという。
     昨年9月、国連総会で「核軍縮は、被爆地広島出身の私のライフワークです」と演説した岸田首相、あなたは、お友達のG7の6カ国とEUに大使出席を働きかけるべきではなかったか。
     ついでに一言。一昨年9月の国連総会一般討論演説で「日本は、国際社会における法の支配を推進する国連の実現に尽力する」と述べた岸田首相、あなたが「国際社会における法の支配」と言うのは、ロシア非難、中国牽制の場面だけのような気がします。イスラエルによるパレスチナ入植、ガザ侵攻の文脈の中でも使ってみませんか。

    2024年8月17日号

  • 一年一年積み重ね、「健気な幸せ」を

    七十九年を考える

    松崎 房子 (元ゆずり葉編集委員)

     六月のオピニオン担当では沖縄戦のことを書いた。そして八月六日は広島、九日は長崎に原爆が投下された。十五日は敗戦の日。いずれも七十九年前。特別な行動をするわけでもない。
     かつては平和集会に出かけたり、署名運動に参加したりもしたが、昨今は何ら行動していないのを面目ない思いでいる。只々、毎年毎年、鎮魂の思いで八月の日々を書き続けている。
     私が何をしなくても各地で鎮魂の供養を一年一年続けていくうちに、七十九年は『戦』のない世の中が続いている。戦争体験世代が少なくなっていくのは自明の理だが、精いっぱい『戦』はだめだ、と言い続けることを止めてはならないと強く思っている。
     いろんな形で記録は積み重なっていく。時の政府に都合が悪くても、報道されなくても、新聞記事として、映画や文学・音楽・演劇あらゆる手段で記録は残される。
     残された記録を次の世代がどう学び、どう生かして行くのかが問われる。
     体験した者として、折に触れて書き残し、語り継いだつもりだが、どこまで伝わったのだろう。
     戦火の中を逃げまどい、幸い生き残った我々も、戦地で無念の死を迎えた父たちも、願ったことはただ一つ『戦』の無い世の中に一日も早くなってほしいと願っただけだった。
     欲望を言い募るときりがないが、ただただ、穏やかな日々が続くことだけだった。ささやかで健気な願いだ。それでいて、とてつもなく大変な願いであることがよくわかる。 
     いまも大きな戦争が世界中に少なくない。皆どうして? なぜ止められない? と思っているのに、エスカレートしている。世の中は高度に進化し、便利な世の中になっているはずなのに、どんどん悪くなっていくのは何故?
     朝ドラを見ている。新しい憲法が発布され、今日よりは明日、よりよい日になるような気がしていた時代。自分の来し方とダブる。ささやかな喜びを見つけては、幸せを実感していた。無いない尽くしの日々、思いがけず手に入ったキャラメルを娘さんと、大切に大切に味わうシーンで、宝石でも扱うがごとき幸せな表情、よくわかる。
     なんでも比較的たやすく手に入る現代では味わえない本当の幸せかも!
    細やかで健気な幸せは、一人一人がしっかり守り育てて、少しずつお隣にひろげていくしか無いのかもしれない。

    2024年8月10日号